‐ 第29話 ‐ 彼女が知らない渇望
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
[]内は英語を表しています。
淡路島にもケイトのような欧米人は多くいるが、サングラスを掛けて街中を歩く彼女の姿は際立って美しかった。目立ちたくなくても、ケイトは良い意味で目立ってしまう。
ケイトは護衛という名目があるため気を張ってくれていただろうが、あたしは割と楽しく買い物することができた。歳が近い女同士というのもあるかもしれない。
カフェで飲んだ冷たいルイボスティーのせいで尿意を催し、トイレに駆け込んだ。無論ケイトもあたしに続いてトイレに駆け込む。
「出たところで待っていてくださいね!」
急激な尿意に急ぐ私にケイトがそう云い放ち、答える余裕もなくトイレのドアを直ぐに閉めた。あたしは紅茶を飲んで油断していると直ぐにこうなる。
早々に用を足し手を洗ってトイレを出ると、そこにケイトはおらず、あたしの方が早く出たことがわかった。
壁にもたれてケイトを待っていると、ゆったりとした足取りで、腕時計の地図を頼りに辺りを見渡す外国人が歩いてきた。お腹が大きい。妊婦だ。
道に迷っているようだったので、あたしは声を掛けた。
[何処かに行きたいの?]
女性はあたしを見てパッと顔を明るくした。
[ありがとう。ここの産婦人科クリニックに行きたいんだけど、私ったらとんでもない方向音痴で]
地図を確認すると本当に近くであることがわかった。そこに行けないのだから正真正銘方向音痴だ。あたしの下手な英語の説明よりも、一緒に行ってあげた方が早いと思った。
[すぐそこだわ。一緒に行きましょう]
[ほんとに? あぁ、助かったわ]
女性は大袈裟に胸を撫で下ろした。愛嬌があって話しやすい。
時間はかからないが、ケイトが心配するといけないのでメールだけ送っておいた。
―― 道案内中。すぐ戻るからトイレごゆっくり―― と。
[半年前にアメリカから引っ越してきたんだけど、まだこの辺りのこと全然わからなくて。日本語も旦那は上手なんだけど、私はまだまだ下手]
[そうなのね。赤ちゃんは、何ヶ月なの?]
[もう臨月なの。女の子よ。このままじゃこの子が先に日本語をマスターするわ]
女性は優しくお腹を撫でた。きっと、幸せ一杯なんだろう。
ほんの僅かな会話をしているうちに、もうクリニックの前に着いた。
[ザック! 先に着いてたのね]
女性はクリニックの前に立つ男性のことをザックと呼んだ。どうやら旦那のようで、待ち合わせをしていたらしい。
[この人が道案内してくれたのよ]
[エルはまた迷子になったのか。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした]「ありがとうございます」
ザックは深々とあたしに頭を下げた。女性が云った通り日本語が上手い。訛りは無く、お辞儀まで綺麗だ。
[じゃあね。元気な赤ちゃんを産んでね]
そう云って、あたしは小走りで二人の元を去った。ケイトが待っているといけない。
若くて可愛らしい奥さんだった。きっとあたしやケイトぐらいの歳だろう。
ふと、あたしにもあんな未来があるのだろうかと想像してみたが、自分には無縁と自覚するだけだった。
案の定、ケイトはトイレの前で待っており、ご立腹の様子だった。
「道案内なら私がトイレを出た後でよかったでしょう。それに私は、外ではなくトイレを出た手洗い場のところで待っていてほしかったのです。それに『ごゆっくり』なんて言われたら、私が大きい方をしているようではありませんか」
「ごめんって。すぐ近くだったし困ってたから……。無事に戻ってきたんだからいいでしょ? 次から気をつけるって」
「本当に次はありませんからね」
いい歳をして親に叱られる子どものようだ。悪いのはあたしだが、折角良いことをしたのにと、内心では素直に反省しきれていない。
腕時計を見ると、門限の五時までにはまだ少し余裕があった。
「どうする? まだ時間があるし、勿体ないから何処か行きたいなぁ。ケイトはいつも何処に行くの?」
あたしは少し、ケイトの機嫌を取るような云い方をした。
「……そうですねぇ。美生さんは、まだ胃袋に空きはありますか?」
「うん! あたし一杯食べる人だから」
「それは良かった。私も一杯食べる人なんです。帰る方向に私行きつけのカフェがあるのですが、もう一軒どうでしょう? 元ショコラティエが作るスイーツが絶品なんです。何せ怒ったから甘いものが食べたくて」
ケイトはサングラスを外し、にやりと笑いながら皮肉を云った。
「……根に持つね。じゃ、行こう」
ケイトも案外、楽しんでいそうでなによりだった。
RMSへ戻ると、凱が一目散にあたしの元へ駆け寄ってきた。その顔を見れば、今日がどんなに良い日だったかわかる。
「これオミヤゲ!」
凱は水族館のマークが書かれた紙の小袋をあたしに渡した。
「ケイトにも、オミヤゲだ! 全部俺が選んだんだぜ!」
袋から手のひらに出してみると、小さなキーホルダーがコロンと出てきた。
青い液体に浮かんだ、ピンク色のイルカのキーホルダーだった。
「……ありがとう。すごい、かわいい」
あたしは心の底から嬉しかった。時間を奪われた、あの氷のような少年が今、誰かを思って何かを与えてくれるようになるなんて。
「ケイトのは、何だった?」
「白い、イルカですね」
「違うぜ。ケイトのはスナメリっていうんだ。勇魚が教えてくれた。さっき世良先生のところにも持って行ったんだぜ。王先生って人の分も渡してくれるって」
凱は自慢げに教えてくれた。鮫が一番格好良かったのだと、自分には鮫のキーホルダーを買ったのだと、あたしとケイトに見せてくれた。いつの間に自分のことを俺と云うようになったのだろう。
今日一日凱に付添った勇魚とデックスは疲れているのか、フロアの椅子に腰掛け脱力した様子でこちらを眺めていた。
「お疲れ様。よかったね。あんなに喜んでくれて」
疲れ目の勇魚の隣に座り、声を掛けた。
「それ、俺が買ってやったんだ。感謝しろよ」
「違うだろう。俺の金だ」
デックスが即座に訂正した。
「そうだけど、正しくは俺が提案し、凱が選定し、デックスが金を出したんだ。提案者が一番偉ぇや」
勇魚の腕時計は修理中で、金が払えなかったのだろう。壊れた腕時計一つの身でRMSにやってきて、非常時用の財布もなかったのだから仕方がない。
「やっぱり魚詳しいんだね」
「ん?」
「来る前もジンベイザメがどうとか言ってなかった? あたしの夢かな」
「いや、あれくらいは……」
「勇魚のこと、今、初めて、やっと、尊敬したよ」
「強調するなよ。尊敬したなら敬語を使ったらどうなんだ。俺年上なんだぜ?」
「今更だしどうでもいいよ。それより、勇魚にはキーホルダーないの?」
ケイトと話していた凱が、会話を聞いてこちらにやってきた。
「勇魚のは青いイルカにしたんだ!」
「へぇ、あたしとお揃いじゃん」
「そうだぜ! だって勇魚と美生いつも一緒にいるだろ?」
「……」
返す言葉が直ぐに出なかった。
暫くしてデックスが吹き出したように大声で笑い出し、ケイトまでこちらを見て笑うので、じわじわと恥ずかしさが込み上げ、顔が熱くなっていった。
「いつもは、いないだろ!」
遅れてやっと勇魚が声を発した。あたしは何だか気恥ずかしくなり、勇魚の隣を離れたくなったが、このタイミングで席を立つのはおかしい。大体何故、恥ずかしいなどという気持ちにならなくてはならない? 顔の熱を冷ましたいと思うのに、笑い声のせいで叶わない。
そんな自分自身に困り果てていると、小走りで世良先生がやってきた。
「宇智田さん。王先生からお電話です。僕の腕時計と繋がってますので、よかったらこのまま使ってください」
あたしは飛び上がるようにその場を立ち、世良先生の腕時計を借りて皆の元から離れた。タイミングの良い電話に救われた。
「宇智田さん。ご無沙汰しております。もっと早くにお話ししたかったのですが……申し訳ありません」
王さんの声は弱々しかった。オザワフロンティアで働き始めた頃の声と比べると、それは明らかだった。ここ数日で大きく体調が変化したのだろうか。それとも、もうずっと無理をしていたのだろうか。
「宇智田さんには、本当に申し訳ないことをしたと思っています……」
「大丈夫ですよ。あたしは案外快適に暮らしてますし、それにもう決めたので」
「……決めたとは?」
「RMSと一緒に凱を守ろうと決めたので」
「……巻き込んでおいて、こんなことをお聞きするのはおかしいのですが、宇智田さんは、どうして他人にそこまで……」
――どうして他人にそこまで――
王さんの言葉を頭の中で復唱していた。世の中にはあたしのような奴を珍獣と笑う者もいるだろう。笑っていればいい。考えたところで意味はないのだから。
「あたしも二十五年間生きてきていろいろあったので、もうそういう性分なんです。だから心配しないでください。それよりも、王さんは自分の体を心配してください」
云ってからあたしは自分が何様なんだろうと思ったが、それもそういう性分だった。
「強制のようなものでしたが、あなたにお願いしてよかったと、心から思います」
弱々しくも、身体に染み渡る美しい声だった。あたしも王さんが自分の担当で良かった。
「あの、ちょっとだけ、このまま待っていてくれませんか?」
「? えぇ、わかりました」
長電話はあまり良くないと思ったが、あたしはどうしてもやっておきたいことがあった。
「もしもしぃ? 王先生?」
「…………はい」
「見た? オミヤゲ。見た?」
「……見ましたよ。クマノミですね? 私にまでありがとうございます」
「そう! 元気ないらしいから元気カラーにしたんだ」
「そうだったんですか。それはありがとうございます。おかげで元気が出ます」
「いいよ。え? 外出許可くれてありがとうございますって言えって? だってさ。美生がそう言ってるよ」
「とんでもないです……。あの……凱君、もう一度美生さんに代わってもらえませんか?」
「……なんか今忙しいって! 聞いといてって言われた」
「そうですか……。では、『ありがとう』とお伝えください。それからまた、お話しましょうと。お願いしましたよ?」
「ん! わかった」
「はい」
「じゃあね」
「はい。おやすみなさい……」
電話を切って、凱はあたしの顔を見上げた。
「ありがとう。またお話しましょう。だってさ」
「……うん。その腕時計、そのまま世良先生に返してきてくれる?」
疲れを知らない凱は、医務室まで元気よく駆けて行った。
遠ざかっていく背中は、まだ子どもの背中だ。貴女もどこからか、この背中を見守っているのだろう。
これが貴女にとって、長年戦ってきた中の、大きな一歩だと思いたい。




