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「そう……だったんだな」


 オリヴィエが拳の裏側で、ぐいと目をこすった。

 セレスタンも鼻をぐすぐす鳴らしている。

 マルティーヌも頬を伝う涙を指先で拭ったが、ヴィルジールの話にはベレニスの記憶と大きく異なる部分があった。


「ベレニスがあの場所にたどり着いた時、目の前には崩れかけた古城があったわ」


 そう話し始めると、ヴィルジールが「古城?」と驚いたように聞き返した。


 伝説では『死の森』の最奥には、魔王が潜んでいた朽ち果てた古城があるとされており、そこは今でも『魔王城』と呼ばれている。

 実際には、円形に敷き詰められた石の床の中央に、石の椅子が据えられていただけの場所であったことを、マルティーヌの家族や騎士団上層部の者たちは、彼女から聞かされていた。

 だから、ヴィルジールが伝説とは違う真実を話しても驚くことはなかった。


 しかし、そこには同時に、伝説通りの古城も存在していたのだ。


「古城は……結局は幻だったんだけど、ちゃんとそこに存在したの。『死の森』のいくつかの地点からは、木々の間から城の尖塔が見えていた。それは、複数の冒険者が証言していた事実よ」

「魔王城は、ただの伝説ではなかったのか……」


 マルティーヌは「そうよ」と頷く。


 ヴィルジールの持つ魔王の記憶には、古城は一切出てこない。

 見えない壁に閉ざされた、椅子が置かれただけの寒々とした空間でしかなかった。

 だから、絵本や戯曲で描かれる『魔王城』は、物語を盛り上げるための脚色に過ぎないと思っていたのだ。


「その古城を背景にして、ベレニスの前に立ちふさがった魔王は、二本の大きな角のついた兜と漆黒の甲冑を身にまとった、がっしりとした体つきの大男だった。彼の右手には、禍々しい魔力が黒い炎となってまとわり付く大剣が握られていた」

「な……っ、まさかそれも?」


 彼女の説明に、ヴィルジールはさらに驚愕する。


「そう。それも、ベレニスが見た事実よ」


 マルティーヌが語る魔王の姿は、勇者ベレニスの活躍を描いた有名な物語の一節と、ほぼ同じ。

 多くの人々が信じる、おぞましく凶悪な魔王の姿は事実に忠実だったのだ。


 しかしそれは、ヴィルジールが知る魔王の姿とはあまりにもかけ離れていた。


「でも、魔王はなぜか、大剣を振り上げたまま微動だにしなかったの」


 頭をすっぽりと覆う兜のせいで彼の顔を見ることはできなかったが、ただこちらを見下ろしているだけで、殺気は全く感じられなかった。

 覇気や生気すらも——。


 一方で、彼の大剣がまとう魔力は想像を絶するほど強力で、彼とは別の意思で燃え上がっているようだった。

 黒い炎が小さく渦巻くだけで身体の内側が凍る気がし、大きく噴出すれば、その圧力で体が吹き飛ばされそうだった。


「魔道士のチェスラフが、大剣の魔力を封じようと必死に術を繰り出していたけど、炎の勢いがわずかに抑えられた程度にしか効き目がなかった。彼の魔力も底を尽きかけていたから、ベレニスはいちかばちかで突っ込むしかなかった」


 魔王の持つ大剣の魔力は足がすくむほど恐ろしかった。

 あれが振り下ろされれば、直撃しなくとも、この世から一瞬で消し去られてしまうだろう。


 けれどなぜか、魔王が剣を振り下ろすことはないだろうと思った。


 ベレニスは両足に身体強化をかけて思い切り地を蹴った。

 逆手にしっかりと握った長剣を肩口で構え、見るからに頑強そうな甲冑に弾かれないよう、最大限の強化術を切っ先に移す。

 そして、魔王の左胸めがけて全身で突っ込んでいった。


 鋭い剣先が、鈍く輝く黒い胸当てに届く瞬間、ベレニスは歯を食いしばり渾身の力を込めた。


 しかし彼女の剣は何の抵抗も感じないまま、するりと魔王の体に飲み込まれた。

 彼女自身も、あっという間に漆黒の鎧をすり抜ける。


 勢いのついた身体は、あやうく石が敷き詰められた地面に叩きつけられそうになったが、ぎりぎりで身体強化を施し受け身を取った。

 何度か地面を転がったあと、慌てて体を起こして顔を上げた。


 そこには大剣を振り上げたままの魔王の後ろ姿があった。

 攻撃を受けてもなお、巨大な人形のように動かない。


「彼女には、何が起こったのか全く分からなかった。とにかく、もう一撃与えようと体勢を整えたとき、魔王の姿が霧に包まれたように霞んでいったの。あたりを見回すと背後にあったはずの朽ち果てた古城も霞んでいく。そして、彼女は中央に石の椅子が置かれた奇妙な場所にいることに気づいた」

「魔王城も魔王の姿もすべて幻……?」

「そうね。凄まじい魔力を帯びた大剣すら幻だった。そしてベレニスは椅子の上に、ボロをまとったやせ細った少年がぐったりと座っていることに気づいたの」


 ベレニスはとっさに「大丈夫?」と声をかけ、少年に駆け寄った。


 少年はゆっくりと顔を上げると薄く目を開き、弱々しくも満足そうな笑みを見せた。

 何かを言いたげに唇がかすかに動いたが、言葉を聞き取ることができなかった。

 なぜなら、彼の姿は見る見るうちに人骨と化していったから。

 そしてその骨もあっという間に細かな砂のように崩れ、風に吹かれて消えていった。


 今なら分かる。


 あの少年……魔王が伝えたかった言葉は「ありがとう」だった。


 マルティーヌの持つ勇者ベレニスの記憶。

 ヴィルジールの持つ魔王の記憶。

 この両者が揃ったことで、ようやくあの最期の瞬間の真実が明らかになった。


 おそらく魔王は、何らかの儀式の犠牲者だったのだろう。

 魔王として目覚めた時、彼はすでに死者であった。

 そして、奇妙でおぞましい何らかの力で、まがい物の命を与えられていたのではないだろうか。


 一体そこに、どんな目的があったのだろうか。


 哀れな少年が、魔王と呼ばれる存在として生き続けたこと。

 恐ろしい魔獣を次々と召喚し、この世界に解き放ったこと。

 それらが意図したものだったのか、失敗の産物として結果的にそうなったのか、それすら分からない——。

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