(3)
「では、マルティーヌ嬢。お手を」
「ありがとうございます」
行きたくない!
今すぐ帰りたい!
差し出された手をとって立ち上がると、足が震えていた。
きっと、手も震えている。
舞踏会への参加は自分から言い出したことだし、それなりに準備も整えていたけど、お茶会は全くの不意打ち。
まだ心の準備すらできていない。
お願い、気づいて!
わたしを助けて!
見上げた瞳で必死に訴えると、彼はふっと微笑んだ。
そして、力が入る指先をなだめるような優しい手つきで、マルティーヌの手を自分の腕に移してくれた。
「さあ、行きましょう。城の職人が腕を振るった珍しいお菓子がたくさんありますよ。甘いものはお好きでしょう?」
「え、ええ。た……のしみです、わ」
引きつった笑顔を浮かべ、彼の腕を頼って、恐怖にすくむ足をなんとか踏み出した。
ところが数歩歩いたとき。
ドレスの裾が不穏に揺れる。
そしてそこから差し込まれた何かに、つま先が引っかかった。
ただでさえ、不安な気持ちと高いヒールのせいでぐらぐらしていた足は、障害物に耐えられない。
「きゃあ!」
がくりと膝から崩れ落ちたところを、力強い腕で支えられた。
「大丈夫ですか! マルティーヌ嬢!」
俯いていた身体がくるりと上を向かされる。
すると、心配そうに眉を寄せながらも、唇の端が少しゆがんだヴィルジールの顔が間近にあった。
マルティーヌは何が起きたのか瞬時に悟った。
こいつ、今、足をひっかけやがった?
怒りのあまり、自分が今、どんな状況にいるのかすっかり頭から飛んでしまう。
危うく「何するんだよ!」と叫びそうになったが、額にこつりと当たった固いものに声が詰まった。
ヴィルジールの緑の瞳が近すぎて焦点が合わない。
彼の鼻先が、自分の鼻を一瞬かすめていく。
額に押し付けられている固いものは、彼の額だった。
「ひぃ…………」
あまりの出来事に全身が硬直する。
息が止まる。
手足が急激に冷えて、その分の熱がぶわりと顔に集中した。
「マティ!」
「マルティーヌ!」
慌てたように自分を呼ぶ家族の声が遠い。
「ああ、やっぱり。マルティーヌ嬢は熱があるようだ」
その声だけが間近からはっきり聞こえた。
え? 熱?
そんなはずは……?
大混乱の中反論しようとすると、それを封じるように「ああ、可哀想に」と身体に回された彼の両腕に力が入る。
ヴィルジールに強く抱きしめられ、心臓の鼓動が信じられないほど速くなり、顔は湯気が上がりそうなほど熱くなり、反抗する気力は一気に蒸発した。
王子の腕の中でぐったりしている娘は、確かに高熱があるように見えた。
「まあぁ、マティ。しっかりしてちょうだい!」
ヴィルジールの意図を察した母親が話を合わせる。
王太子も驚いたようにソファから立ち上がった。
「それは大変だ。マルティーヌ嬢が休めるよう、すぐに部屋を準備させよう」
「いいえ、兄上。彼女はひどく病弱で繊細な方なのです。長旅の疲れも癒えぬうちに、無理に王城に呼び出され、体力的にも精神的にも負担が大きかったのでしょう。このまま城に留め置いては、体調は悪化するばかりです。今すぐ屋敷に帰してあげた方が良いでしょう」
ヴィルジールはきっぱりと言い切って、マルティーヌを抱き上げた。
怒涛の展開に頭が追いつかなかった父親と兄たちは、そこではっと気づいた。
なすがままになっていたマルティーヌも、ふわりと身体が浮いた時点でようやく理解する。
もしかして……、これで、王太子の前からもお茶会からも逃げられる?
足を引っ掛けて転ばせたことから始まる、なんとも鮮やかな逆転劇。
この場から穏便に立ち去れるだけでなく、マルティーヌの病弱説をより強固にするというおまけ付きだ。
「そうだな。では、ヴィルジール。マルティーヌ嬢を頼むぞ」
そう言って見送るしかなかった王太子に「お任せください」と答えた第四王子は、マルティーヌを横抱きにしたまま、すたすたと扉へと向かった。
「お待ちください、ヴィルジール殿下。殿下のお手を煩わせずとも、妹は私が……」
オリヴィエが王子の前に回り込み、妹を引き取ろうと両手を伸ばしたが、ヴィルジールは正論で拒否する。
「いや。無理に動かせばマルティーヌ嬢のお身体に障るだろう。このまま私が馬車までお運びしよう。オリヴィエ殿、悪いが扉を開けてくれないか」
「かしこまりました」
両手がふさがった王子に頼まれ、オリヴィエは唇を噛んで扉を開けた。
「マルティーヌ嬢、身体が辛いのだろう? 遠慮しないでもっと私に体を預けるといい」
姫を救い出した王子のような茶番を演じながら、ヴィルジールが颯爽と退出する。
「それでは王太子殿下、急ではありますが御前を失礼致します」
ラヴェラルタ家の者たちも王太子にいとまを告げ、あたふたと後を追った。




