27.忍び寄る悪意-3※
カイルが眉を寄せる。
「お前はそうだろうけど……ローズウッドが?」
「貴族ですよ。ただし、貧乏男爵家で、家からも見捨てられてるだけです」
「やめて、ガロルド!」
「俺が申し出て、こいつの家に許可をもらいました。正真正銘、こいつは俺の婚約者です。だからこれくらい許容範囲だと思うんですけど」
勝ち誇った顔で笑うガロルドに、カイルはますます眉を寄せた。ステラが顔を上げた拍子に、マントが肩へと滑り落ちる。目じりに溜まった涙がこぼれ、マントをつかむ指ではじけた。
(副団長に知られた)
本来なら、カイルが知っていてもおかしくない。
いや、正確に言えば、知られていた方が楽だった。
余計な気を遣う心配がなくなり、オレッセオとの連携も取りやすくなる。部下思いのカイルなら、露骨に態度を変える事はないだろう。むしろ、丁重に扱われたかもしれない。
けれど、それは嫌だった。
なぜ嫌なのかは自分でもよく分からない。けれど、カイルには知られたくなかった。
その理由を考える事はできず、ステラがうつむく。
この時ほど自分の出自が嫌だと思った日はなかった。
ガロルドと結婚するくらいなら、道ばたの木と結婚する方がずっとましだ。
「――そうか」
カイルがゆっくりと姿勢を正す。
「そういうことなら、色々と考えないといけないな」
「…………っ」
「そうそう、そうですよ。だからこれからはもう少し俺たちに気を遣って――」
ガロルドが調子に乗った時だった。
ダン!!
踏み抜かれた足の先が、ガロルドの股間すれすれをかすめた。
「ヒィッ!?」と声を上げ、ガロルドが体をのけぞらせる。限界まで反り返った体は、エビのように丸まっていた。ただし、逆の方に。
触れるか触れないかの位置で静止した爪先をそのままに、地の底から響くような声がした。
「嫌がって暴れる女を押さえ込んで、許容範囲? お前の許容範囲は海より広くていらっしゃるようだな、ガロルド・ハーヴェイ」
「な……な……なに……っ」
「じゃあ俺が偶然お前の粗末なものを踏み抜いても、当然許していただけるよな? 許容範囲だもんなあ?」
「ふ、ふざけ……ひぅいっ!?」
ダン。
「やっ、やめっ……」
ダン。
「待っ……」
ダン。
「お願……」
ダン。
「あ、あたっ、当たるっ……」
ダン。
「ふぎゅへっ!?」
ダン。
「ひょげっ」
ダン。
「はぅっ!」
ダン。
「も、もう……」
ダン。
「もう、やめ……あの……」
ダン。
「ひいいぃぃぃっ!?」
――――ダンッッ!!
今までで一番いい音が響いた瞬間、ガロルドはその場に失神した。
敷物の上に黄色い水たまりが広がっていく。騎士団から支給されたものだが、もう使えないだろう。背面が防水なのがせめてもの救いだ。
「本気にするとは思わなかった。そんな汚いもん踏むか、クソが」
ぎりぎりで股間を回避した足が、水たまりを華麗によける。
「ちょっとその辺に転がしてくる。しばらく待ってろ」
ガロルドと敷物をつかむと、カイルは部屋を出て行った。ひとりになって、へたへたと床に座り込む。
「……び……」
びっくりした。
そして、怖かった。
ガロルドも怖かったけれど、カイルも相当怖かった。
あまりの衝撃に涙が引っ込んでしまったが、それはそれでよかったと思う。こんな話、聞かされた方もどうにもできないだろうから。
待っている間、ステラは簡単に体を拭いた。ガロルドに触られた部分が気持ち悪かったのだ。できれば湯を浴びたかったが、今はそれどころではない。ごしごしとタオルで清め、何度か水を替える。それだけで、少しはさっぱりした気分になった。
「待たせたな」
戻ってきたカイルは手を綺麗に洗っていた。
「お前も体洗うか?」
聞かれたが、ステラは首を振った。今は大丈夫だ。
「……副団長。あの、さっきの話、ですけど」
「ああ」
「あれ、本当なんです。私、あの、結婚、するみたいで」
「……ああ」
「び、びっくりしちゃいますよね。私もびっくりです。全然知らなくて、でも許可は取ってあるって言われて、そうしたら親の言うことは聞かなきゃですし、私、一応、男爵家の娘なもので……」
「ローズウッド」
それだけで、ステラの声がぴたりと止まる。
目をやると、カイルは真剣な顔をしていた。
青灰色の綺麗な瞳。初めて会った日と同じ、冬の空のようなまなざしだ。
澄んだその色が、ステラの事を見つめている。
その目に痛ましげな色が宿り、それから息を吐く音がした。
「話せ」
「……い、いえ、私は」
「話してみろ」
「なんでもないんです。ほんとに、なんでもなくて……」
「いいから話せ」
「大丈夫、ですから……」
「――ローズウッド」
大丈夫だ、と囁かれる。
「何があろうと助けてやる。だから、話せ。いいから頼れ」
「……副団長」
「前に言ったな。どうにもならないことがあったら、どうしろって言った?」
「それは……」
――叫べ。
「声に出せ。助けてやる」
「……だけど、それは」
「大丈夫だ、問題ない」
「そんなの……」
「いいから言え」
「だって……」
「何があろうと助ける。俺はお前の上官だ」
――だから。
「助けてやるから、助けてって言え」
「…………っ」
ステラの目から涙がこぼれた。
「……っ、た」
「ああ」
「助けて、くださ……っ」
「ああ」
「結婚なんて、したくなっ……。ガロルドも、嫌……っ。だけど、だけど、どうにもできなくて……っ」
「――ああ、分かった」
軽く頭を抱き寄せられ、ぽんぽんと叩かれる。
「助けてやる。もう大丈夫だ」
「……っ、う、うわぁん……っ」
声を上げて泣いたのは、何年ぶりになるだろうか。
母親がいなくなってから、頼る人間がいなくなった。
父親は仕事で忙しかったし、相談できる余裕はなかった。継母はステラを嫌っていた。近い親戚もおらず、近所と呼べる人はいなかった。
昔の仲間達の前でも、ステラはあまり泣かなかった。
わがままを言って嫌われてしまうのが怖かったし、捨てられてしまうかもと思ったら、もっともっと怖かった。自分でできる事はなんでもこなし、いつもいい子でいる事を心がけた。言う事を聞き、手助けできる事を探して、目いっぱい働いた。雑用だって引き受けた。今思うと浅はかだが、それで居場所ができると信じていたのだ。
彼らはステラを甘やかし、たくさん愛情を注いでくれたが、それでもどこか不安だった。
ガロルド達にいいように使われたのも、そのせいだったかもしれない。
今の生活を失うのが怖くて、誰かに迷惑をかけたくなくて。
オレッセオに言って、状況が悪化するのが怖かった。それくらいなら、自分が我慢した方が楽だった。
その間に何かいい考えが浮かぶかもしれない。解決法が見つかるかも。そしていつか分かってもらえたらなんて、夢みたいな事を考えていた。
それだけでは駄目だった。
状況はもっと複雑で、たくさんの要素が絡み合っていた。
解決したのはカイルのおかげだ。そして、今まで見守ってくれたオレッセオや、他の多くの人達の。
涙が次から次にこぼれてくる。
カイルの首筋にしがみつき、ステラは声を上げて泣いた。
こうやって人に甘えるのも、誰かにしがみついて泣いたのも、本当に久しぶりの事だった。
――その日、カイルは朝まで一緒にいてくれた。
お読みいただきありがとうございます。朝まで一緒にいましたが、特に何もありませんでした。




