第四王子の事情(1)
マルティーヌの姿が暗がりに完全に消えてしまうと、ヴィルジールは笑いをこらえ切れなくなった。
「ふ……、くくくっ。なんだ、あれは。可愛らしいな」
マメだらけの手を気にしていたところも、捨て台詞が自分を気遣う言葉だったことも、単に気が強いだけではない彼女の意外な一面を見た気がした。
そして、男をハッとさせておいて逃げ去るなど、なかなかの駆け引き上手だ。
もちろん彼女自身は無自覚の天然なのだろうが、そこがまたいい。
「ヴィルジール殿下。もうこれ以上、妹をからかうのはおやめ下さい」
相手が自国の王子であるため、彼が妹に対してどう振る舞おうと黙認していたオリヴィエも、我慢の限界だった。
殿下と二人だけのこの場なら、多少の不敬も許されるだろうと考え、強い口調で苦言を呈する。
「しかしな、あんなに可愛らしい令嬢を構うなというのは無理な話だろう?」
ヴィルジールがしれっと返すと、彼女の兄は「それには、完全に同意しますが」と、目尻を下げた。
「しかし我々は、マルティーヌを王族に渡すつもりはありませんよ。遊び半分に手を出すおつもりなら……」
「遊びでなければ良いのか?」
「殿下っ! それは余計に困ります!」
最初は、社交に不慣れな妹が、遊び慣れた最上級の男に苦戦しているだけだと思っていた。
しかし、先ほどの彼とのやり取りを見ていると、どうやらそれだけではなさそうだ。
彼女は、長年一緒に暮らしてきた自分が知らない、艶っぽい表情を見せていた。
オリヴィエは奥歯をぎりりと噛んだ。
無意識に左の腰を右手で探るほどの殺気を発する。
「そう熱くなるな。冗談だ。マルティーヌ嬢は魅力的な女性だが、私にはそんなつもりはないし、そんな自由もない。王族とはいえ、私も利用される立場だからな」
ヴィルジールはそう言いながら、傍らにあった椅子を引き寄せて腰を下ろした。
そして、テーブルの向こう側にあった椅子にちらりと視線を向ける。
座れという意味だ。
オリヴィエは新しいグラスにワインを注いで王子の前に置くと、彼の向かいに座った。
ヴィルジールはゆっくりと赤い液体を口に含むと、空高く昇ってきた半分の月を見上げた。
「まだ公にされていないが、私は半年後、ザウレン皇国に留学することになっている」
「留学……?」
「ああ。そしてそのまま向こうの第三皇女の伴侶となり、この国に戻ることはないだろう」
「まさか! それではまるで……」
オリヴィエは続く言葉を飲み込んだ。
皇国は辺境伯領とは国境を挟んですぐの国であるためそれなりに情報が入ってくるが、彼の国の第三皇女はまだ十歳にも満たない子どもだったはず。
第四王子とはいえ、この国の実質的な王位継承権第二位と噂されるヴィルジールが、そのような縁を結ばざるを得ないのはあまりにも不自然だ。
もしかすると、第三皇女の伴侶になることも、実現するかどうか怪しい。
政略結婚というより、人質と言った方が正しいだろう。
「……それは、国王陛下のご意向なのですか」
「いや。陛下はご病気で、意思疎通もままならない。これは王太子の命だよ」
第四王子と王太子の折り合いが悪いことは有名だ。
王太子が有力なライバルを追放したことは明らかだった。
「殿下はそれでよろしいのですか」
彼はその問いには答えず、グラスをテーブルに戻す。
「私の婚約者のことは知っているだろう?」
「……えぇ。まぁ」
オリヴィエは言葉を濁した。
第四王子である彼の今は亡き婚約者は、マルシャン公爵家の長女、ミレイユ嬢。
彼女は王族の血を引く銀色の美しい髪をした、清楚な令嬢だった。
彼らの婚約は幼い頃に結ばれたが、その当時、公爵家は財政的に困窮しており、他の王子や王弟を支持する派閥からは脅威とは見なされなかった。
そういう意味で、権力の座から遠い四番目の男子にはふさわしい相手だった。
ところが数年後、領地から金鉱脈が発見されたことで、マルシャン公爵家は栄華を取り戻していく。
公爵の政治的な発言力も増したことで、聡明であったヴィルジールへの期待も高まり、王太子に次ぐ後継者候補だと囁かれるようになった。
しかし、婚約者のミレイユ嬢は、乗っていた馬車が崖から転落した事故により落命。
ほどなく公爵も、金の取引の汚職を問われ投獄された。
「王族なんて、身内を含めて周囲は敵ばかりだ。だから私は、幼い頃からほとんど誰とも親しく接することはなかった。それでも彼女……ミレイユのことは大切に思っていた。恋愛感情は持てなかったが、かわいい妹のような存在だったんだ」
ヴィルジールが悔しげに顔を歪めた。
『かわいい妹』という言葉に共感し、オリヴィエは大きく頷いた。
『妹』がこの世から消えてしまうなど、考えるだけでも身体が震えるほどの悲劇だ。
ミレイユの不慮の死は事故として公表されたが、何者かによって殺害されたことは間違いなかった。
直後の父親の投獄を含めて、あまりにもできすぎていたのだ。
ヴィルジールは密かに彼女の死と公爵の罪について捜査したものの、真実にたどり着くことはできなかった。
ただ、黒い巨大な気配を感じ取っただけだった。
オリヴィエの耳にも、様々な噂は入ってきていた。
犯人として、王太子派や王弟派の有力貴族の名が取りざたされ、彼らが担ぎ上げる頂点の二人を黒幕とする説まであった。
しかし、真相は未だ闇の中だ。




