‐ 第19話 ‐ 裏返しの靴下と赤いハンカチ
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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
〈〉内はロシア語を表してします。
《》内は手話を表しています。
ロシア人女は、風俗街にある半地下に住んでいた。住んでいるだけでも病気になりそうな、不潔な場所だった。余程金に困っているのだろう。
少ない階段を一段飛ばしで一気に下り、玄関のドアを叩いた。
だが誰も出てこない。こういう場合大抵中に家主がいることは、三枝木と何度も金の回収に行ったことで学んでいた。
壊れない程度に、今度はドアを足で蹴ってみた。
すると、思いのほか早く開錠される音が聞こえた。
ゆっくりとドアが開き、俯いた女が出てきた。
「ゴメンナサイ。体調ガ悪クテ……」
下手くそな日本語を発した女は、酷く青白い顔をしていた。体調が悪いというのは嘘ではないらしい。加えて瘦せっぽちだった。ほつれたカーディガンを羽織っているが、それでも腕の細さがわかる。
女と女の家を見ただけで、自分が恵まれていると錯覚しそうになった。
〈ロシア語でいいよ。金を取りに来ただけだけど〉
〈あら……。ちょっと待ってね〉
ロシア語を話すと、女はゆっくり俺を見上げた。
顔を上げることすら辛そうに見えたが、女は金を取りに向かおうと俺に背中を向けた。
ところが、女はそのまま倒れそうになった。
間一髪、俺は女の着ていたカーディガンを掴んだ。危うく女の額が床にぶつかるところだった。
〈おい! 大丈夫かよ! きゅ、救急車呼ぶか?〉
〈いえ……。トイレに……〉
云われるがまま、女をトイレに運んでやった。
女は嘔吐している。耳を塞ぎたくなるほどの嫌な声と、便器に落ちる吐瀉物の音がする。金を回収しに来ただけなのに、とんだ災難だ。――……大丈夫なのだろうか。死なれては困る。金が回収できなければ、三枝木に何をされるかわからない。
トイレのドアをそっと開け、中の様子を見る。少し落ち着いたのか、女は便座に額を当て、呼吸を整えている。だが落ち着いていたのも束の間で、女は胃から込み上げてきたものをまた直ぐに吐き始めた。一体、この細い体のどこに吐ける物があるのだろう。
俺は見かねて、便器の中に入った女の髪を持ち上げて、もう片方の手で背中を摩ってやった。
〈ありがとう……。うっ、ありがとう……〉
ゲロ臭い。
みっともない。
この女の人生に比べたら、俺の人生がましなのは確かだろう。
女は吐けるものを吐き切って、部屋で紅茶を出してくれた。飲まないからと何度も断ったが、女は聞かなかった。
期待していなかったが、女は回収する分の金をちゃんと用意していた。その場で念入りに金を数えたが、確かに合っていた。
〈久し振りにロシア語を聞いたわ〉
〈この国にロシア語はまだ多い方だろ〉
〈私の周りにはいないの。あなた、お金を数える時もロシア語が出ていたわ〉
〈そう〉
〈あなたの周りには、いる? ロシア語を話す人〉
女はよく喋るようになった。顔色も先程より良くなっていた。
〈妹が。でも〉
〈……でも?〉
〈妹は声を出せないんだ。耳は聞こえるけど〉
〈そう、そうなの。でも、肉親がいるだけいいわ〉
知らず知らずのうちに、俺も饒舌になっている。仕事に関係のない話、ミラの話なんて、この女にするつもりはなかったのに。
〈……そんなことより、あんた妊娠してるのか〉
話題を変えると、女は朗らかになりかけていた顔を曇らせた。
俺は一瞬、女の痩せた体の腹に目を向けてしまう。
〈それで稼げるのか? 返済は伸ばせないぞ〉
〈……なんとかするわ〉
そのまま女は喋らなくなった。
今日の支払い分は全て確認できたから、俺もこれ以上は何も云わず、帰ることにした。
〈待って。これ、よかったら持っていって〉
玄関の前で、女は紅茶のティーバッグを袋ごと俺に渡した。
〈俺は飲まねぇよ〉
〈妹さんに〉
そう云われ、仕方なく受け取ってしまった。これは女の家にあった全ての紅茶だろう。
――産むつもりなのだ。女に貸した金はそれなりにある。そんな体でいつまでも働けるものか。
遣る瀬無い気持ちで、煙草に火を付けた。
帰ると、ミラはまだ起きていた。
ミラが起きている時に服を脱ぎ散らかすと叱られるのが目に見えているため、その場で直ぐにスーツをハンガーに掛ける。
〈ただいま〉
ミラは振り返り、手話で《おかえり》と云った。その顔はどうも機嫌が悪そうだ。そういう時は大抵俺が何かやらかしている。何だったかなと考え、一つ頭に浮かんだ。
〈靴下か?〉
《靴下はいつものこと》
ミラは呆れた顔をした。そして、わざわざもう一度考える時間を与える。
だが俺は結局わからず、疲れていて考えるのが面倒になった。
〈……なんだよ。疲れてんだ〉
ミラは引き出しからハンカチを取り出し、広げて俺に見せた。
……赤いシミになっている。
男の家で三枝木に貸したハンカチだ。スーツのポケットに入れたままにしていたのを、ミラが洗濯してくれていたのだ。
《どうして血が付いているの?》
〈鼻血が出たんだ〉
《嘘》
ミラは感づいてはいるが、俺の仕事を知らない。話していないのだから当然だ。
心配するだろうし、話すことに後ろめたさがあった。後ろめたさのある仕事をしているということを、俺はまだ感じていた。
〈危ないことをしているんじゃないの? タラスも危ない目に合っているんでしょう?〉
《仕事なんだ。危ないことだってたまにはあるもんだ。心配しなくてもミラが思うような目には合っていない》
〈やめようよ。何かあってからではダメよ〉
伝えたいことを伝えているはずなのに、どうしてわかってもらえないのだろう。
ただ《ご苦労様》と、《おかえり》と、それだけ云って眠ってくれればどんなに俺の心が救われるか、わかっているのかこいつは。そんな目で訴えられたって、どうにもならない。
〈……やめてどうするんだよ。誰がどうやって俺たちに金をくれるんだよ〉
《…………》
〈何もできない奴が、簡単にやめろなんて云うなよ。俺が決めることだ〉
《なんでも一人で勝手に決めているだけじゃない》
ミラは手と手を強く打ち付けた。
泣き出しそうな顔をしていたかと思えば、今度は怒っている。
〈なんだって?〉
《日本へ来たのも、タラスが勝手に決めたことじゃない。私には何一つ相談しない》
〈なんだその言い方! 全部お前のためにやってることなのに! じゃあお前はどうしたいっていうんだ! 言ってみろよ!〉
大きな声で、きつい云い方をしている。わかっている。けれども止められない。
《…………故郷に帰りたい》
ミラは涙ぐみ、小さく訴えかけた。
〈……呆れるぜ。故郷に何が残ってるっていうんだ。折角死に物狂いで逃げてきたってのに……〉
――もういいわ……――
何も発せずとも、手を動かさずとも、目を見ればそう云っているのがわかった。
ミラは静かにベッドへ入り、布団に包まってしまった。
急いで台所へ向かい、煙草を吸おうとした。けれど、頭に血が上っていることをライターは知っているのか、なかなか火が付かない。
次に火が付かなければライターをぶん投げてやろうと思った瞬間、漸く火が付いた。
漸く、心が落ち着きを取り戻し始めた。
酷く苛立ってしまった。自分のせいなのに。またミラに八つ当たりをしてしまった。
ミラだって、もっと俺に云いたいことがあっただろうに。きっと今頃布団の中で泣いているだろう。
故郷に帰りたいなんて云うとは思っていなかった。
あんなところに帰りたいのかミラは……。
煙草を咥えたままミラのベッドに近寄る。起きているだろうが、もう声は掛けなかった。代わりに女から貰った紅茶を、そのまま本の隣に置いた。
その日、三枝木は機嫌が良かった。何か良いことがあったのだろう。
事務所には俺と三枝木と沼尻がいた。沼尻はコツコツと薬を袋詰めにし、その横で俺は同じ作業を手伝っていた。沼尻は図体のでかい男だが、似合わずこういった細かい作業が好きなようだった。
「ロシア人女はどうだったんだ? 金はちゃんと回収したみたいだが、どんな奴だった」
三枝木は作業を手伝うわけでもなく、ただニタニタと笑みを浮かべながら俺に訊ねた。
「顔色の悪ぃ女でしたよ。多分妊娠してる。何週かはわかりませんが、まぁ美人だから回収分は稼ぐんじゃないかと思います」
三枝木は元々機嫌の良かった顔をさらに良くした。
「妊婦かよ! そりゃいいなぁ。身重の体で急かしたら可哀想だ。返済伸ばしてやってもいいぜ? ていうか、伸ばしてやれ」
「え? いいんですか?」
「あぁ。信用できそうな奴なんだろ?」
上機嫌と云っても、三枝木の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。他人を気遣えるような男じゃない。
「なぁタラス。俺儲かる仕事始めたんだ。お前と沼尻には教えてやってもいいと思って、沼尻にはもう話したんだけどよ」
「……三枝木、もう回収に行く時間だろう」
「ん? はいはい。お前は俺の母親かよ。タラスももっと金欲しいだろ? また今度お前にも教えてやるよ」
沼尻に促され、三枝木は時間を確認すると事務所を出て行った。機嫌が良かったのは、きっとその副業のことだろう。三枝木は危ない男だが、儲かることなら、俺はやりたいと思った。
「あいつは良い奴じゃないぞ」
沼尻は薬に目を落としたまま云った。
それは三枝木にも、沼尻にも云えることだった。三枝木が危険な男だというのは今ではわかる。問題はこの沼尻という男だ。いつだったか、「沼尻には気を付けた方がいい」と、三枝木が俺に忠告した。
沼尻は元警察官らしい。確かに、両腕にびっしりと入った下品な刺青を除けば、そんな感じがしないでもない。沼尻は三枝木と違い寡黙で、金の回収からこんな地味な仕事まで文句一つ云わずやる男だから、何を「気を付けた方がいい」なのか、正直わからなかった。俺は俺で忠実な後輩を演じているだけで、必要以上にこの二人に深入りしようと思わなかった。
――さて、女は返済の猶予ができたと云ったら、喜ぶだろうか。




