(3)
コラリーがお茶の準備に出て行ってしまい、マルティーヌは応接室に一人取り残された。
真っ白なテーブルクロスがかけられたテーブルの中央には、秋薔薇と蔦が上品に飾られている。
それ以外はまだ何も用意されていないが、ふわりとシナモンの香りがただよってくる。
「今日は、生クリームをたっぷり添えたアップルパイをお願いしたんだった。楽しみだわ」
あえて明るい声で大きめに呟いてみる。
艶やかで香ばしいパイ生地と、中に包まれた黄金色の甘い果肉を必死に思い浮かべる。
森から帰ってきて、三日連続で食べている大好物だ。
けれど気づけば、ヴィルジールのことを考えていた。
今さらマルティーヌに会いたいなんて、どういうつもりなんだろう。
騎士団でさんざんやらかしたのに、どんな顔をして会えばいいのよ。
心臓の鼓動がいつもより速くて落ち着かない気分でいると、応接室のドアが叩かれた。
「ひゃあっ!」
びくりと体を震わせて情けない声を上げた後、「ど、どうぞ」と取り繕う。
慌てて椅子から立ち上がり、ドレスが着崩れていないか見回し、乱れているかもしれない髪を手で整えていると、執事がドアを開けた。
「ヴィルジール殿下がお見えになりました」
客人を迎えるためにマルティーヌが歩み寄り、ドレスの裾をつまんで礼を取る。
「久しぶりだね」とヴィルジールが前に出てきた気配に顔を上げると、彼と目が合った。
「……あ」
マルティーヌは思わず息を飲む。
目の前に立つ男は、汚れた隊服を着て騎士団で剣を振るっていたヴィルとは、全くの別人だった。
ヴィルジール殿下として会議に出席していた今朝までとも違う。
彼と初めて会った時も、こんな雰囲気だった気がするが、今の方がより眩く感じる。
銀の髪を撫で付け、高襟に金糸の刺繍が施された青い上着に、濃いグレーのスラックスの装い。
涼やかな緑の瞳を細め、口元に笑みを乗せ、背筋を伸ばした気品高い姿は、絵本に出てくる王子様そのものだ。
いや、実際に王子様なのだが。
以前より少し日に焼けたせいか、優男の雰囲気に精悍さが加わり、近寄りがたい色気すら感じる。
えっ、待って、待って!
彼は……ヴィルジール殿下は、こんな人だった?
「あ……の……」
圧倒的な美しさと存在感に呆然となり、彼の瞳から目が離せない。
一方のヴィルジールも柔らかな笑みを浮かべながら、その顔をどうすることもできないまま立ちすくんでいた。
二人で見つめ合ったままのこう着状態の後、ようやく先に自分を取り戻したヴィルジールが、「なんてことだ」と苦笑する。
「私としたことが、目の前の女神に見惚れてしまって声も出なかったよ。外はあいにくの雨だが、この場所にだけ、まばゆい光が差し込んできたかのようだ」
彼が白いレースに包まれた右手を取ると、マルティーヌはびくりと体を震わせて、手をその場に残して半歩後ずさる。
「ヴィル……ジール殿下? えと……、ご、ご機嫌麗しゅう存じます」
なんとか挨拶をしたものの、勝手に声が震えた。
自分の手の甲に柔らかな何かが触れるのを直視できない。
もう、無理ぃぃ〜!
毎日のように顔を合わせた相手なのに。
今朝なんか手合わせして打ちのめした相手だというのに。
なんで今さら人見知りを発動しちゃってるのよっ!
どれだけなだめても、心臓が全力で逃げ出したがっている。
今すぐ自分の部屋に帰りたい。
なのに、彼は手を離してくれないし、お茶会はまだ始まってすらいない。
「本当に綺麗だよ、マルティーヌ嬢。ずっと体調が悪かったと聞いていたから、ずいぶん心配したのだけど、もう具合はいいのかい」
「ええ……。もう、大丈夫です……わ」
白々しい言葉を吐きながら、彼が心配そうに顔を覗き込もうとするから、左手で顔を隠して横を向く。
「まだ病み上がりだから、早く座った方が良さそうだね。ほら、おいで」
彼が腰に手を回して、椅子へと誘ってくれるのだが、恥ずかしさと彼にリードされる腹立たしさで足が動いてくれない。
するとヴィルジールは耳元に唇を寄せた。
吐息交じりの低くて甘い声が至近距離から聞こえる。
「歩けないようでしたら、抱きかかえて運んで差し上げましょうか?」
「ひいっ……! だ、大丈夫ですわっ! 自分で歩けます!」
彼の腕からなんとか抜け出して、ぎくしゃくと椅子にたどり着くと、追いかけてきたヴィルジールが椅子を引いてくれた。
「あ……りがとうございます?」
「どうして疑問形なのかな」
彼は苦笑しながら、マルティーヌの金色の髪を一筋すくい上げて口付けた。
う……わ。
でも、そ、それは自分の髪じゃないから平気!
偽物なの、カツラなのっ!
マルティーヌは自分に言い聞かせて、椅子の上で腰が引けそうになるのを懸命に堪えた。
執事とコラリーの手でお茶会の準備がてきぱきと進められる。
テーブルにはマルティーヌがリクエストした生クリームを添えたアップルパイや様々な形の焼き菓子、秋らしい葡萄のジュレなどが所狭しと並んだ。
ヴィルジールの前にはストレートの紅茶、マルティーヌの前にはミルクティーが置かれた。
「では、ごゆっくりおくつろぎください」
執事が退室し、応接室の中はお茶会時のいつもの四人となった。




