‐ 第3話 ‐ 尾澤という男
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
会社に到着し、車のエンジンを切る。ここ数年間で随分と電気自動車が増え、ガソリン車が消えたと、駐車場に並んである車を見て思う。あたしの車は走行距離十万キロを超えた。そろそろ乗り換えなくてはいけないだろうか。
どんな車がいいかと、参考に従業員の車を眺めていると、静かすぎる音で一台の高級車が入ってきた。
運転席には、自動運転に頼って眠そうに腕を組んだ尾澤が乗っている。
意外だった。自分の外見に関心がない尾澤には、不釣り合いだと感じた。その印象から高級車が買える金持ちとも思えなかった。
そうこうしていると、車を停め終えた尾澤が歩いてきた。
「おはようございます」
「……ざす」
辛うじて返事は返ってきたが、それが朝の挨拶とはとても思えない。部署が同じだと向かう道のりも同じで気まずい。かといって、いつまでも人の車を眺めているのも怪しい。
話のネタができたことを頼りに、あたしは思い切って会話に踏み切った。
「車、格好良いですね。好きなんですか?」
「…………別に。電気ならなんでもよかったから、なんとなく」
なんとなくで高級車が買えたものかと、眉が引き釣りそうになったが一呼吸置いた。
「へぇ~。あたしもそろそろ電気に乗り換えようかと思ってて」
「……あぁ、煩いもんね。宇智田さんの車のエンジン音」
目にかかる鬱陶しい前髪の隙間から、尾澤の疎ましそうな顔が見えた。
それ程あたしの車のエンジン音が煩いのか、この会話自体が煩わしいのか、両方なのか。
不愛想なだけで、きっと悪い人ではないのだと思い込み、話し掛けた三十秒前のあたしを哀れに思う。
あたしは意地でも、まだ乗り換えない決意をした。
単調な仕事なので、慣れるのは早かった。自分に与えられた分の仕事を無事に終え、時計は十八時を指そうとしていた。
「腰野さん。あたし終わっちゃったんですけど、何かできることありますか?」
「もう終わったの~。早いじゃな~い」
腰野さんは品質管理部のリーダーだ。気の良い人で何かとよく褒めてくれる。背がとても低くて、おじさんなのに何だか可愛らしい。
「そうだなぁ。今日も尾澤君が残業するだろうから、手伝ってきてくれるかな? 隣の部屋にいると思うんだけど」
「……あぁ、尾澤さんですね。わかりました」
「あれ? ひょっとして、何かあった?」
尾澤という名を耳にしただけで、あたしはぎこちない態度を取ってしまっていたのだろう。腰野さんはキーボードを叩く手を止めて、心配そうな顔をあたし向けた。
「いや、特に何かあったわけではないんですけど」
「あ~、さては苦手でしょ? 彼のこと」
「え? えへっ……まぁ」
腰野さんの人の良さに、あたしはつい本音を出してしまった。
「ちょっと難しい子だからね。でもまぁ……彼にもいろいろあるのよ」
「いろいろ?」
「うん。宇智田さんは入ったばかりだから知らないだろうけど、彼、うちの社長の息子なんだよ」
「えぇ! あっ苗字!」
つい大きな声が出てしまった。
腰野さんは人差し指を立て、静かにするよう促した。十七時で仕事を終える従業員もいて半数は帰ったが、部屋にはあたしと腰野さん以外に数人残っていた。
うちの社長といえば、尾澤寛社長だ。東京本社の研修に行った時、たまたま社長がいて挨拶したのを覚えている。取締役社長という堅苦しさを感じさせない、温厚そうな人物だった。
ここにいる尾澤とは似ても似つかない。
社長の息子だから、あの高級車? 何故本社ではなく京都工場に?
湧いてくる疑問を腰野さんは全て悟り、ほんの少し周りを見渡したあと、小声で教えてくれた。
「彼、尾澤慧君ね。社長の元妻との間の子なんだよ。本社にいる尾澤颯君は今の奥さんとの間の子で、つまり慧君とは腹違いの兄弟なんだけど、颯君が次期社長なんだよ。慧君も最初は勿論本社にいたし、長男だから自分が次期社長だと思っていたんだろう。ところが正式に次期社長は颯君だと発表されたものだから、その時の慧君の心中は察するよ……。会社を辞めるのかと思ったら、どういうわけかこんなところに異動してきてね。ずっとあの調子ってわけなんだ」
注意できない理由はこれだったのか。ママの云っていた通り、理由はあったのだ。
社長の息子を叱るのには誰しも勇気がいるし、確かに、今腰野さんに聞いた話は同情もする。
「その颯君がね、また名前の通り爽やかでできた人らしくてね~」
腰野さんの声は普通の大きさに戻っていた。周りを気にすることなどもう忘れている。
あたしはここにいない尾澤颯の話よりも、尾澤慧の話をもう少し聞きたかった。
隣の部屋に入ると、尾澤は一人黙々と作業をしていた。腰野さんの話を聞いた直後だからだろうか、尾澤の背中が、一人のちっぽけな人間に見えた。
「何か、手伝えます?」
どうせまた、「別に」と返事が返ってくるのだろうと思いながら、横に立って訊ねてみた。半分は帰る気持ちでいた。
「………………じゃあ、地下三階から取ってきてほしい物があるんですけど」
予想していた返事と違い、あたしは一瞬戸惑った。尾澤も人を頼ることがあるのだと、当たり前のことを知った。
「地下三階なんて、行ったことないんですけど」
「大丈夫です。行けばわかるから。地下三階まで下りて突き当りの部屋に入ったら、円柱型の冷凍庫があるから、その中の物を取ってきてほしいんです」
「はぁ……」
「これ、部屋の鍵です。あともう消灯してるから、この懐中電灯を使ってください」
尾澤は引き出しの中から鍵と懐中電灯を取り出し、私に渡した。
この時初めて、尾澤の顔をちゃんと見たかもしれない。
よく見れば整った顔をしている。勿体無い奴だなと思った。
「……何ですか」
顔を見つめすぎた。尾澤の顔には「さっさと行ってこい」と書いてあった。
尾澤が云っていた通り地下は消灯している。三メートル程の間隔で廊下の壁に照明が設置されてはいるが、一人で歩くのには気味が悪い。照明の放つ光が青色というのが、余計に不気味さを際立たせている。あたしは女だとか男だとかを気にしないし、気にするのはママ譲りで嫌いなのだが、「か弱い女の子」なら、一人では来られないだろうと思った。
それほどにこの工場の夜は、恐怖心を掻き立てるものがあった。
地下二階まで来た。冷気が漏れている製品でもあるのか、寒さを感じる。単に気味悪さがそうさせているだけかもしれない。
この時間はエレベーターが使えず、長い階段を下りるしかない。幸い階段にも廊下と同様に照明が設置されているので、尾澤に渡された懐中電灯はまだ必要なさそうだった。
一段一段、階段を下りていると、尾澤の顔が頭に浮かんできた。
尾澤はどうして会社を辞めなかったのだろう。
社長の息子というのは、どんな気持ちなのだろう。
弟に次期社長の座を奪われた気持ちは……?
想像しようにも、あたしとは境遇が違い過ぎて、上手く想像できなかった。
しかしながら、尾澤に持たされた懐中電灯は、妙な形をしている。持ち手は細いのに、レンズがやけに大きい。ライトなんて腕時計のライト機能以外使ったことがなかった。生憎、工場内では腕時計を外すのが規則となっている。
意味などなく、あたしは試しに懐中電灯のスイッチを押してみた。