(2)
「分かった。じゃあ……万一、ヴィルジール殿下が世界に仇なす真の魔王になったら、わたしが勇者として討伐してあげる!」
「えっ」
過激な言葉に驚いたヴィルジールが振り返ろうとしたが、そうさせなかった。
彼の大きな背中に思い切りぶつかって、両手を伸ばす。
彼の胸の前で、手首を十字に重ねて腕を締め付ける。
額を背中に押し付ける。
「その時に王子だろうと国王だろうと、わたしが必ず倒してあげる! だから、この先に起こるかどうか分からないことなんか、心配しなくていい!」
万一、彼が真の魔王に堕ちたとしても、刺し違えてでも止める人間がそばにいればいい。
そしてそれはきっと、勇者の記憶と能力を引き継いだわたしの役目。
「本当に、君が……倒してくれるのか?」
呆然としたような声が、彼の背中を通して聞こえてくる。
謁見の間で、椅子の魔力の流入に喘ぐ彼に「俺を殺せ」と言われた時には、反射的に「そんなこと、できるはずない」と突っぱねた。
けれど、今は——。
「そうよ。殺してあげる」
「そうか。また……君が死をくれる……のか」
ヴィルジールが言葉を噛み締めるように言う。
彼は……いや、実際には魔王の記憶だったのだが、ベレニスに対して「死を与えてくれたことに感謝しかなかった」と言っていた。
かつての魔王は人間に対する強い罪悪感を抱きながら、勇者が目の前に現れるまでの数百年という長い間、死ぬことができなかった。
彼にはそんな辛い思いはさせない。
死を保証することが、彼が前を向いて生きていくために必要なものだ。
「だけど、殿下がどこにいるか分からなかったら殺しに行けないじゃない。だからどこにも行かないで。ずっと、ここにいて」
「それは……言葉通りの、すごい殺し文句だな。君がずっとそばで、俺を見張っていてくれるということか?」
彼の手が自分の手に重なった。
彼の胸に押し当てていた掌が剥がされ、レースをまとった指の間に彼の指が滑り込んでくる。
え? ……あれ?
話が変な方向に行ってる?
「ち、ちょっと待って」
手を取り返そうにも、指を絡めてしっかりと握り込まれているから動かせない。
「俺のそばにずっといてくれるのだろう? でないと、俺を止められないじゃないか」
「あ……の……」
彼のそばにいるってどういう意味?
ずっとここにいてと言ったのは、わたしだけど……。
拒否をしてはいけない。
でも、「うん」と言ってしまったら、何かが終わる気がする。
彼がぐっと首を下げて前屈みになった。
繊細なレース越しに、指とは違った柔らかな熱が触れる。
「ひゃぁぁぁっ! だ、大丈夫っ! 何かあればラヴェラルタ領から飛んでくるからぁ〜!」
「ふっ……、くくっ」
彼の背中が大きく揺れた。
笑ってる……?
だったら、いいか。
きっと彼は、もう大丈夫。
そう思ったのだが、ふと気づく。
ラヴェラルタ領にいれば、いつでも駆けつけられる。
でも、もしかすると自分の未来には、そんな自由はないかもしれない。
「……ごめん。やっぱり無理かもしれない」
深刻な声に気づいたヴィルジールはマルティーヌの腕を解くと、くるりとこっちを向いた。
「どうした? 何かあったか」
「昨日、サーヴァ殿下とルフィナ殿下がうちにきたの」
隣国皇子の名に、ヴィルジールの眉がぴくりと動いた。
「ラヴェラルタ家の屋敷にか?」
「うん」
「彼らは昨日の朝、自国に戻ったはずだが、その前にそっちに寄ったのか」
「それで……あの」
言い淀んでいると、彼は「とりあえず座って」と二人がけのソファーを勧めてくれた。
そして隣に座ると、話の先を促すように顔を覗き込んでくる。
良くない話であることを察したのか、真剣な表情だ。
「彼は、今回の事件の賠償として、わたしを望むと言ったの」
「えっ? 君……を……?」
「わたしがザウレン皇国に嫁ぐことで、ドゥラメトリア王国の全ての賠償を帳消しにするって。これは外交問題になるから、ヴィルジール殿下にとりなせ……と」
「まさか! サーヴァ殿下は、事件の賠償については母国で協議すると言っていたんだ。我々には、具体的な内容を何も話さなかった。だから、先方に提示できる条件を洗い出して準備をしていたんだが……」
彼はしばらく考え込む様子を見せた。
「そうか、マルティーヌ嬢を望むか。サーヴァ殿下は君やマルクに執着している様子だったからな。彼は政にあまり興味のない方だから他意はないだろうが、あの国の皇太子は好戦的だ。君がそんな国に行ったら……」
彼の言葉の意味を察して、マルティーヌは両手で顔を覆った。
「……い、やだ……」
サーヴァにザウレン皇国に来るよう言われた時から、本当は気づいていた。
けれど、必死に考えないようにしていた。
目の前が赤く染まっていく。
荒れ果てた土地に転がる、無惨に切り殺された無数の死体。
手には血塗られた長剣。
過去の悲惨な記憶と同じ光景が、未来にも広がっている——。
ああ、そうだ。
過去を繰り返す恐怖に縛られているのは、彼だけじゃない。
わたしも同じ。
「嫌だ! 嫌だ! どうして、権力者はわたしを利用することばかり考えるの? どうして、放っておいてくれないのっ!」
ヴィルジールの魔王化より、マルティーヌがベレニスの悲惨な人生を再現する可能性の方が遥かに高かった。
すぐ目の前に危機が迫っていると言って良いほどに。
「戦なんか……絶対、嫌なの……にっ! わたしは、人殺しの道具になんかなりたくないのに……」
人を斬る感触を思い出した右手を左手で握りしめ、肩をすくめて胸元に隠す。
追い込まれた小動物のように恐怖に震える様子は、規格外の魔力と戦闘力を誇る勇者の生まれ変わりとは思えないほど、弱々しく頼りない。
ヴィルジールが彼女の姿を世界から隠すように、腕の中に閉じ込めた。




