(10)
応接間から食堂へ移動するなり、マルティーヌは部屋の隅に置かれているソファーに身を投げ出した。
「くやしーい!」
「まぁ、マティ。せっかくのドレスがしわになってしまうわ」
母親がたしなめても聞こえない。
置かれていたクッションを一つ取って、部屋の隅に力一杯に投げ捨てる。
「くやしい! くやしい! くやしいっ! このわたしが、あんな男に完敗だった! 自分がこんなに人見知りだったなんて!」
相手が目の前に立った瞬間、すでに勝負が付いていることを悟った。
勝手に手足が震えてくる経験は生まれて初めてだった。
「だって、人間を目の前にして、身がすくんで動けなかったんだよ? いつもは魔獣を威圧しているわたしがだよ?」
どんな魔獣でも怖いと思ったことはなかったのに、人間に対して怖いと思うとは。
相手は、それなりに剣の心得があるようだったが、巨躯魔狼に傷一つつけられなかった、ただの人間。
体格も魔力も、優秀な兄二人に劣る普通の人間なのだ。
優れているとすれば、この国の王子という肩書きと、社交能力と、あとは……顔くらい?
「う……わっ」
今、あのお上品な顔を思い出すだけでも、顔が熱くなり、体は寒くなり、恥ずかしさと情けなさで、どこか遠くへ逃げ出したくなる。
頭の中では、完璧な令嬢を演じられるはずだった。
両親は、どこに出しても貴族令嬢として恥ずかしくないよう、マナーを叩き込んでくれたはずだし、自分でも身についていると思っていた……のに。
「う……ううぅぅぅ」
自分が社交的に、圧倒的な弱者だと強烈に思い知らされた。
もうひとつのクッションに顔を埋めて身悶えていると、頭の上に大きな手が置かれた。
その感触と重みだけで分かる。
長兄のオリヴィエだ。
「おまえはこの先、社交界に出ないんだから、人見知りでも全然構わないだろう? 今回が例外なだけで、この家にいる限り何も困らないんだから、そう気に病むな」
「そうだよ。マティは僕らだけのマティなんだから、むしろ人見知り万歳だよ。他の男なんてクソ食らえだ!」
セレスタンはソファーの前にかがみこみ、クッションを握りしめていた手をそっと撫でてくれた。
「まぁ、結果的には良かったんじゃないか。マティ、おまえの振る舞いで今回の目的は完璧に果たされた。王子殿下は弱々しい令嬢だと思い込んでいたようだからね。これで、おまえが巨躯魔狼を倒した娘だと疑われることはないだろう」
父親も労いに近い言葉をかけてくれる。
確かに今回の目的を考えれば、想定以上の成果は出したのだろう。
「でも、情けないじゃない! わたしは最強のはずなのに」
マルティーヌ・ラヴェラルタという人間が、普通の令嬢ならあたりまえにこなすことを、何一つ満足にできないぽんこつだと、相手に思われてしまっただろうから。
「じゃあ、貴族令嬢としても、最強になりましょうよ。明日から淑女レッスンを増やしましょう。そうだわ、この機会にドレスも新しく作って、アクセサリーも揃えなくちゃ」
一人だけうきうきしている母親の声に、マルティーヌはすっと冷静になった。
「それは嫌」
あの男に軽く見られてしまったのはしゃくにさわるが、それはそれだ。
オリヴィエが言った通り、今後、社交界に出ようという気持ちはこれっぽっちもない。
王族と関わるのも今回限り、例外中の例外だ。
だから、逃げるが勝ちだよね。
今回の相手は魔獣じゃなくて、人間なんだから——。
マルティーヌはソファーから降りると父親の前に駆け寄った。
「お父様。明日から、部屋に引きこもっていてもいい? またあの王子に会ったらボロが出そうだから、もう会わなくてもいいよね?」
愛娘の必死の訴えに父親は頷く。
「まぁ、いいだろう。おまえのあのぼろぼろな様子を見たら、これ以上無理強いはできないよ。体調が悪いと言えば、王子殿下もご納得されるだろう」
「やったぁ」
家長の判断にマルティーヌだけでなく、息子二人もほっとした様子を見せた。
一方、母親と周囲の女性使用人たちは、明らかに落胆している。
「だが、殿下が王都に帰られるまでは、なるべく部屋でおとなしくしているんだよ。どこかでばったり会ったりすると大変だから、引きこもっていても一日中ドレスとかつら姿で過ごすこと」
「はぁい……」
その程度なら、どうってことはない。
普段でも家族で食事するときは、今日ほど着飾らないにしてもドレスとかつら姿なんだから。
これから五日ほど、何もせずに自室にこもるのは退屈で息がつまりそうだけど、王子の前に出るよりはよっぽどマシよ。
……と思った翌々日。




