関わりたくない相手(1)
ローズの石鹸の香りを纏わせた若い令嬢が、大きなソファーにゆったりと腰掛けている。
身につけているのはシンプルなデザインながらも、上質な絹で作られた部屋着だ。
そばかす一つない滑らかな頬が、湯上りでほんのりピンクに染まっている。
冷えた果実水を一口口に含み、「ふう」と息をついて金色の前髪をかきあげると、少し目尻の上がった意志の強そうな青い瞳がのぞいた。
ソファーの後ろに立った侍女のコラリーがため息を漏らした。
彼女が手にしたブラシは、主の後頭部をひとなでするだけで、すぐに空を切ってしまうのだ。
この時代の女性たちは、当たり前のように髪を長く伸ばしている。
貴族の令嬢となればなおさら、美しく手入れされ飾り立てられた髪は一種のステータスでもあるのに、その令嬢の輝く金の髪は、うなじを隠せないほど短く刈り上げられていた。
令嬢の名はマルティーヌ・ラヴェラルタ。
『死の森』を間に挟んだ隣国との国境を守るラヴェラルタ辺境伯の娘だ。
今朝、やぼったい町娘の姿で辺境伯領の市場に出かけ、買い食いを堪能する暇もなく、先ほど血まみれになって帰ってきた。
その後、強制的に湯船に放り込まれ、今ようやく一息ついたところだ。
「兄様たち、もう向こうに着いた頃かな」
顔だけ見れば、美少年のような令嬢が口を開く。
ラヴェラルタ辺境伯は他の辺境伯とは一線を画している。
国境の大部分に、人間には通り抜けることができない『死の森』が横たわっているため、隣国から攻め込まれることを想定しておらず、魔獣の駆除に重きを置いているからだ。
ラヴェラルタ家の祖先は、魔獣を討伐して賞金を稼ぐ凄腕の冒険者で、百年ほど前に爵位を授けられ、この地の領主となった。
その後、腕の良い冒険者たちを集めて対魔獣に特化した騎士団を組織し、現在に至る。
現在のラヴェラルタ家当主はマルティーヌの父親であるグラシアン卿。
彼は三年前の怪我がもとで騎士の第一線を退き、二十五歳の長男オリヴィエが団長を、二十三歳の次男セレスタンが副団長を務めていた。
「国境近くといっても、市場からほど近い場所なのでしょう? 先発隊で出られたセレスタン様は、もう救助活動を始めている頃だと思いますよ」
「なんとか、間に合えばいいんだけど……」
屋敷に戻って最初に会ったのが、回復や治癒術を得意とする魔術師のセレスタンだった。
彼は妹の報告を聞くと、即座に部下の魔術師と魔術師見習を呼び集め、先頭を切って現場へ向かった。
現場に残してきたバスチアンが被害者の命をなんとか繋いでいてくれれば、彼らの魔術で助けることができるはずだ。
先発隊の後、団長のオリヴィエが率いる隊も現場に向かった。
彼らは周囲の調査と魔獣の死骸の処理にあたる。
被害に遭ったのが高位貴族の可能性が高いという報告を受け、当主グラシアンもこの後発隊に同行していた。
「ドゥラメトリア王国最強のラヴェラルタ騎士団が向かったのですから、心配いりませんよ。お嬢様はゆっくりとお休みください。お昼にはまだ少し早いですから、何かお菓子でも……」
「あーっ!」
侍女に「お菓子」と言われて思い出した。
「アップルパイ! まだ一個半しか食べてなかったのにぃぃぃ」
市の露店で買ったアップルパイに、クッキー、揚げ菓子にタルト。
その全部を広場にぶちまけてしまった。
串焼きの肉も口直しに食べるつもりだったし、クレープにも目をつけていた。
半年ぶりに見つけたキャンディーも買わずじまいだ。
「もぉぉぉ、コラリーの分も兄様の分も、たくさん買ったのに。もっといろいろ食べたかったのに……」
マルティーヌはがっくりと肩を落とす。
「市は明後日までですから、改めて出かけたら良いじゃないですか」
「ダメなの! 今日、市でもやらかしちゃって……。あんなに目立っちゃったら、しばらく市には行けないわ。他に使えるカツラはないし」
茶髪のもっさりしたカツラは、市にお忍びで出かけるためのもの。
市では、なるべく目立たないようにしていたのだが、子どもを助けるために暴れ馬の前に飛び出したことで、あの場にいた人々には顔を覚えられてしまっただろう。
新しく別のカツラを用意して別人になりきるしかないが、今回の市には間に合わない。
「お願いコラリー。明日、わたしの代わりに買ってきて!」
「かしこまりました。でも、今日はニナさんのお菓子で我慢してくださいね」
涙目で訴える令嬢に、三つ年上の侍女はなだめるように提案する。
ニナというのは母親付きのベテラン侍女で、この館のお菓子担当でもある。
「……じゃあ、アップルパイをお願い。今日はもう、アップルパイの口なんだもん」
「では、しばらくお待ちください。美味しいお茶と一緒にお持ちしますね」
侍女は、飲み終えた果実水のグラスを手に、部屋を後にした。