‐ 第2話 ‐ 甫仮 勇魚
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
男手一つで育ててくれた父と揉める原因にはなったが、学生時代、ニューヨークに留学しておいて良かったと思う場面が多くある。
日本人の殆どが日常生活レベルの英語を話せる時代だが、俺の父親や重役たちは、そういう教育方針の時代の人達ではなかった。殆どに含まれないのが、六十代以降の年齢の者達だ。
企業は他国との取引で高度な英語力が求められる。突然老人に高レベルの英語を話せと云われても無理があるように、うちの重役たちも同様無理がある。
そういうところで俺は役立ったため、上からの評価が高かった。
今年で三十歳になるが、昇進も早かった。
だが、昇進したと云ってもその仕事は、両者の顔色を伺いながら重役の横で通訳をするのが全てと云ってよかった。
通訳ロボットにできない、オブラートに包みたいところを察して訳したり、直訳ではなく正しいニュアンスで伝えられる。ジョークを交える時は、わかりやすいよう悪戯な表情をわざと作る。中身である取引の内容に首を突っ込むことは、まだ許される身分ではない。
血が通っているということくらいだ。自分と通訳ロボットが違うのは。
「甫仮君。君の話す英語はネイティブのようだとコリン氏が褒めていたよ。あの流暢な英語を話す若者は誰かと聞かれたんで、君の名を答えてやったらどんな漢字を書くのだと聞かれたんだ。どうやらコリン氏は漢字が好きらしい。ところが私ときたら、君の名前の漢字を書けなくてね。ハハ。誤魔化しはしたが、情けない思いをしたよ」
オザワフロンティア東京本社に勤めて七年が経つ。この老いぼれた上司の通訳に付くのもそれなりになるが、俺のことは『英語が堪能な便利な男』としてしか認識していなさそうだ。
確かに、俺は珍しい漢字をした名前ではあるが、一文字も書けないというのは日本人としてどうかと思う。定年を手前にした上司でさえこの有様なのだから、漢字は将来、日本から消えてしまっているかもしれない。
俺は自分の名前が好きではない。海外にも通じる名前を付けてくれたらよかったのにと、心底思う。珍しいことではない。二〇五〇年を過ぎた頃、日本は入国者が最も多い国となった。他国の戦争や、日本の治安の良さ、労働条件など、純日本人の俺にはわからない様々な理由が、日本という国を選んだ入国者にはあったとされる。俺が小学生の頃にはクラスの半分が外国人、もしくはダブルだった。国際的になるにつれて、日本人は日本人らしい名前が少なくなってきたように思う。今やそれは普通で、常識だった。
腕時計からホログラムの白紙ページを出し、指をペンにして書いてやる。
「甫に仮に、勇ましい魚と書いて、勇魚ですよ」
「……ほぉ。名前に魚が入っているとは珍しい。一体、どんな由来かね」
おかしな名前だと思っているのが、上司の顔に出ていた。確かに読みは女っぽいし、生臭そうな名前だ。昔はこの名前を馬鹿にされる度、名付けた父親を恨んだものだ。今は恨んでも仕方がないということがわかる。自分の名に誇りが持てるよう、自信と実力を身に付けるしかないのだ。改名することは、それができないことを自分が証明してしまうから、決してしたくなかった。
「実家が漁師をしていまして、家業にちなんだ名前を父がつけたかったようです」
「ほぉ。漁師かね。甫仮君出身は確か……」
「新潟です」
「そうだそうだ。酒のうまいところだ」
「えぇ……。鈴木専務のご出身は、どちらなんですか?」
「私? 私は生まれも育ちも東京だよ」
当然のことのように上司は云った。自身の出生に誇りを持っていることが腹立たしいのもあるが、この上司の場合、名前が鈴木愛大夢というのが余計に癪に障る。漢字は書けず、下手くそな英語しか話せないくせに。随分とご立派な外国人ネームではないか。
「――でね、甫仮君。今度うちの京都工場に、先程のコリン氏が見学に来るんだ。案内は工場長がするんだが、ぜひ君に通訳をお願いしたくて」
「えっ? あぁはい……。通訳ですね。わかりました」
腹立たしさに話の前半を適当にしか聞いていなかったが、どうせまた通訳の仕事だ。しかし、京都工場に行くのは初めてだ。
「じゃ、よろしく頼むよ。詳細はまたメールで送るから」
上司は云いたいことだけ云って、短い脚でのこのこと去って行った。
上司から解放され、一服しようと喫煙室に向かった。
(京都か。休みを取って観光できたら、最高なんだろうなぁ)
日本らしさが残る神社仏閣を頭の中で想像した。
「すみません」
突然、後ろから声を掛けられた。完全に仕事モードのスイッチを切ったところに声を掛けられたので、驚いた。相手には大袈裟に映ったかもしれない。
振り返ると、若い女が立っていた。髪は茶髪で、グレーのスーツに高いピンヒールを履いている。女からは気の強そうな雰囲気が漂っている。顔は、純日本人か、混じっていても同じアジアの血だろう。
「あの、講義室Cというところに行きたいんですけど、わからなくって」
「あぁ、講義室Cなら、この廊下の突き当りを右に曲がった一番奥のところですよ」
女はにこりと微笑み、礼を云った。研修か何かで、外部から来ているのだろうか。
幸運にも、喫煙室には誰もいなかった。一人の空間で煙草を吸うのが、一番落ち着く。
もう一度、京都を頭の中で想像する。
そういえば、そろそろ有休を使わないといけなかった。京都工場で通訳の仕事を終えたら、そのまま有休を使えないだろうか。大きな仕事は暫くない予定だし、ありかもしれない。
三十路独身、ささやかな楽しみができた。