34.中型の魔獣
ステラは息を呑んだ。
「見習いは直ちに退避を開始! 残りは森の入口で迎え撃つ! 繰り返す、暴走状態だ。見習いは直ちに退避、残りは森の入口にて迎撃準備! 急げ、命令だ!」
叫んでいるのは教官だ。
オレッセオとカイルは単身で討伐を開始しているらしく、森の奥にいるようだ。従わなければと思ったが、そもそも入口が分からない。どうすれば、と思ったところで、立ちすくむ人影に気がついた。
「みんな!」
やっぱり隠れて見ていたのか。
ひどいとは思ったが、今は何か言うのも惜しい。
彼らの元に駆け寄ろうとして、「来るな!」と叫ばれる。
「お、お前の体、魔獣の血がついてるんだろ? 近寄るな! あっち行け!」
「な……」
「お前が今倒した魔獣、この辺りじゃ一番弱い種類なんだ。俺たちはもっと強い魔獣の血があるから安心だけど、お前は違う。お前がそばに来たら、他の魔獣が引き寄せられる。だから来るな、近づくな!」
「何言って、私は――」
その言葉より早く、べしゃりと何かが投げつけられた。
「お……お前が囮になれよ、岸無し!」
「そっそうだ、囮になれ。それがいい!」
「行くぞ、みんな!」
口々に言うと、彼らは泡を喰って駆けていく。ガロルドも一緒になって逃げて行った。
ステラに投げつけられたのは獣の血だ。どうやら先ほどの残りがあったらしい。
この状況で、ふたたびそんな事をする目的はたったひとつ。
(本気で囮になれってことなの……?)
おそらく、彼らが逃げ切るまでの時間稼ぎとして。
あまりのひどさに、ステラは声も出なかった。
だが、呆けている時間はない。
彼らの後を追って駆け出そうとしたところで、何かが背後からぶつかってくる。
「!」
転がりながら体勢を立て直し、起き上がるのと同時に剣を向ける。
だが、そこでステラは愕然とした。
「魔獣……!?」
それも一匹ではない。次々に現れた魔獣が、ぐるりとステラを取り囲む。
先ほどと同じ、狼タイプの魔獣だ。低い唸り声を上げ、こちらにゆっくりと近づいてくる。
気づけばステラは十数匹の魔獣に囲まれていた。
この数は倒せない。
一瞬でそう判断したものの、逃げ場はない。
笛も狼煙も使い物にならない。そもそも今は意味がない。全員退避している最中だ。
――誰も助けてくれない。
ぐっと何かがせり上がり、震える息が吐き出される。喉が喘ぎ、冷たい汗がすべり落ちた。
(なんとかしなきゃ)
でも、どうしたら。
「グアウッ!」
襲いかかってきた一匹をよけ、剣の先で薙ぎ払う。だが、浅い。木を背にして、死角を減らす。心臓の音が早鐘のように鳴り響いていた。
「ガルルルルッ!」
次の一匹が飛びかかる。首を狙って一撃したが、刃は毛皮の上を横すべりした。
(斬れない)
先ほど倒した個体よりも強靭だ。皮が硬く、毛の一本一本が刃のように尖っている。
剣が入らなければ、倒せない。
授業では倒し方を教わったはずだ。訓練でも何度も行ってきた。けれど、実戦はまったく違う。
焦りが指先を震わせる。呼吸が知らず浅くなる。ひとりには慣れていたはずなのに、こんなにも心細いとは思わなかった。
(怖い……)
だけど。
「っ!」
二匹同時に飛びかかられ、ステラは反射的に地を蹴った。
一体をしのぎ、もう一体を刺し貫く。だが、やはり毛皮にはじかれ、致命傷には至らない。先ほど傷つけられた肩から、じわりと血がにじみ出た。
(どうしよう)
ステラの力で倒せない以上、時間稼ぎしかできない。
せめて少しでも数を減らすべきか、それとも。
焦りのせいか、考えがうまくまとまらない。
反射的に手元を見た。だが、目をつぶって首を振る。
駄目。――駄目だ、これでは。
(大丈夫――大丈夫。落ち着いて、冷静に)
改めて背中を木に預け、周囲の様子を確認する。一斉に飛びかかられたらひとたまりもないが、なぜか魔獣は警戒したように近寄ってこない。疑問を覚え、ステラははっとひらめいた。
(もしかして)
もどかしい手つきでガロルドに渡された革袋を探る。
皮の表面がわずかに傷つき、中から赤黒い液体がこぼれている。
ほとんど乾いていたが、先ほどの獣の血とよく似ている。ただし、匂いはもっときつい。
思わず顔をしかめるような、独特の臭気だ。
指先に取り、もう一度嗅ぐ。嗅ぎ慣れない香りだったが、ステラには心当たりがあった。
(これ、もしかして……)
魔獣の血だ。
魔獣の血があれば、他の魔獣は寄ってこない。少なくとも格下の魔獣の場合はそうだ。
ガロルド達もこれを持っているからこそ、道をそれる事ができたのだろう。
ただし、彼らは四人で、ステラはひとりだ。圧倒的に危険な事は変わりない。
(だけど、ないよりはまし)
多少の牽制にはなるはずだ。
袋を腰にぶら下げたまま、指先の血を拭う。匂いが広がったせいか、魔獣がわずかに後ずさった。
ガロルド達の去った方向は分かっている。けれど、森の入口はどこなのか。途中で曲がっていたら分からない。ここを逃げ切ったとしても、森の奥に迷い込めば命はない。
――せめて、一匹でも。
魔獣は一体と数えるが、森の獣と大差ないサイズは「匹」と数える。そうしないのは、明らかに大きさが違う場合だ。
小型の魔獣なら匹でもいいが、中型になると「体」になる。もっとも、この森には出現しないから、どうでもいい事かもしれないが。
そう、この森にはいないはずの――。
「……え?」
その時だった。
魔獣が後ろを向き、くるりと方向を変えて駆け去っていく。次々に残りの個体が続いた。あっという間に見えなくなった魔獣の群れに、ステラが呆然と立ち尽くす。
「な……何……?」
もしかして、助かったのだろうか。
だけど――なぜ?
そう思った時だった。
振り向いたステラの目の前を、大きな影がよぎった。
反射的に剣を構え、その目が大きく見開かれる。え、という声が喉から漏れた。
そこにいたのは、見た事もない生物だった。
トカゲに似た外観と、異常に発達した太い手足。大きさは鹿ほどもあり、全身が硬い鱗に覆われている。
チロチロと長い舌が揺れ、かぱりと真っ赤な口が開く。その姿には覚えがあった。
以前、本で読んだ事がある。
この森にはいるはずのない個体。
(なんで……?)
中型の魔獣が、こんなところに。
その時、ステラはある事を思い出した。
――魔獣の血を持っていれば、それより弱い個体は逃げていく。だから小型の魔獣に対し、魔獣の血はそれなりに効果がある。
だが、それにも例外がある。
――それより強い個体の場合、血の匂いに引き寄せられて、獲物を狩りにやってくる。
「……!!」
トカゲの尾がゆらりと動き、カチカチと爪を鳴らす。
一瞬の後、すさまじい速さで飛びかかってきた。




