(2)
「マティ、どうした?」
父親の視線が向く。
「違う。違うの、わたしのせいよ!」
娘の唐突な言葉に、家族は困惑した表情を浮かべ顔を見合わせた。
魔力を持たず、剣を握ったことすらなく、屋敷の中で大切に育てられたラヴェラルタ家の清楚な花。
騎士団がどんな被害に遭おうとも、彼女にはひとかけらの責任もない。
なのに、マルティーヌは大きな瞳から涙を溢れさせながら、言葉を続ける。
「だって、わたしは灰翼蜥蜴が崖を崩すほど頭が良いことを知ってた。岩を武器にすることも知ってたの。知ってたのに、誰にも教えなかったの。わたしが教えてたら、お父さまだって対策していたはずなのに!」
「マティ、それはどういう……?」
それは、これまで数多くの魔獣を仕留めてきたグラシアンも、騎士学校や魔術学校を卒業した兄達も全く知らないことだった。
だからこそ、今回大きな被害を出したのだ。
魔獣討伐を生業とする自分たちが知らなかったことを、なぜ、この家のお嬢様が知っていると言うのか。
講堂に集まっていた騎士団の面々も一様に驚いた様子で、団長と娘のやり取りを見守っていた。
「わたしが討伐に一緒に行っていたら、灰翼蜥蜴のような雑魚に、こんな目に遭わされることはなかった。お父さまも団のみんなも、誰一人、傷つくことはなかったの! 全部、わたしが悪いの!」
そう叫ぶと、彼女はすっくと立ち上がり小走りにその場を離れた。
「ちょっ、マティ! どこへ行く!」
「マルティーヌ!」
開け放たれた講堂の扉の脇には、団員達が使用していた武器や防具が乱雑に置かれていた。
マルティーヌはその中からベルトのついた鞘に収まったままの長剣を選び取ると、手慣れた様子で素早く腰に巻いた。
小柄な彼女では歩く邪魔になりそうな長剣だった。
「何をしてるんだ。やめなさい」
追いかけてきたオリヴィエが、妹の奇行とも思える行動を止めようと手を伸ばしたが、彼女はするりと身をかわした。
邪魔をするなとばかりに、肩口からちらりと視線を向ける。
「マ……ティ?」
妹の青い瞳には、静かな、しかし凄まじいまでに激しい炎が灯っている。
あの愛らしい妹とは全く別人のような雰囲気に、兄は圧倒されて立ちすくむ。
その隙をついて、マルティーヌは激しい雨の中に飛び出した。
「マティ! 待て!」
はっと我に返ったオリヴィエが後を追う。
彼女の姿はあっという間に少し離れた馬屋の中に消えた。
そしてすぐさま、父親が普段騎乗している一番大きな栗毛を引き出してくる。
「マティ! どこへ行く!」
「お嬢様! おやめください」
講堂の前には、兄と大勢の騎士たちが集まっていた。
マルティーヌは身の丈に合わない重い長剣と、濡れてまとわりつくドレスの裾をものともせず、大型の父親の愛馬にひらりと飛び乗った。
少女の思いがけない身のこなしに、講堂の前からどよめきが起きる。
彼女はこれまで、小さなポニーで近くの安全な森を散策する程度にしか、乗馬の経験はなかったはずなのに——。
「おまえ。お父さまの仇を打つよ。付き合って!」
マルティーヌがそう言いながら馬の首筋に手を置くと、遠征から戻ったばかりで疲れているはずの馬の目に気力が宿った。
鼻息も荒く、気がせくのか後ろ足で何度も土を蹴ってみせる。
「いい子だね。行くよ!」
ハッと気合を込めて馬の腹を蹴ると、馬は初めて背に乗せた小さな主人の意のままに、雨の中を走り出した。
「くそっ! どうなってるんだ」
彼女は誰も知らなかった灰翼蜥蜴の性質を知っていたという。
騎士団が苦戦を強いられた敵を雑魚だと言い放ち、重い剣を取って馬を駆る。
何もかもがありえないことだった。
オリヴィエは混乱しながらも慌てて講堂に戻ると、自分の長剣を取ってくる。
「まだ体力のある奴はついてこい!」
講堂の前で呆然としている騎士たちに大声で命ずると、まずバスチアンが名乗り出た。
彼は父親の片腕だったが、魔物の素材の大きな取引のため、今回の遠征には参加していなかった。
ついさっき、被害の知らせを受けて騎士団に駆けつけ、負傷者の治療に当たっていた。
「お前はもう魔力切れだろう。休んでいろ」
「魔力はぎりぎりだが、まだ倒れるほどじゃないさ。今回の遠征に出られなくて体力は有り余っているんだ。同行させてくれ」
「俺たちも連れていってくれ」
バスチアンの他に二名の騎士が志願した。
オリヴィエと同い年のクレマンと、三つ年上のアロイス。
彼らは団長の指示で優先的に治癒術を施された、実力ある男たちだった。
「すぐに出るぞ!」
彼らが急いで装備を整え、馬の背にまたがった時には、マルティーヌの姿はとっくに見えなくなっていた。
話の流れから、彼女が『死の森』に向かったことは間違いなかった。
マティはきっと、灰翼蜥蜴がねぐらとしている崖の場所も、正確に知っている。
オリヴィエの背筋がぞくりとしたのは、打ち付ける冷たい雨のせいだけではなかった。




