新たな道へ(1)
王城内の見取り図は、舞踏会の前に頭に叩き込んであったから、ヴィルジールの私室の場所は分かっている。
ドレスと高いヒールで動き回ることにもすっかり慣れたマルティーヌは、長い廊下を疾走していた。
途中ですれ違った出仕の貴族や使用人たちは、鬼気迫る様子で向かってくる美少女に驚いて道を開けた。
騎士や警備兵などが、怪しさしかない令嬢を止めようと立ち塞がったが、目にも止まらぬ速度でするりとかわしていく。
そしてものの数分で、マルティーヌは目的の扉の前に辿り着いた。
扉の前を守っていた二人の衛兵は、瞬きの間に目の前に現れた正装の令嬢に目を丸くした。
途中の通路にも厳重な警備が置かれているから、部外者が入り込めるはずのない場所なのだ。
「え? ええ? いつの間に」
「ここは立ち入り禁止の区域です。どうやってここまで辿り着かれたのですか!」
彼らが警戒心をあらわにして立ち塞がる。
少し髪が乱れてはいるものの、完璧な令嬢が右手の長手袋を優雅に外しながら、清楚な笑みを浮かべ小首を傾げた。
「その扉の向こうには、どなたがいらっしゃいますの?」
「それはお答えできません。すぐにここから立ち去ってくださ……い……」
令嬢の美貌に一瞬見惚れた二人の衛兵は、ほぼ同時に廊下に崩れ落ちた。
マルティーヌは邪魔な二人を通路の隅にどけると扉を開けた。
中は青灰色を基調とした落ち着いた配色の広い部屋だった。
手前には大きなソファーやテーブルがあり、その奥に、この部屋の中では少し異質な色合いの、マホガニーの重厚な机が置かれている。
その机に向かって座っていた銀の髪の男が、驚いた様子で椅子から立ち上がった。
机のこちら側で、背を向けて立っていた男も肩越しにはっと振り返る。
「マルティーヌ嬢!」
「ええっ? どうしてこちらに?」
軟禁と聞いていたが、どうやら自室に机を持ち込んで仕事をしていた様子だ。
舞踏会の夜からの激務のせいか、以前会った時と比べて少し痩せたように思う。
目の下には濃い隈も見える。
彼が国王と話し合い、廃嫡されたのが昨晩だというから、ろくに眠っていないのかもしれない。
「ヴィルジール殿下が王子様をやめて、国外に行くって聞いたわ」
実際には廃嫡で国外追放なのだが、少し軽い表現を使うと彼はふっと笑った。
「きっと驚くだろうと思ったが、まさか、ここまで乗り込んでくるとはな。外に見張りがいたはずだが?」
「ええ。でも、急病で倒れてしまって……」
右手に手袋をはめながら、しらじらしく言う。
「時々、そんな病人が出るのだよ。私も以前かかったことがあるが、原因は何なのだろうな……」
ヴィルジールは苦笑しながら、ちらりとジョエルに視線を送った。
「では、私は病人の様子を見て参ります」
側近がそそくさと部屋を出ていくと、二人きりになった。
「とりあえず、こちらへ」
ヴィルジールがマルティーヌの手を取り、ソファーへと誘おうとするが、マルティーヌはその場から動かない。
上目遣いに彼を睨む。
「ヴィルジール殿下、廃嫡ってどういうこと? 国外追放って……?」
「俺はもう廃嫡されたんだ。……今は、ただのヴィルジールだ。ヴィルと呼んでくれないか」
そう言われても、今、彼をヴィルと呼べば、彼が王子でないことを認める気がして、意地でも殿下呼びを押し通す。
彼には何の罪もない。
王位を継ぐべき人なのだから。
「ヴィルジール殿下! あの椅子は二人で壊したじゃない。もう魔王なんてこの世に存在しない、できないのに!」
マルティーヌが訴えると、彼は顔を背けて「俺も最初はそう思っていた……」と呟くように言う。
「だったら、どうして!」
「あの椅子を壊した後、俺の中に微かな違和感が残ったんだ」
「違和感?」
「そう。それは、これまで気づかなかっただけで生まれた時からあったかもしれないし、椅子の力によって生み出されたものかもしれない。だが、同じ感覚は、四百年前の魔王の記憶にもある。椅子が存在しようがしまいが、関係ない。いまここにあるものは、俺が魔王である証拠なんだ」
ヴィルジールが胸を押さえながら喘ぐ。
「……でも、椅子がなければ実際には魔王にならないわ」
「いや。父上……陛下には言えなかったが、俺は既に魔王なんだ。この違和感がどうしても気になって、死にかけていた黒魔狼に近づいてみたんだ。奴は恐怖の悲鳴をあげ、動けない体で必死に逃げようとした」
「それ……は」
魔王には魔獣が近づかない。
恐怖のあまり逃げ出してしまうのだという。
それは、四百年前の魔王も、アダラールもそうだった。
ヴィルジールは巨躯魔狼や『魔王の目』に襲われた経験があるし、『死の森』で魔獣を狩ったこともある。
その時は、魔獣に避けられたりしなかった。
彼は魔王の記憶を持ってはいても、魔王ではなかったのだ。
しかし、今は——。
ヴィルジールは苦しげに首を横に振ると、マルティーヌの前から離れていく。
そして、書類が積まれた大きな机の向こう側にある窓の前に、背を向けて立つ。
「俺がこの国にいれば、いずれ国王にならなければならない。だが、人間の敵である魔王に、そんな資格があるものか! 俺がこの国を、この世界を、恐怖と絶望しかない荒野に変えてしまうかもしれないのに……」
大きなガラスに、彼の俯く姿が微かに映る。
どんな顔で、そんなことを言っているのか。
彼の震える肩を見るだけで、胸が苦しくなってくる。
彼は、魔王の記憶を自身が繰り返すことを恐れている。
考えすぎだとは言えない。
実際に彼は、魔王と同じ性質を宿している実感があるのだから。
きっと、今の彼には慰めの言葉は何の役にも立たない。
——それなら。




