(3)
彼が石の椅子があるだけの閉ざされた空間で目覚めてから、どれくらい年月がたったのか定かではない。
周囲の古木が朽ち果て、新たに芽吹いた種が大木となっていたのだから、ゆうに百年以上は経っていただろう。
ある時、彼の前に現れたのは、鴉のように真っ黒な体色で尾羽の中央だけが鮮やかな赤い色をした、巨大な魔鳥だった。
その鳥は、空中に大きく開いた暗い穴から飛び出してくると、そのままばさりと落ちて動かなくなった。
「おい、おまえ!」
彼は慌ててその鳥の首を起こした。
しかし、鳥は目を閉じたままぐったりとして動かない。
最初は死んでしまったのかと思ったが、どこも怪我をした様子はない。
しっかりと筋肉がついた頑強な体つきをしており、健康そうだ。
柔らかな羽毛に包まれた胸部がゆっくりと上下していたから、気を失っているか眠っているのだろうと考えた。
これまで出現した魔物たちは、穴から這い出てくるとすぐさま恐怖におののき、悲鳴をあげて逃げ去ってしまったから、この魔鳥は、彼が孤独の日々の中で初めて触れる温もりであった。
魔鳥の体にもたれかかって目を閉じ、自分以外の体温と規則的な心臓の鼓動を感じていると、安らぎを覚えた。
彼は魔鳥が目覚める日を心待ちにしていたが、その日が来ることはなかった。
魔鳥にもたれて、ただぼんやりと日々を過ごしていると、ふっと視界が暗くなった。
次の瞬間、彼は石の床にごろりと転がった自分の体を、真上から見下ろしていた。
「えっ? 何」
漆黒の鳥の姿はそこになかった。
ぐったりと横たわる粗末な衣をまとった少年と、円形舞台のように石が敷き詰められた床と、その中央に据え置かれた石の椅子だけが見えた。
間近で大きな鳥の羽音が聞こえ、視界の端を黒い翼がかすめていく。
これまで、経験したことのない奇妙な浮遊感。
「この姿はまさかあの鳥? 僕は鳥になったの?」
ようやく彼は、自分の意識が魔鳥の中にあることに気づいた。
そして、この姿であれば、自分を閉じ込めている透明な壁の外に出られることを知り、開放感と高揚感に胸がいっぱいになった。
彼は漆黒の翼を大きく広げ、大空高く舞い上がる。
しかし、飛び立ってすぐ、周囲の森に広がるおぞましい光景に目を疑った。
彼がこれまでいたのは、大木が鬱蒼と生い茂った森の最奥。
その周辺では巨大な魔獣たちが、凄まじい弱肉強食の生存競争を繰り広げていた。
血の臭いと腐敗臭が上空にまで立ち上り、獣の唸り声や悲鳴、破壊音がところどころから聞こえてきた。
木々はあちこちで無残になぎ倒され、地面は大きく抉られ、白骨化した魔獣の骨があちこちに散らばっていた。
森の奥から離れるにつれ、魔獣たちは小型化していく。
彼が初期に呼び寄せた力の弱い小型魔獣は、凄まじい繁殖力で数を増やし、自分たちよりも大きい魔獣に大群で襲いかかっていた。
この森は、以前はきっと自然が豊かな美しい森だったはずなのに。
「これがすべて、僕のせいで……?」
森の中に蠢く魔獣の全てに見覚えがあった。
魔力を放出した際に現れる暗い穴から這い出してきたおぞましい異形の獣たちは、長い年月をかけて、広大な森を蝕み破壊し、支配の構図を作り上げたのだ。
その発端となったのが、呪わしい自分の存在。
死にたい。
今すぐ消えてなくなりたい。
自分が死んでも、既に森に放たれた魔獣は消滅しないだろうが、これ以上、新たな魔獣を召喚することはないはずだ。
だけど、自分が決して死ねないことも、長い年月を過ごす中で嫌というほど分かっていた。
誰か、僕を殺して……。
ふと気づくと、彼はざらざらした石の上に倒れていた。
彼は慌ててあたりを見回したが、この数日、そばにあった黒い魔鳥はどこにもいなかった。
自分の意識だけがあるべき場所に戻り、魔鳥の体は森のどこかに置いてきてしまったのだろう。
もう二度と外へ出ることは叶わないと思ったが、その日以来、彼の意識はときどき黒い魔鳥の中にあった。
さらに凶暴化する魔獣を次々と森に放ち、魔獣が引き起こす惨状を上空から目の当たりにする日々を数十年ほど送った後、彼は森の浅い場所に、武装した人間の姿を見つけた。
やがて、冒険者と呼ばれるようになる人々だった。
最初の頃、冒険者たちは小型の魔獣ですら苦戦していた。
しかし、年月が経つにつれ、武器が改良され、討伐技術も磨かれていった。
そして、数人から十数人のパーティを組むようになり、森の中ほどまで進攻できるようになった。
巨大な鴉のような魔鳥が、冒険者たちの様子を監視している——。
当時、彼らの間で、そんな噂がまことしやかに流れていた。
時折『死の森』上空に黒い巨大な鳥が現れ、人間を見張るかのように何度も旋回を繰り返していた。
魔鳥が攻撃をしてくることはなかったが、冒険者たちが魔獣と戦っていると、少し離れた場所からじっとその様子を眺めている。
そのため、魔王が魔鳥の目を通して人間を探っているのではないかと考えられるようになり、やがて『魔王の目』と呼ばれるようになった。
森の周辺にある各国が、魔王の討伐に多額の報奨金をかけたのもこの頃だ。
最初は金になる珍しい魔獣の毛皮や角などの素材を求めて森に入っていた冒険者たちが、一攫千金を狙って、魔王が潜むという森の奥地を目指すようになった。
しかしそこは、恐ろしい巨大魔獣の縄張りだ。
多くの冒険者が魔王の元へとたどり着くことなく、次々と命を落としていった。
しかし彼は、そんな冒険者たちの中に、希望の光を見つけた。
それがベレニスだった。
彼女は魔王討伐を目指す者たちの中で、ずば抜けて強かった。
彼女なら森の最奥までたどり着くかもしれないと思った。
彼は、自分の意識が『魔王の目』の中にあるときは、いつもベレニスの姿を追っていた。
魔獣を狩る彼女の剣は凄まじく速く、鋭く、鮮やかだった。
地を蹴る足は力強く、全身は頑強ながら弓のように大きくしなる。
太陽のように笑い、仕留めた魔獣の肉を豪快に喰む。
誰よりも強く魔獣には容赦がないが、仲間の死にひどく打ちひしがれる。
彼は彼女の全てに魅了されていた。
できることなら、彼女の仲間となって冒険したかった。
けれど、それはありえないことだと分かっていたから、せめて、彼女に殺されたかった。
ベレニスならきっと、僕に死を与えてくれる。
そう確信していた。
ある日、ベレニスが仲間たちと森の開けた場所で休憩を取っているところを見つけ、近くの大岩に降り立った。
「今日は一人足りないな」などと思いながら、彼女たちのくつろぐ様子を眺めていると、突然、頭に袋のようなものを被せられた。
視界を塞がれ、身の危険を感じて慌てて飛び立とうとしたが、首がぐいと引っ張られて飛べない。
どうにかして逃げようともがいていると、「ごめんな」という声が聞こえた。
そして、その直後、あの石の椅子だけがある空間に戻されていた。




