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(5)

 マルティーヌを見上げていたのは、驚きに大きく見開かれた黒い瞳だった。

 たくさん泣いたのか充血し、目の周りも鼻の頭も赤くなっていた。

 くっきりとした眉の上で切り揃えられた艶のある黒髪も乱れている。


 かわいそうに。

 こんな場所に閉じ込められて、どんなに心細かっただろう。


 マルティーヌは少女の前に膝をつくと、小さな身体を抱き寄せた。


「もう大丈夫ですよ、小さな姫君。わたくしが来たからには、もう何も心配することはありません」


 少し低めではあるが女性の声だ。

 言葉遣いも、男性っぽくはあるが女性寄り。

 見た目は儚ささえ感じられる絶世の美少女だ。

 けれど直感的に、この女性ひとがそばにいてくれれば、何事にも脅かされることはないという強い安心感を感じて、ルフィナは泣き出した。


「怖かったぁ! 怖かったの。顔を隠した男たちが大勢やってきて……、それでっ、う、ううっ、みんな……血が……。わあああっ」


 その言葉で何が起きたのか、だいたい想像がついた。


 皇女を捕らえようと押し入った敵は、彼女を守ろうとした護衛や侍女らに次々と襲いかかったに違いない。

 十歳にも満たないいたいけな少女が、突然、凄惨な現場の中心に立たされた。

 その事実だけで、胸がひどく痛む。


「おかわいそうに。無理にお話しくださらなくてもいいですよ。だいたい分かりましたから」


 マルティーヌは小さな背中を抱きしめ、髪をゆっくり撫でた。


 ああ、なんて触り心地のいい髪。


 そんな関係のないことでも考えていなければ、少女を抱き潰しかねないほどの怒りを感じていた。


「あの……ジョエル様。この方は?」


 少し遅れて入ってきたジョエルに恐る恐る声をかけたのは、ルフィナと一緒にいたレナータという名の三十代後半ぐらいの品の良い女性。

 皇女の侍女であり、教育係でもある。

 彼女とジョエルは、主が婚約者同志のため、お互いを見知っていた。


「こちらの方は、ラヴェラルタ辺境伯のご息女、マルティーヌ様です」

「ラヴェラルタ……? では、『死の森』を守っていらっしゃる、あの?」

「ええ。そうです」


 ラヴェラルタ騎士団の勇猛さは隣国でも有名だ。

 その名を聞いて、レナータは幼い主を慰めている可憐な令嬢の姿を、改めてよく見た。

 豪華なエメラルドグリーンのドレスにはあちこちに赤黒い染みができているし、左の腰には剣の柄が突き出している。

 どう見ても、魔獣と戦った後のような有様だが、名高いラヴェラルタ家の令嬢ならありえそうに思う。


「だから、帯剣していらっしゃるのですね」

「いいえ。あれはただの護身用です。彼女はごく普通のご令嬢ですよ」


 妙に納得顔をするレナータに、ジョエルは苦笑する。

 そして、人差し指を唇の前に立てて、首をかすかに横に振って見せた。


「あなた方をここに閉じ込めた者たちに、お心当たりは?」

「いいえ。全く」

「そうですか」


 ジョエルは残念そうに答えながらも、内心では安堵していた。

 マルティーヌを捕らえようとしたのが王太子の親衛隊長だったことを考えると、皇女も王太子の命令で襲われた可能性が高い。


 だから、今はまだ、敵の正体は不明のままが良い。


 マルティーヌは、落ち着きを取り戻した少女をそっと自分から離すと、言い聞かせるように言う。


「ルフィナ皇女殿下。今からあなた様を安全な場所にお連れいたします」

「……でも、安全な場所なんてあるの? わたくしはお城の部屋で襲われたのよ。それに、外には恐ろしい魔獣がいるって聞いたわ」

「大聖堂でしたら……」


 そう言いかけて、マルティーヌは考える。


 いくら大聖堂が魔獣の脅威からは安全でも、大勢の貴族と修道女たちが気を失っている。

 マルティーヌから見たあの壮観な光景は、何も知らない彼女たちには恐怖でしかない。

 しかも、さっき自分を襲ってきた王太子の親衛隊長らも倒れている。

 彼らは敵だ。

 そんな場所に、今回の事件の重要人物である皇女を連れていけない。


「……いえ、わたくしたちの仲間のところにお連れします。ジョエル……様、パメラはまだ庭園におりますよね?」


 ジョエルは瞬時にパメラの姿を確認して「ええ」と答えた後、「サーヴァ殿下も一緒にいらっしゃいます」と付け加える。


「ええっ、お兄さまも?」


 ルフィナが目を輝かせた。


「はい。我々の仲間とともに、魔獣と戦っていらっしゃいます」

「だったら、行くわ! お兄さまのもとに連れて行って」


 彼女にとってサーヴァは、魔獣狩りを趣味にするほどの、誰よりも強い兄だ。

 安心できる彼の元に行きたいと願うのは当然のことだった。


「かなり暗いですから、足元にお気をつけください」


 ランプを持ったマルティーヌが振り返る。

 彼女の後をジョエル、侍女の順に、長い螺旋階段をゆっくりと下りていく。

 ルフィナは目立つ容姿を隠すため、毛布に包まれてジョエルに抱きかかえられていた。


 階段を下り切ると、マルティーヌはランプをレナータに手渡した。

 そして、右手を腰の剣の柄にかける。


「ジョエル。外にいる……よね?」


 扉の外に魔獣の魔力をいくつも感じる。

 先ほど倒した黒魔狼の死骸や、被害にあった見張りの男の遺体がそのまま外に放置されているから、血の臭いを嗅ぎつけた獣たちが集まってきても不思議はなかった。


「はい。七、八頭ほどが右手の一箇所に群がっています。あっ! 大きい奴もいます! ここを出て左手に一頭」

「大きい奴……ね」


 つまり双頭熊だ。


 二人の間にぴりりとした緊張が走った。


 マルティーヌはジョエルに敬称をつけ忘れたし、令嬢らしくない言葉遣いになっていたが、お互い気づかない。

 王子の側近であるジョエルの方が身分が上だが、彼はマルティーヌの部下のような言動をしている。


 ルフィナとレナータは二人の関係を訝しく感じながらも、同時に当然だとも思う。

 彼女たちは侯爵家の子息より、マルティーヌの方に圧倒的な大物感を感じていた。

 マルティーヌがその儚げな外見にそぐわないほど強いであろうことも、単身で魔獣がうろつく外へ出て行くつもりだということにも気づいていた。


「では、掃除してまいります」


 ランプの灯りに浮かび上がった横顔は、綺麗というより凛々しいという言葉がよく似合う。

 掃除という軽い言葉の通り、きっと彼女にとって魔獣などその程度の存在なのだろう。


 ふっと余裕の笑みを見せた令嬢が、薔薇の刺繍が入った見事なドレスの裾を翻し、暗闇の中へ颯爽と出ていった。

 その姿は誰よりも美しく気高く、頼もしい。


「ああ、なんて素敵」


 皇女と侍女は思わずため息をついた。


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