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(2)

 彼が座っていた椅子の足元も、同じ石でできた床だった。

 表面が平らに削られた大きな石が、椅子を中心にして全く歪みのない巨大な円を描いて敷き詰められている。

 その外側を大木が壁のようにぐるりと取り囲んでおり、どこからもその向こうが見通せなかった。

 かなり深い森の中なのだろう。


「逃げなきゃ」


 どこへ行けば良いかは分からなかったが、この奇妙な場所から逃げたかった。


 しかし、石造りの冷たい円から雑草が生える土へと一歩足を踏み出そうとした時、足の指先が何か硬いものにぶつかった。


「あれ? 何かある……?」


 確認するために何度か足を出したが、見えない透明の壁のようなものに阻まれてしまう。

 おそるおそる手を伸ばすと、やはり見えない何かがそこにあった。


「出して! 出してくれ!」


 壁を力一杯叩いたり、蹴ったりしてみたが、びくともしなかった。

 壁に手のひらをつけてぐるりと一周してみたが、どこにも隙間はなかった。

 彼は、石の円に沿って築かれた円筒状の見えない壁の内側に、完全に閉じ込められていた。


 彼は来る日も来る日も、見えない壁に挑み続けた。

 武器になるようなものは何もない。

 唯一そこにあった石の椅子は床と一体化しており、動かすことができなかった。

 どこかに穴でもあいていまいかと、手のひらが擦り切れそうなほど、くまなく壁を撫で回したりもした。


 しかし、遮るものがないかのように吹き抜ける風を肌に感じるのに、どうしてもそこから出ることはできなかった。


 彼は、水を飲むことも食事を摂ることもできなかったが、飢えや渇きを覚えることは一切なかった。

 睡眠すら必要としなかった。


 たった一人で、無為な昼と長い夜をどれだけ過ごしただろう。


 ある時彼は、自分の内側に異変を感じた。

 それは日を追うごとに膨れ上がっていったため、彼はそれが病であると思った。


「これでようやく死ねる」


 体の内側から引き裂かれるような苦痛と息苦しさは増していったが、この苦しみの先に安らかな死があると信じ、歯を食いしばって耐えた。


 そしてようやくその時が来た。

 全身から何かがふっと抜け出して、一切の苦痛が消えたのだ。


「やっと……死ねた」


 ざらざらとした冷たい石の上に、うつ伏せに体を横たえて目を閉じ、彼は安堵した。

 しかし。


 キ……キキィッ


 耳元で聞こえた耳慣れない音に、うっすらと目を開けた。


 しかしそこは天国などではなく、先ほどまでいた寒々とした石の円の中の世界。

 一つだけ違ったのは、目の前に灰色の毛並みの小さな生き物がいたことだった。


「なに? ……鼠?」


 大きさも形も鼠に似ていたが、背骨に沿った三本の鋭い棘を持ち、長い尾は二本ある。

 これまで見たことのない異様な姿だった。


 その鼠に似た生き物は、混乱したようにあたりを見回した直後、びくりと体を震わせた。

 そして、激しい悲鳴をあげ、逃げるように外に向かって走り出した。


「だめ……だ!」


 このままでは見えない壁に激しくぶつかってしまう。


 とっさに手を伸ばしたが、捕まえることはできなかった。

 小さな生き物は、壁があるはずの場所をするりと通り抜け、周囲を取り囲む木々の間を抜けて走り去ってしまった。





 その鼠のような生き物には、その場にいた全員に心当たりがあった。

 『死の森』全域に生息する小型の魔獣で、しばしば大繁殖を起こし、人間の居住地にも出没する厄介者だ。

 魔獣としては最弱の種であるが、背中の鋭い棘で怪我をする者も多い。


棘鼠モススピノスね?」


 マルティーヌが確認すると、ヴィルジールは頷いた。


「そうだ。あれが最初に呼び出した魔獣だった。昨日の討伐演習で、何匹か倒したが、私があれを実際に見たのは、あの頃以来だったよ。だからといって懐かしさも何もない。ただただ、忌々しかった」


 彼は魔王の記憶を自分の経験であるかのように言う。


「呼び出した? 『死の森』の魔獣はすべて魔王が生み出したと言われているけど、そうじゃないの?」

「生み出したというのとは少し違う。彼の体に溜まっていったのはおそらく魔力だろう。その魔力が限界まで溜まって放出されると、目の前に黒い穴のようなものがぽっかりと現れるんだ。魔獣はその穴から這い出てくる」


 ヴィルジールの隣に座っていたセレスタンが考え込む。


「だとすると……召喚? 魔獣はどこかから呼び寄せられたということか。一体どこから……?」

「分からない。この世界とは別の世界かもしれない」


 魔獣は、現在のドゥラメトリア王国と、隣国ザウレン皇国との国境に広がる『死の森』にしか生息しない。

 姿形はこの世界で普通に見られる動物と共通点はあるものの、大半はおぞましい外見と能力を持つ異形だ。

 巨躯魔狼や『魔王の目』のように、普通の動物の数十倍の大きさがある種も多い。


 これまでは、魔獣は魔王が生み出したのだから、異形なのは当然だと考えられていた。

 マルティーヌも、ベレニスの時代から今までずっとそう信じていたから、彼の話に戸惑いを覚える。


 しかし、真実を知っているのは魔王——彼の記憶を持つヴィルジールだけ。


 現在では、勇者についても真実が隠蔽され美化されて伝わっているから、魔王はより邪悪な存在として誇張されているのかもしれない。


「最初のうちは、召喚されるのは灰色の棘鼠ばかりだったが、黒い個体が混ざるようになり、徐々に大型化し、やがてもう少し大きい別の種類の魔獣が現れるようになった。そんなことを、何年、何十年繰り返したか分からない。魔王の魔力量が増えるにつれて、魔獣はどんどん大型化し凶暴になっていった」


 ヴィルジールは話を続けた。

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