‐ 第24話 ‐ 奈落の穴
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
熱心な信者のふりをする男がいた。RMSに情報を持ち帰るためである。
信者たちと寝食を共にし、修業漬けの日々を送っていた。
潜入してから三年が経ち、男は教団内のことを殆ど把握できるようになっていた。三年の月日の間に信者同士の絆ができても、そちら側に引き込まれることは決してなかった。男はプロだった。
しかし未だに判明できていないことが、一つだけあった。手を伸ばせば届きそうでいて届かず、歯痒い思いを胸に押し殺していた。男はそれを判明させるまで、RMSに戻らないと誓っていた。
男は信者たちが寝静まった夜、決行に移った。
総本部から香雲館に忍び込み、停止したエレベーターのロープを攀じ登り、最上階にある展望台の一つ下、ある部屋を目指した。男はその部屋に教祖がいるという情報を、信者から得ていた。
教祖はいつも黒蛙のマスクを被っており、素顔を見せなかった。
信者の自分が崇め讃えている教祖は、傭兵の自分が殺したい敵将である。どちらの自分も教祖の素顔を知らない。男はそれが悔しく、RMSが大鳳教の劣勢にある証拠だと思う。一方的な苦痛を与えられ、その黒幕を知らないでいる。自分などよりも、王はさぞ悔しいだろう。
男は何としても、教祖の素顔をRMSに持ち帰りたかった。
やっとの思いでその部屋のある階まで辿り着き、息を整えてから慎重に潜入した。部屋は殺風景で、壁際に巨大な蛙が描かれた屏風があるだけ。ここは教祖が眠るだけの寝室。屏風の向こう側に、教祖が眠っているに違いない。
男は忍び足で屛風に近づき、顔を覗かせてどきりとする。
楕円の黒い瞳と目が合い、思わず動きを止めた。
一瞬、教祖が起きていると錯覚する。
違う。教祖はマスクを被ったまま眠っているのだけなのだ。
なんとも滑稽で、それでいて悍ましい。
よく眠っている。それが理由にマスクの下からは寝息が聞こえてくる。更に云えば、男は教祖の食事に睡眠薬を混ぜていた。眠っていないはずがない。
素顔を見るにはマスクを外さなければならないが、男は躊躇った。眠っていないはずがないのに、起きるはずがないのに、蛙の目が訴えかけてくる。
――マスクに触れてはならない――
男は間違いなく危険を感じ取った。勘のようなものだが、男は自分の勘に自信があった。
だが今回は引けない。何故ならもう、そこに、顔がある。今も寝息を立てている。止むことをまるで知らない。この音が聞こえる限り、問題は、ない。
ゆっくりと蛙の頭の方持ち、マスクを上にずらした。
教祖の口元が見えた。そして鼻先が見えた。
寝息はまだ続いている。
とうとう教祖の目が見えると唾を飲んだその時、――――遅かった。
しっかりと開かれた両目は男を捉えていた。
瞬時に男が攻撃するよりも早く、教祖は男の腕を掴み、捩じ上げた。
教祖の寝息は演技だった。
男は必死に抵抗するも、教祖の力は恐ろしく強く、振りほどくことは叶わない。
そのまま教祖は男を部屋の中央まで引き釣り、思い切り床に投げつけた。傭兵である自分よりも腕力が上回っていることに、男は混乱した。男が見た教祖の外見からして、それは明らかに不釣り合いだった。
「あぁ、よく眠っていたのに……」
教祖は酷く残念そうに云った。
「……嘘は、結構です。見事な寝息でした」
「いやいや、嘘ではありませんよ。マスクに触れられるまでは気づいていませんでしたから。これを被ったまま眠るとね、良い夢が見られるんですよ」
教祖は床に落ちたマスクを拾い上げ、腕に被せた。損傷がないか大事そうに視認している。
袖から除く教祖の腕は筋骨隆々だった。自分が簡単に床に投げつけられたのも、あの腕なら納得できる。よく観察すれば、首筋も太く若々しい。
だが、そこに乗っている顔は老いている。その顔を男は知っていた。しかしその逞しい体は知らない。普段は白く細腕だったはずだ。唯一、声だけが教祖のものだった。
あべこべの何かと対峙している。
「アンソニー君と美鈴君の研究は、こういうこともできるんだよ」
男の思考は教祖に見抜かれていた。
教祖の喉仏の位置が僅かに下がり、男の知る顔の声になった。浮き出た筋肉は徐々に消え、痩せた腕に留まった。漸く全て合致したと、男は思った。
「やっぱりあなただったんですね」
アンソニー・ジェンキンスと奈須川美鈴の名が出たことで、男はある程度理解した。今見ていた教祖は肉体を活性化させていたのだと。重厚感のある声から嗄れた声になったのは、信者の前では喉を活性化させていたのだと。
「やっぱり……あぁ、岩本君は香雲館にも来てくれていましたね。あそこに来てくれることはとても嬉しいことなのに、残念極まりない……。教えてごらん。誰に言われてここへ来たんです?」
教祖は後ろで手を組み、子ども相手に話すよう男に訊ねた。
喋るつもりは毛頭ない。
逃げることも、恐らく叶わない……。
気が付けば、教祖の体が一回り大きくなっていた。逃走できる可能性を頭で考えている間に変化させたのだろうか。その時間が果たして長かったのか短かったのか、男にはもうわからない。
教祖の背後に立つ屏風の中の蛙が、教祖の守護神のように見えた。
不覚にも、敵わないと男は思う。――世も末だ。と鼻で笑った。
教祖は寝巻の浴衣から懐中時計を取り出し、何かのスイッチを押した。
何かが起動したのか、小さな振動を感じる。同時に重い扉が開くような音が聞こえてくる。
よく聞くと、それは男の真下から聞こえてくる。振動と音は徐々に迫り、男を恐怖に導く。男が床に叩きつけられた場所には大きな黒丸が描かれており、男は丁度その中心にいた。男の汗が床に落ちる時、それが大鳳教のシンボルマークであることに、男はやっと気がついた。
気づいた直後、黒丸は中心で半分に割れた。展望台と変わらぬ高さから、地下五階まで、全てである。
無論、男は落ちてゆくことしかできない。落ちてゆくにつれ、悲鳴も教祖の耳に届かなくなる。
それでも教祖は穴の淵に立ち、奈落の底に落ちる男に声を掛けた。
「そこで反省して、生まれ変わるといいです。たとえ命が尽きても、そのまま魂が天に昇れるよう造ってありますから」
教祖はもう一度懐中時計のスイッチを押した。今度は上から順に、黒丸の扉が閉じられていった。
男は生きていた。衝撃を和らげるものが、そこにはあったからだ。
白骨化した者や腐りかけの者、それから、男の腹くらいまで溜められた、大量の墨汁。死体の体液と混ざり合っているのか、粘り気があった。
腐敗した人間と墨汁の融合する強烈な臭いに、男は吐き気を催した。
疼く目をなんとか開く。――地獄だ。
見渡すと、石造りで出来た高い壁に囲まれていることがわかった。そして壁には至るところに突起物が出ている。手で掴めそうなものだった。
(登れるかもしれない)
男は思い、痛む体を動かし墨汁を搔き分け、壁に手をついた。
ここにある亡骸は男と同じことを思い、同じことをしたのだろう。壁には真っ黒な手形があちこちに見られた。途中で落下したことがわかる歪な手形は、絶望を物語っていた。
男は必死に突起物を掴み登ろうとするが、自分が落とされた階から順に、黒丸の扉が閉じられていくのが見えた。
段々光を失っていく。これでは登ることなどできない。
終に扉は全て閉じられ、男は完全に光を失った。




