マルティーヌの婚約(1)
外は細かな雨が、音もなく降り続いている。
巨大な魔鳥に破壊された中庭の修繕はとっくに終わっていたが、まだ蔓薔薇が絡みついていない骨組みだけのアーチが寂しげに濡れそぼっていた。
中央に置かれていた丸太の山も撤去されており、白いテーブルセットもこの雨では出番がない。
「ねえ。もうほんっと、今さらだと思うのよ」
マルティーヌは今まで着ていたシックな茶色のドレスをひん剥かれた。
昼食後すぐから始まって、もう三着のドレスに袖を通したが、母親のジョルジーヌはなかなか気に入ってくれない。
「だめよぉ。秋らしい色がいいかと思ったけど、こんな地味な色じゃ、あなたの美しさが引き立たないわ」
「そうじゃなくて、着飾ることが!」
母親は娘の不満を無視して侍女に指示を出す。
「コラリー。そっちのローズピンクのドレスを持ってきてちょうだい」
「こちらでしょうか、奥様」
「うーん。やっぱり、昼間にはちょっと派手かしら。その隣のコーラルピンクの方にしましょう」
四着目のドレスの背中にずらりと並んだボタンを女主人が自ら留めて、彼女はようやく満足したようにため息を漏らす。
「はぁ……素敵。さすが私の娘ね! じゃあカツラはどれがいいかしら。アクセサリーは……」
ドレスは決まったものの、まだまだ終わりそうにない。
そもそも、約束の時間まで、まだ二時間以上もある。
そんな長い時間、この苦行に耐えなければいけないのだ。
そして二時間後には、さらに辛い時間が始まる。
「あーもう。どうしてこうなったの! 聞いてないと思ってたのにぃぃぃ」
マルティーヌはまだ短い髪を両手でぐしゃぐしゃにした。
ラヴェラルタ騎士団は三日前に全部隊が帰還し、『死の森』への大規模遠征を終了させた。
かつて『魔王城』があった場所の真実は、そこを踏破した精鋭部隊外には極秘とされ、隊の他の者たちには、残されていた古代の遺跡を念のため破壊したとだけ報告された。
騎士団の総攻撃で『死の森』の魔獣の生息数が激減したこともあり、長く過酷な任務に就いていた団員には、最長で一ヶ月の休暇を取ることが許可された。
騎士団の宿舎や鍛錬場は、自主的に訓練をする者の姿がちらほら見えるだけで、がらんとしていた。
ただ、鍛錬場脇に建てられている管理棟の会議室には精鋭部隊の主な面々が集まり、連日、熱い議論が交わされていた。
主な議題は、約二ヶ月後に迫った舞踏会に出席するマルティーヌ嬢の護衛計画や、その機会を利用した諜報活動についてだ。
精鋭部隊のほぼ全員が王都へ同行する予定だ。
マルクはその会議には毎回参加していた。
一方マルティーヌは、ヴィルジール殿下を交えての夕食会を、今更ながらの体調不良を理由に毎回欠席していた。
ヴィルジールが近く王都に帰ることになっていたため、このままマルティーヌとしては彼と顔を合わせないつもりでいた。
しかし、昨日の会議の休憩中に「おい、マルク」と彼に声をかけられた。
「なに」
「あの約束はどうなってるんだ」
「え? 俺、何か約束したっけ?」
「ヴィルジールが会いたがっていると、マルティーヌ嬢に伝えてくれるはずだっただろう」
「あ……」
まさかあの時、ちゃんと聞こえていた?
『魔王城』の手前の針葉樹の林の中で、マルクは確かに彼にそう頼まれた。
マルティーヌとして彼と会うなんて絶対に嫌だったが、彼のひどく緊張した様子に、つい「彼女に伝える」と言ってしまったのだ。
あの時は、ほとんどつぶやきのような小声での返答だったし、彼の方も無反応だったから、聞こえなかったと思っていた。
「もちろん、伝えてくれたのだろう?」
彼は威圧感たっぷりに腕を組んで見下ろしてきた。
けれど、緑の瞳も形の良い口元も、明らかに面白がっている。
「えっと……あ、まぁ…………」
俺と彼女が同一人物だと分かった上でのこの追求。
ほんと、いい性格してる。
「マルティーヌ嬢は最近ずっと体調が悪いらしく、森から戻ってから一度も会えていないんだ。彼女のことが心配で夜も眠れないほどなんだよ。本当に、ベッドから起き上がれないほど具合が悪いのなら、せめてお見舞いに行って慰めて差し上げたい」
兄二人から冷えた殺気が伝わってくるが、ヴィルジールを止めようとはしない。
いや、できなかった。
なぜなら彼は今、ラヴェラルタ騎士団の一員であるヴィルではなく、第四王子のヴィルジール殿下としてこの場にいるのだから。
マルティーヌ嬢の舞踏会への出席に際しては、王家から迎えが来る破格の待遇となっていた。
しかし、辺境伯家が自騎士団を警護につけることを要求し、第四王子が独断でそれを飲んだという体裁を整えたのだ。
連日の会議も建前上は、王族側からラヴェラルタ騎士団に要請して開かれている。
同じ室内にいる元団長の父親は、外の景色を眺めて聞こえないふりをしている。
側近のジョエルは王子の後ろで申し訳なさそうに小さくなっている。
それ以外の仲間からは生温かい視線が向けられていた。
「私は数日後には王都に帰らなければならない。その前に、わずかな時間でもいいから彼女と一緒に過ごす時間が欲しいのだ。どうかマルク、君がとりなしてくれないか。君にはそれができるはずだ」
ぷっと吹き出すような音が聞こえた方向にマルクが睨みを効かせると、バスチアンがしらじらしく視線を逸らせた。
『マルティーヌ嬢は病弱だから、殿下とはお会いできません』
そうきっぱりと断ることができたらどんなにいいか。
しかし、さすがに自分の口でそこまで堂々と嘘をつく度胸はない。
悩んでいる間も、ヴィルジールの言葉は止まらない。
「この遠征が終わったら、あの麗しのマルティーヌ嬢に会えるのだと、それだけを励みに剣を振るってきた。あの約束がなければ、私は生きて帰ることなどできなかったかもしれない。だから頼む。私を傷心のまま王都に帰さないでほしい」
そこまで一気に言ってから、彼は声を潜めてこう付け足す。
「……ああそうだ。怪我をして君に抱きかかえられて運ばれたことは、私の名誉のためにも彼女には内緒にしておいてくれないか」
王子が情けなく懇願する言葉に、周囲がどっと湧く。
二人の兄までもが、たまらずに吹き出した。
あーもう。
負けだ、負け!
多分、家族以外は全員、俺が折れることを期待してるだろうから、しゃくだけど。
「マルティーヌ嬢は今朝からちょっと体調が良くなったって聞いてるから、明日には会えるんじゃないかなぁ」
そっけない調子で言いながら、ちらりと父親の顔を見ると彼は頷いた。
「そうですな。娘はきっと明日には元気になるでしょうから、明日の午後にお茶の用意をいたしましょう」
「そうか。では楽しみにしておこう」
要求が通ったヴィルジールは、満足そうに笑った。
そして翌日。
マルクはマルティーヌとなって、大きな姿見の前に座るはめになったのだ。




