(2)
「マルティーヌ! 大変だ!」
ソファーの上でまどろんでいたマルティーヌは自分を呼ぶ大声で飛び起きた。
「お……とうさま?」
アップルパイを食べた後、昼食もしっかり食べた。
いつもなら、鍛錬場で汗を流すことが日課なのだが、今日は騎士団の主な面々が今朝の現場に向かったために、遊び相手がいなかった。
しかたなく、自室で怠惰に過ごしていたのだが。
部屋に飛び込んできたのは、ラヴェラルタ辺境伯で父親のグラシアン。
彼は、手にした杖で娘を指すようにして大声をあげた。
「いいか、今すぐ一番良いドレスに着替え、髪を整えなさい!」
「え?」
父親の焦った顔と、騎士団長時代を彷彿とさせる口調での意味のわからない命令に、娘は面食らう。
彼は騎士団と共に、人が魔獣に襲われた現場に向かったはずだ。
あの凄惨な場面とドレスが全く結びつかない。
「何を言ってるの? 巨躯魔狼に襲われた人たちは無事?」
娘は急いでソファーを降りると、父親に詰め寄った。
「詳しい話は後だ。お前が助けた青年、あの方はな……」
「あぁ、その人は大した怪我はしてなかったはず。ちゃんと、彼の手柄にしてくれた? 現場はもう片付いた? お兄様たちは?」
父親は自分の話をちっとも聞かない愛娘をの肩に両手を置くと、次々にぶつけられる質問を押さえつけるように、低い声でゆっくりと言い聞かせる。
「いいから、落ち着いて私の話を聞きなさい。あの方はヴィルジール殿下だ」
「は? で……ん……?」
その名前には聞き覚えがなかったが、思いがけない敬称を耳にした気がした。
「そうだ。お前が助けたのは、この国の第四王子のヴィルジール殿下だったのだよ。殿下は、王家からの迎えが来るまで、しばらくこの屋敷に滞在されることになった」
「うそ……。最悪……」
確かに彼は最高級の長剣を持っていたし、高価な一角暴鹿の角の飾り物をつけていたし、身なりも上等だった。
バスチアンから関わると厄介かもしれないと警告され、嫌な予感もあったが、よりによって王族だったとは!
「うわぁぁぁ、嫌だぁ〜!」
マルティーヌは頭を抱えた。
とにかく、王族や、高位貴族という権力者は大っ嫌いなのだ。
すでに十七歳だというのに、社交界デビューすらしていないほどに——。
ドゥラメトリア王国には四つの辺境伯が存在するが、隣国との国境を守るのではなく魔獣を討伐する任務を負っているのは、ラヴェラルタ家だけである。
対魔獣に特化した騎士団は、人間や他国を相手にしない宣誓をしているものの、周辺諸国を含めても最強だと言われている。
また、自らが討伐した貴重な魔獣の素材の取引を独占しているため、財力も申し分がない大貴族だ。
しかし、元は平民の冒険者だという家の成り立ちとその任務から、きらびやかな社交界では「穢れ仕事」だの「野蛮」だのと蔑まれてきた。
ラヴェラルタ家当主はもちろん、優秀な騎士、魔術師として名を馳せ見目もすこぶる良い二人の息子ですら、居心地の悪い思いをしてきたのだ。
理由は他にもあるが、マルティーヌの父親は、王族や高位貴族を毛嫌いする娘のわがままを飲み、体が弱いと詐病して、彼女を権力者の目にさらさないように育ててきた。
しかし。
「さすがに、この屋敷にいらっしゃる殿下にご挨拶しない訳にはいかないよ」
父親はため息交じりに言った。