‐ 第13話 ‐ タラス
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
何もそこまで殴る必要はないと思う。相手はとっくに気を失っているし、痛いという感覚ももはやないはずだ。殴られる度、男の顔面から血潮が噴き出る。血痕で床が汚れていく。
それでも殴る手を止めないということは、三枝木は間違いなく相当なサディストだ。
ドアの前で見張り役をしていた俺は、少し横にずれて三枝木の顔を覗いてみた。
――やっぱり三枝木は笑っていた。
「次来た時に金が用意できてなかったら、お前の肉を金にするからな。わかったな……? 聞こえてねぇなこいつ。まぁいいや。聞こえねぇてめぇの耳が悪い」
男の返事が無かったところで、三枝木は漸く殴るのを止めた。男は金の返済がずっと滞っていた。謂わば自業自得なのだ。
「タラス、今何時?」
「十三時です」
「道理でな。腹減ったぁ。でも、戻って仕事だ。おい、拭く物くれ」
云われた通り三枝木に自分のハンカチを渡した。三枝木はそれで自分の眼鏡を丁寧に拭く。大いに汚れた時は、自分のではなく人の物で綺麗にするのだ。
三枝木は髪を整え、スーツを羽織り直した。
こうして身嗜みを整えた三枝木を見ると、最初に出会った頃を思い出す。三枝木はとても裏社会の人間に見えなかった。皺のない綺麗なスーツを着て、眼鏡をかけて、優しそうな顔で微笑み掛けるものだから、良い人にしか見えなかった。仲間の沼尻は三枝木のような奴を確か、インテリメガネというのだと云っていた。
当時十三歳だった俺は、日本という国を理解しきれていなかった。(する余裕も無かった。)だが後悔しているわけではない。密入国してきた日本で野垂れ死にしそうになっていた俺を三枝木が拾ってくれたおかげで、衣食住に困ることは無くなった。目標にはまだ少し及ばないが、血生臭いこの仕事は金を沢山稼げた。
「そうだタラス。親父がさ、明日からお前一人で回収に行けとさ」
三枝木は当然のようにハンカチをそのまま俺に返した。
「いいんすか? なんで急に」
男の返り血で汚れた面を内側に畳み、手早くハンカチをポケットに入れた。
「お前の出番なんだよ。明日、ロシア人女のところに回収に行ってほしいんだとさ」
三枝木が俺を拾ったのには訳がある。俺がロシア語を話せるからだ。
日本は移民の最も多い国だ。その国籍は疎らだが、中にはロシア語を母国語とする者も少なくない。英語を話せるのが当たり前でも、ロシア語を話せる日本人、それも裏社会の人間はそういない。自分と同じ母国語を話す者から金を借りれば、奴等も簡単には逃げられない。三枝木は俺を使えると思ったのだ。
「一人で行くのはまずそのロシア人女のところだけでいい。他のところだとお前、まだ顔がガキだから舐められちまう。報告は全部俺にしろよ」
誰がガキだと思ったが、三枝木の下にいるかぎり、俺はずっとガキなのだろう。
「戻ったら沼尻と一緒に配達だ。人手が足りねぇなぁまったく」
三枝木はぼやきながら、ボロアパートの錆びた鉄階段をカンカンと音を立てて下りた。
ドアを閉める前に、血だらけになって床に横たわる、無様な男の姿が目に入った。
――こうはなりたくねぇな……と、ドアをきつく蹴って閉めた。
内臓の配達を終え、そのまま家路に着いた。
今日回収に行った男の家とそう変わらない、いかにもなところに俺たちは住んでいる。
夜中だから静かにドアを開けて中に入るが、ドアが古くて馬鹿になっていて、どうしてもそれなりの音で『ギキィ~』と鳴ってしまう。
明かりをつけたままミラは眠っていた。
ベッドには入っているが、だらりと下に落ちた手元には、日本語の古い教材が落ちていた。
スーツを脱いでその辺りに投げ、そのまま台所まで行って、窓を少しだけ開ける。靴下はその道中で脱ぎっぱなしにする。後でちゃんと洗濯機に入れるから、それでいいのだ。
台所の丸椅子に腰掛け、煙草に火をつける。
――妹のミラは、母国で怪我をし、声を出すことができなくなった。
ミラは手話を懸命に覚えようとした。でも俺が一緒に日本に連れて来てしまったから、今は日本の手話を勉強している。勉強熱心な奴だから、話すことができたら、俺よりも難しい日本語を巧みに話すのだろう。
密入国の上に、俺が裏社会に入ったものだから、学校へは通えない。日本語の古い教材などは、俺たちのような問題のある移民を哀れに思った日本人が作った、隠された小さな図書館のものだ。病院も、まともな病院では診てもらうことができない。できることならば、ミラにはちゃんとした病院で手術を受けてほしいし、それには金が要る。
煙草を咥えたままミラのベッドまで歩き、教材を拾って机の上に置いた。
本当はこんなものじゃなくて、腕時計を買ってやらなくてはいけない。たったそれ一つで膨大な知識が手に入る。だが優先順位としてはまず、手術費用だ。もう少し。
台所に戻り、ミラが作り置きしてくれた料理を食べようとラップを外した。
スープが赤いものだから、血塗れになったあの男を思い出した。
食べたらスーツをハンガーにかけて、シャワーを浴びて、眠って、また金を稼ごう。




