(6)
「お嬢!」
聞き覚えのある声に視線を向けると、こちらに駆け寄ってくる男の姿が見えた。
男は小山ほどもある獣の背に立つ少女の姿にぎょっとして、一瞬足を止めかける。
「バスチアン、何をしている。早く来い!」
「あ、すまん。しかしなんだ、これは。どうして赤魔狼がこんなに……ってか、そのでっかい奴は一体……」
あたりの惨状を確認しながら近づいてくる彼の前に、マルティーヌは魔狼の肩から高くジャンプして着地した。
「貴族の一行が、赤魔狼の群れに襲われたようだ」
「そりゃ、見れば分かるが、ここには結界があるはずで……」
バスチアンはそう言いながら空を見上げた。
魔術の心得のある彼は、魔獣よけの結界に問題がないことを確認したのか首をひねる。
「うん。特に問題はなさそうだがな」
「ちっぽけな人間が張った結界ごときじゃ、奴には通用しなかったんだろう」
マルティーヌがちらりと後方を見やると、彼も巨大な獣の正体を見極めようと目を細めた。
これほど巨大な魔獣は『死の森』の奥地でもそう出くわさないし、ましてや狼の姿となると伝説上の存在だ。
「そいつは……まさか、巨躯魔狼?」
「うん。そうだ」
マルティーヌが頷く。
「まじか! まさか今も存在していたなんて……。でもって、お嬢が倒したんだよな。こんな短時間で」
バスチアンは、先ほど自分が貸した長剣が、手を伸ばしても届かないような高い場所に深々と突き刺さっている様を見て、感嘆のため息を漏らした。
「バスチアンは回復術が使えたよな? 俺はこれから兄様たちを呼びに行くから、それまで、できるだけ多くの人を持たせておいてくれ」
「できるだけ多くって……一体、何人いるんだ? 俺の魔力がもつかな」
ぐるりと見渡すだけで、六人の男が倒れている。
すぐ足元にうつ伏せで倒れている青年以外はかなりの重傷に見えた。
もしかすると、もう息絶えた者もいるかもしれない。
「あの藪の中にも一人飛ばされているんだ。彼はかなりの傷を負っているが、さっきやられたばかりだから、まだ間に合うだろう」
「りょーかい」
「それから、そこの彼がこの中で一番強いはずだから、彼の剣をあそこに突き刺しておいたんだ。巨躯魔狼は彼が倒したということで、よろしく!」
「はぁ?」
指差された魔狼の頭の上から、かろうじて金色の柄頭が見える。
それはバスチアンの剣よりもさらに高い場所に刺さっていた。
「いや、その設定は無理がありすぎるだろ……?」
バスチアンはぶつぶつ言いながら、指名された青年の肩に手をかけると、身体をごろりと上向けた。
そして、はっと息を飲む。
眉間に苦痛の皺を寄せた顔は、彫りが深く上品な印象だ。
背は高そうだが、すらりとした体格をしており、とても伝説の魔獣を仕留められるような男には見えない。
彼よりよほど屈強な肉体をもつ自分でも、巨躯魔狼に一撃を食らわせることができるとは思えないのだから。
彼が身につけている紺色の上着は上質で、襟や袖の折り返しに繊細な刺繍が施されていた。
そして、乱れたタイにかろうじて留まっていたのは大型のカメオ。
金細工に縁取られた、白に淡いグリーンがマーブル状に浮かび上がる素材に、紋章のような緻密なレリーフが彫られていた。
「お嬢。助けを呼びに行ったら、もう戻ってくるんじゃないぞ」
バスチアンの声が深刻そうにひそめられる。
「ん? どうして」
「彼がつけてるブローチの素材、一角暴鹿の角だ。これが買えるような人間は限られてる。お嬢が関わると、ちょっと厄介なことになりそうだ」
「一角暴鹿だって?」
彼の指先を凝視して納得する。
一角暴鹿は小型の魔獣。
凄まじく敏捷で臆病だから、めったに捕獲されない貴重種だ。
その額に生える一本の角は非常に美しく、宝石以上の価値で取引される。
彼の胸元のカメオは長い方の直径が五センチほどもあり、小型獣の角にしては規格外の大きさだ。
彫り込まれている紋章は詳しくないため分からないが、高位貴族のものに違いない。
「うわっ。最悪ぅ」
マルティーヌは嫌悪感に肩をすくめた。
「分かった。あとは兄様たちに全部任せることにするよ」
「あと、お嬢、血まみれなんで、せめてこれを。それから、言葉遣いと格好がバラバラだ」
指摘されてはっとする。
市で買い食いをするために、町娘の姿で出てきたことをすっかり忘れていた。
慌てて自分の格好を確認すると、白いブラウスと水色のスカートが返り血で赤黒く染まり凄まじいことになっていた。
手渡された上着は、小柄なマルティーヌにはぶかぶかすぎてコートを着ているかと思うほど丈も長かった。
かなり不恰好ではあるが、血染めのドレス姿よりはマシだろう。
袖を何度も折り返し、戦闘で乱れた髪をなでつける。
「これでいいかしら? じゃあ、わたくし行くから、あとはよろしくね」
意識的に声を高くして首を傾げ、にっこり微笑んで見せると、バスチアンは苦笑しながら「りょーかい」と右手を挙げた。