26.忍び寄る悪意-2※
その声と同時に、背中の圧迫感がふっと消えた。
ガロルドが床に叩きつけられ、潰れたようなうめき声が上がる。呆然とするステラをよそに、手早く腕の拘束が解かれ、丁寧に助け起こされた。
「怪我はないか、ローズウッド?」
「……副団長……?」
「よく叫べたな。偉かった」
外出着姿のカイルが、マントも脱がずに立っていた。
「おい起きろ、ハーヴェイ」
「……う……」
倒れたガロルドの背を踏みつけ、靴の先で軽く小突く。それでも起き上がらない彼を蹴り起こし、問答無用で仰向けにすると、彼は冷ややかな声で言った。
「婦女暴行未遂の現行犯だ。騎士にとってこれがどういう罪であるか、知らないとは言わせない」
「……う、あ……ぐ……」
「起きろ、潰すぞ」
その足が股間にかかり、容赦なく体重をかける。ガロルドがひっと怯えた声を上げた。
「ふ、ふく、団長……っ」
「起きても潰すけどな。とりあえずそこ、正座しろ」
顎で示すと、彼はぴょんと飛び上がった。そのまま跳ねるように正座する。
「で? お前はここで何をやってた」
「何って、何も……」
ガッ!! と目の前の床が蹴りつけられる。
「――正直に答えろ。潰すぞ」
「何もしてません! 本当です!」
ガロルドがこわばった姿勢で宣言する。その下半身の服装は乱れ、ベルトは半ば外れている。これから何をされるところだったのか想像して、ステラは身を固くした。
震える手で両肩を抱きしめたのに気づいたのか、カイルがマントを着せかけてくれる。厚手のマントはあたたかく、ほんの少しだけ震えが止まった。
「合意の上です、本当です!」
「お前の言う合意ってのは、同じ騎士団の仲間の腕を背後で縛り、嫌がって助けを求める女を押さえつけて、強引に事に及ぶ行為のことか」
「そ、れはっ……」
「それが合意って言うなら、俺も心当たりのある相手がいる。お前みたいなのがタイプらしいから、そういうやつらを数人見繕ってきて、同じことをしてやろうか」
その様子を想像したのか、ひっとガロルドが青ざめる。殴るのも縛るのもしたくせに、自分がされるのは嫌らしい。それとも、好みでもないタイプに迫られるのは嫌なのだろうか。
しかし、よく分からない。
「……ガロルドがタイプの女の人ってことですか?」
それは特にお仕置きにならない気がしたが、それを聞いたカイルは黙った。
「ローズウッド、俺の部屋に行ってるか? それとも俺がこいつを連れて行った方がいいか」
「……いいえ」
本当はそうしたかったが、今はそうできない理由があった。
「うっ、疑うならそいつに聞いてください。なあローズウッド、俺は、お前と、合意の上でああしたよな?」
「それは……」
「違うか、ローズウッド?」
それは、とステラは答えに詰まった。
ガロルドの言葉を否定するのは簡単だ。けれど、もしもそうしたら、報復に何をされるのか。
家に許可を取った、と彼は言った。父親はともかく、継母は賛成したのだろう。邪魔な娘を片づけたあげく、子爵家の妻なら申し分ない。
もしかすると、金銭的援助をちらつかされたのかもしれない。継母は金遣いが荒かった。ステラの食費や服飾費を削り、素敵なドレスを身にまとっていたものだ。
あの家には実母の思い出がある。もしも何かされたらと思うだけで、胸がぎゅっと苦しくなった。
「何が合意だ。お前に押さえつけられて、必死で助けを求めてたろうが」
「それでもですよ。俺とこいつは婚約したんだ」
「婚約?」
カイルが不可解な顔になる。
「お前と、ローズウッドが? いつの間に?」
「だから、疑うならこいつに聞いてください。そうだよな、ローズウッド? いや――ステラ」
「……っ」
名前で呼ばれて、ステラは鳥肌が立った。
そんな事はないと叫びたかったが、声が出ない。
思わずカイルにしがみつきそうになり、はっと気づいて手を離す。彼を巻き込むわけにはいかない。
いくら第四騎士団の副団長であっても、彼の身分は平民なのだ。オレッセオ同様、貴族という立場を前面に出されれば勝ち目はない。
「……な、なんでもありません、副団長」
「ローズウッド?」
「団長には言わないでください。何もありませんでした。大丈夫です」
今ならまだ、誤解による行き違いで通る。
家の了解を取った以上、カイルが口を出せる話ではなくなった。真夜中に女性の部屋に侵入したという事実がある以上、ガロルドにも非はある。詳しく追及されたくない彼は、これ以上強くは言わないはずだ。ステラが黙っていれば、この場は収まる。
けれど、その代償として。
ステラはガロルドと婚約し、妻という名の奴隷となる。
おそらくまともな扱いはされないだろう。使用人の方がましかもしれない。
そして、先ほどのような事をされるのだ。今度は最後まで、誰の助けも入らずに。
(怖い……)
ステラはきつく目をつぶった。
想像するだけでぞっとする。怖くてたまらなくて、何かに縋りつきたくなる。
だけど、駄目だ。誰も助けてくれない。
どんなに怖くても、助けを求める事はできない。そんな事をすれば、きっと相手を困らせる。
(せっかく、騎士見習いになれたのに)
自分の力で生活していく基盤が整い、これからという時だった。自分で自分を養う事ができれば、自由に生きていけると思ったのに。
「……ローズウッド?」
「だ……大丈夫です。ほんとに、大丈夫……」
へらっと笑おうとして、息が詰まった。
自分の意志とは裏腹に、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。慌てて止めようとしたが、うまくいかない。焦ってステラは目を擦った。
「すみません、なんでもありません、見ないでください……!」
「そんなわけあるか。どうした、何が原因だ」
「ほんとに違うんです、なんでもないんです。ほんとに、なんでも……っ」
顔を見られたくなくて、ステラは彼のマントをかぶった。乾いた草の匂いに包まれて、荒れ狂う心が少しだけなだめられる。それでも胸が苦しくて、つかんだマントに爪を立てた。
――どんなに頑張っても、どうにもならない事がある。
それはずっと前から思っていた事だった。
たとえばそれは天気だったり、人の過去や運命だったり、どうしても変えられない未来だったり。無理に変えればひずみが生まれ、どこかにゆがみが生じてしまう。
そしてそれは、いつ降りかかってくるか分からない。
ステラは実母とずっと一緒にいたかった。けれど、その願いは叶わなかった。
新しい母とも仲良くしたかった。けれど、彼女からは拒まれた。
ご飯をお腹いっぱい食べたかったし、清潔な洋服を着たかった。けれど、それは許されなかった。
そうやって、ひとつずつあきらめてきた。
それを救ってくれたのは昔の仲間だ。
お腹がぺこぺこのステラにご飯をくれて、あたたかいお風呂に入らせてくれて、清潔な服を与えてくれた。安全な寝床をくれ、本をくれ、居場所をくれた。
絶望しなかったのはそのためだ。
どうにもならない事は確かにある。けれど、その中にも希望はあるのだと。
それでも駄目だと思ったら、誰かに助けを求めてみろと。
時には笑い、時には諭して、大切な事をたくさんステラに教えてくれた。
あのころの仲間ならなんと言うだろう。
ドンマイ、元気出せ。方法を考えて、何か手を。
――だけど、何も思いつかない。
「……ほら、俺の言った通りでしょう? 婚約者同士の痴話喧嘩ですよ」
「だからいつお前らが婚約したんだ。それに、どう見てもローズウッドは嫌がってるだろうが」
「突然の話だから、恥ずかしがってるだけですよ。つーか、これは貴族同士の話なんで、上官とは言え平民の副団長が関わってくる話じゃないです」
「……貴族?」




