(6)
「マティ、しっかりしろっ! マティ!」
地面に崩れ落ちた妹を、ようやくたどり着いた兄が抱き起こす。
兄の腕の中にスッポリと収まった小さな身体は、ついさっきまで大立ち回りをしていたにも関わらず、冷え切ってぐったりとしていた。
すでに、意識もないようだ。
「バスチアン、頼む! 早く治癒術を! マティを助けてくれ!」
「いや、しかし……」
バスチアンは戸惑いながら、指の腹で少女の首筋に触れ、獣の血がこびりついた頬を拭って顔色を確かめる。
さらに、かざした右手を少女の全身に沿って動かし、わずかに回復した魔力を使って容態を確認した。
「やっぱり……」
「どうした。マティは大丈夫なんだろう? 早く術を……! 早くマティを治してくれ!」
「リーヴィ、無理だ! 治癒術じゃ、お嬢様を治せない」
「なぜだ! 魔力が足りないのか? あぁ、どうしたらいいんだ! このままじゃ俺のかわいい妹が……マティが死んでしまう! うわぁぁぁっ!」
取り乱したオリヴィエの両肩をバスチアンが掴んで揺さぶった。
「しっかりしろ、副団長! よく見ろ! 彼女はかすり傷一つ負っ……」
「じゃあ、なんでマティは倒れたんだよ! 毒か? 毒にやられたのか。なんとかしてやってくれ! 頼むから!」
「話を聞けよ! リーヴィ。……おそらく、魔力切れだ」
「魔力切れ、だ……と?」
妹が生まれてから十四年もの間ずっと一緒にいたが、彼女から魔力を感じたことは一度もない。
母親も魔力を持たなかったから、母親に似たのだろうと、誰一人疑問に思わなかった。
腕の中の妹の様子は、確かに魔力切れの症状にも見えるが、そもそも魔力を持たない者が魔力切れを起こすことはない。
「そんな馬鹿な! マティに魔力はないんだぞ!」
「あぁ、俺もさっきまでそう思っていたさ。お嬢様が魔獣と戦っているのを見るまではな。だが、あの戦いっぷりは、魔力で身体強化をしたとしか思えないだろう?」
バスチアンがオリヴィエの背後を指差した。
そこには折り重なった灰翼蜥蜴の死骸が山となっている。
ついさっき、マルティーヌが叩き切った大型の個体はその頂きにあった。
魔獣相手では、どれほど優れた武器を持っていたとしても、魔力で強化しない生身の身体など丸腰とほとんど変わらない。
それほど魔獣と人間との力の差は大きいのだ。
先ほど目の当たりにした、マルティーヌのスピードやすさまじい跳躍力、魔獣を一刀にする腕力は、強化術を使わない限りありえない。
「確かにそうだ……な。しかし、この数を、たった一人で……?」
オリヴィエは再度、周囲を見回した。
背後の死骸の山の他にも、崖の真下や川の向こう岸、折れた木々の間などのそこかしこに、ばらばらになった魔獣の死骸が散乱していた。
その数、ゆうに百頭以上。
この崖に生息していた灰翼蜥蜴は、ほとんど全滅したと言って良いだろう。
「お嬢様には想像を絶するほどの、膨大な魔力が宿っていたんだろう。そうとしか考えられない」
「想像を絶する魔力……か」
自分自身も魔獣の討伐の際には魔力で身体強化をするが、今の十倍の魔力があっても、妹と同じレベルでは戦えそうもない。
百倍ならあるいは……と思うほどの規格外の魔力。
それはもう、人間離れした力だ。
「お嬢様は勇者……か?」
「ベレニス様……」
副団長から少し離れて見守っていたクレマンとアロイスの口から、崇拝する偉大な勇者の名がこぼれる。
「く……そっ」
同じ人物を思い浮かべていたオリヴィエは奥歯を強く噛んだ。
古の勇者を彷彿とさせる実力を持ちながら、マティはこれまでその片鱗すら見せなかった。
そこには、何か大きな事情があるはずだ。
それなのに、今、その力を解放せざるを得なかったのは、俺が、そしてラヴェラルタ騎士団があまりにも不甲斐なかったからだ。
彼女が隠そうとしていた秘密を、秘密のまま守ってやることができなかった。
オリヴィエは妹の冷えた頬をそっと撫で、「すまない」と呟くと顔を上げた。
「バスチアン。マティのドレスを乾かすだけの魔力はあるか。できれば血や泥も綺麗に落としてやって欲しい」
「ああ。それくらいならなんとかなる」
バスチアンが短く呪文を唱えると、渦巻く温風がマルティーヌを包み込んだ。
顔や髪や手足の汚れが落ち、水色のドレスは元の色を取り戻す。
しかし、薔薇色だった艶やかな頬は青ざめたままで、瞼は固く閉じられ青く輝く瞳を見ることができない。
戦闘中に邪魔になったのか、美しい金色の髪は頭の右側がざっくりと短く切られていた。
腕の中に収まる細く華奢な肢体は固くこわばり、恐ろしく冷えたままだ。
「マティ、よく頑張ったな。家に帰ろう」
オリヴィエは最愛の妹の髪を撫でると、ゆっくりと抱き上げた。




