(2)
「サーヴァ皇子殿下、大変お待たせをいたしました。マルティーヌにございます」
ドレスの裾をつまんで頭を下げると、「お姉さまっ!」と黒髪の少女が飛びついてきた。
薄いベールで隠されており顔がはっきりとは見えないが、ルフィナ皇女だ。
「まぁ、ルフィナ殿下もいらっしゃったのですね。怖い思いをなさったことでしょうが、お元気そうで何よりですわ」
「ええ。お姉さまのおかげよ! お姉さま、今日もお綺麗だわ」
「姫殿下こそ。お可愛らしいお顔が拝見できないのが残念ですが、ザウレン皇国伝統のお衣装がよくお似合いです」
自分になついてくれる小さな姫君の頭を撫でると、少し緊張が解けた。
しかし、すぐに邪魔が入る。
「さあ、ルフィナ。自分の席に戻りなさい。お姉さまが困っているだろう?」
席を立って近づいてきたサーヴァが、妹の両肩に手を置いて諭すように言うと、彼女は「はい、お兄さま」と素直にマルティーヌの前を離れた。
代わりに優雅な微笑みを浮かべた皇子から手が差し出される。
マルティーヌはしぶしぶながらも「ありがとう存じます」と笑顔を返して、彼の手を取った。
皇子自ら、父親の隣の席まで丁寧にエスコートしてくれる。
その洗練された身のこなしは、さすが皇族だ。
「今、辺境伯にも話そうとしていたことなのだがね」
サーヴァは自席に戻ると、いきなり本題を切り出した。
ルフィナはどんな話になるのか分かっているらしく、期待に瞳を輝かせて兄の様子をじっと見つめている。
「これは今のところは提案なのだが、マルティーヌ嬢、ザウレン皇国に来ないか」
「えっ? それは……どういう……?」
物見遊山に来いという楽しいお誘いでないことは、さすがにマルティーヌでも分かる。
皇子はもともとマルクを気に入っていた。
舞踏会の夜にダンスに誘ったくらいだから、マルティーヌのことも悪くは思っていない。
二人が同一人物であっても全く気にしないどころか、むしろ大歓迎だろう。
そして彼は、三十歳を過ぎてなお独身だ。
だから、彼の言葉の意味は——。
マルティーヌはごくりと唾を飲み込み、どんな言葉を聞かされても取り乱さないよう身構える。
「当然、結婚の申し込みだよ。君にはぜひ、私の妻として皇国に嫁いでもらいたいと思っているのだ。ルフィナも君に大層懐いているようだしね」
あああああ。
やっぱりっ!
予想はしていたがうまく反応できない。
マルティーヌは作り笑いを浮かべたまま固まってしまった。
「殿下、大変ありがたいお話ではありますが、娘には婚約者がおりますので」
父親のグラシアンが割って入り、大義名分を持ち出して断ろうとする。
「ああ、もちろんそれは知っている。だが、私が子爵家のアロイスに劣るはずがないであろう? ラヴェラルタ家もザウレン皇国と縁続きになるのは喜ばしいことではないか」
「恐れながら。辺境伯の娘が国境を接する隣国に嫁ぐなど、ドゥラメトリア国としても看過できない問題でしょう。これは成立しない縁組でございます」
圧倒的な武力を持つラヴェラルタ辺境伯家と大国である隣国が結びつけば、国境の防衛上、大きな不安を抱えることになる。
勇者ベレニスの生まれ変わりはヴィルジールであると誤解されているからまだ良いが、マルティーヌの規格外の戦闘力は知られてしまった。
その娘が隣国に渡るだけでも、ドゥラメトリア王国にとって大きな脅威となる。
いくら皇国が娘を欲しがったとしても、王国はこの婚姻を許可できないはずだ。
父親としても、国境線で娘と睨み合うような状況を想像するだけで、体が震える。
「現状では、次のドゥラメトリア国王はヴィルジールになるはずだ。彼はなかなかできる男だが、私は必ず彼に首を縦に振らせてみせるよ。これは外交問題に発展するのだから」
「外交問題……?」
父娘は顔を見合わせた。
辺境伯令嬢と隣国皇子の婚姻など、常識的に考えてありえない。
ドゥラメトリア王国が拒否すれば外交問題にはなるだろうが、王国側に分がある。
しかし、サーヴァはにやりと笑った。
「ザウレン皇国としては今回の事件を無かったことにはできない。王国側に賠償責任が発生するのだよ」
「お待ちください。殿下が戦闘に参加なさったことについては、ドゥラメトリア国は責任を負わないはずでは……」
マルティーヌが思わず立ち上がった。




