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無声凱歌  作者: 十田 實
◆ 第1章 ◆ 2075年
1/87

‐ 第1話 ‐ 宇智田 美生

<R15> 15歳未満の方は移動してください。

この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。


 

 書斎の片隅で、少年は竹簡(ちっかん)を抱き締めていた。

 そこに記された物語を、自分の小さな身体に染み込ませるように、強く抱き締めていた。

 少年の齢では難解すぎるその書物を、少年は理解できた。

 大層古びた壊れかけの、価値などないと忘れ去られたその物語が、少年にとっての光だった。



---------------------------------------------------------------------------------- 




「お電話ありがとうございます。RMS(ラムス)(おう)でございます」


 落ち着きのある低い声で、どことなく艶っぽさを感じられる。機械的な大した会話ではないのに、何度も電話で話しているうちに、あたしはこの声に安心感を覚えてしまっていた。


 RMSとはあたしが登録している人材派遣会社で、王さんはあたしの担当をしてくれている。王という名前だから、出身は中国なのだろうが、外国人特有のたどたどしさは一切なく、寧ろ、純日本人であるあたしよりも日本語が堪能に思える。


「こんばんは。()()()です。折り返しが遅くなってすみません」


「いえ。お忙しいところ申し訳ございませんでした。あれから、お仕事の調子はいかがかと思いまして、ご連絡させていただいた次第です」


 新卒がこれから働くぞと意気込んでいる春、あたしは三年間勤めていた会社を辞めた。若者たちへのハラスメントが酷い上司に心底嫌気が差し、労働基準監督署に告発したのち会社を去った。上司は懲戒処分を受け、自分たちは以前より働きやすくなったと、同期から感謝の連絡があった。彼女たちのストレスが軽減されたのなら、それは何よりだ。


「男の人ばっかりの部署なんで、ちょっと不安もありましたけど、皆良い人達なんで良かったです。仕事内容もデータ入力ばっかりじゃなくて、こういう品質管理の仕事もできる方が、体も動かせて私には合ってるんだと思います」


 王さんに紹介を受け現在勤めているのは、『オザワフロンティア』という会社だ。業務用の冷凍庫や冷蔵庫、冷やす技術を応用した機器の製造を行っている。

 前職の上司のお陰で中年男性に良い印象はなかったのだが、今あたしのいる品質管理部は()()が気さくな人で、部下も大切にしているようだった。前職をもっと早くに辞めておけば良かったと思えるほどには、オザワフロンティアを気に入っていた。


「左様でございますか。それは何よりでございます。何もなければあと二ヶ月で正社員への雇用となりますので、無理をせずに頑張ってくださいね」


 王さんのごく普通の返答には安堵が含まれていた。人材派遣会社なのだから当然ではある。肝心なのは、あたしがそこで問題なく勤められるかどうかだ。

 問題は、今のところない。



 腕時計の通話機能を切って、食卓に座った。


「ふぅ~ん。良いところみたいで良かったわね美生(みおう)。次の仕事も決めないで辞めちゃうもんだから、心配してたのよ」


 先に夕食を食べ終え、晩酌をしているママが云った。


「まぁ良い人多いし、仕事内容も嫌いじゃない……んだけどさぁ……」


「え、なんなのよ。良いんじゃないのぉ?」


()()は、ね。一人だけ嫌な奴がいんの」


 それはあたしの問題に値しない、愚痴に収まるものだ。


 それでもママは、グラス片手に娘の話を真剣に聞こうと目を鋭くした。その目は生きているというか、生きているのだから当たり前のことではあるのだが、つまり、ママは格好良い目をしているのだ。


 あたしの家は、あたしとママとお姉ちゃんの、女だけの家だ。

 ママは親でお姉ちゃんは姉妹だが、あたしたちは友人のように仲が良いと思う。些細な下らない話でも、重大で真剣な話でも、何でも話し合える。


「そいつ、尾澤(おざわ)っていうんだけどね? いつも髪の毛ぼさぼさで、髭も汚い奴なんだけど、絶対聞こえてんのに挨拶返さないの。腹立つじゃん? 周りもさぁ、優しくて良い人達なのはわかるけど、そこは注意しろよっていうかさ……。なんで注意しないんだろう」


「へぇ~。働いてんだから、もういい歳した男でしょ?」


「わかんない。顔も髪で隠れてて、しっかり見たことない。私より年上だとは思うけど。誰か叱ってくれりゃいいのにさぁ」


 愚痴を溢すと、ママはカールの取れかかった髪を耳に掛け、少しの間黙った。耳朶には昨日と違う紫色のピアスが見える。ママは昔からお洒落をすることで、その日の意欲を掻き立てようとする。


「……あんた、その尾澤って男に、変なこと言っちゃだめよ?」


「わかってるって」


「違うわよそうじゃなくて、あんたまだ働き始めて一ヶ月で相手のことよく知りもしないんだから、周りの人ももしかすると注意できない理由があるのかもよってこと」


 ママはグラスに残ったワインをぐびっと飲み干した。その手に嵌められた指輪を見ると、小さなアメジストが付いたものだった。どうやら今日は紫で揃えたようである。


「そうかなぁ……」


 独り言のように呟くと、ママはそうですともと云わんばかりに大きく頷いた。


「さ、ちょっとだけ()()()()()()とあ~そぼ」


 これ以上の忠告はなく、ママは『こてっちゃん』こと、ホログラムペットの『小鉄(こてつ)』を呼び出すため、机の上に置いた腕時計を起動させた。


 ダイヤルが光り、光の中から一匹のパグが尻尾をぶんぶんと振って駆けてきた。

 現れた直後は手に平に乗るサイズだったものの、ママの元まで来る頃には本物のパグの大きさになった。舌を出して、ハッハッという息遣いも、良い具合の音量で聞こえてくる。大層可愛がった分、小鉄はママにしっかりと懐いていた。


 それでも所詮、ホログラム(偽物)だ。


「本物を飼えばいいのに」


「やぁよ。死んだ時が悲しいもん」


 あたしのパパは、ママがあたしを妊娠している時に死んだそうだ。

 ママは再婚することなく一人であたしとお姉ちゃんを育て上げた。だから父親というのがどういう存在か、あたしにはよくわからない。


 本物のパグを飼う勇気がなくても、うちのママはその辺の父親より強く逞しい人だという、よくわからない自信がある。そう思うのは、あの格好良い目のせいかもしれない。


 娘に『()しく()きろ』なんて名付けられる母親は、そういないだろう。



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