(4)
泣きながら硬い岩に必死に文字を刻みつけた、辛い思いが蘇る。
あの日、ベレニスのパーティと他二組がこの場で野営をしていた。
そこへ、魔獣の大群が押し寄せてきたのだ。
どのパーティも実力者揃いだったが、魔獣たちは数で人間を圧倒した。
ラウルは、ベレニスを援護する矢を放った直後、魔獣の爪に引き裂かれた。
アンナは魔力切れを起こして倒れたところを魔獣に囲まれ、救出に向かったものの間に合わなかった。
十九人いた腕利きの冒険者のうち八人が犠牲となり、生き残った者の多くが怪我を負った。
しかし、誰よりも多く魔獣を倒しながらも、ベレニスだけは全くの無傷だった。
きっと、もっとうまく戦えたはず。
そうしたら二人を、みんなを死なせずにすんだのに——。
自分のものではない無念と後悔が胸を締め付ける。
ヴィルジールの足元にぽたりと水滴が落ちて、乾いた土の色が変わった。
「お……おい、どうした」
「悪い。ちょっと、降ろしてくれないか」
「ああ」
言われた通りに、ヴィルジールが屈もうとすると「待って。やっぱり、降ろすな!」と思い直す。
このまま降ろされたら、彼に泣き顔を見られてしまう。
今は岩壁を向いているせいで確認できないが、さっき、こちらに向かって走って来るオリヴィエとアロイスの姿を見たし、今はそれ以上の人の気配がする。
多くの仲間が、こちらに注目しているはずだ。
「なんだよ。どっちだよ」
「だめ! 降ろすな!」
呆れたような、それでいて優しい口調に反発する。
まるで駄々っ子のようだが、どうしていいか分からない。
うつむいたら涙が落ちるから、岩の頂のその上の空を眺める。
空に浮かぶ白い雲が溶けたように滲んで見えた。
「泣いてるのか?」
「……泣いてない」
「だが……」
「泣いてないって言ってるだろ! 泣いてるのはベレニスだ! 俺は泣いてない」
嘘じゃない。
泣いているのはベレニスだ。
最強であるはずの俺が『死の森』で泣くなんて、士気に関わる。
俺は決して弱い部分は見せちゃいけない。
「ああ、そうかい」
彼は少し怒ったような口調で言うと、ベルトの上で支えていたマルクの両足を払いのけた。
「うわっ!」
いきなり足場を失い、マルクはとっさに身体をひねって両手を伸ばした。
ヴィルジールの首に両腕を回せば落下することはないと判断したのだが、払いのけられた両足が膝裏ですくい上げられ、身体がふわりと浮いた。
頭を後ろから押さえ込まれ、彼の肩口に顔を押し当てられる。
「記憶に引きずられたんだな。よくあることだ」
すぐ耳元で、慰めるような声がする。
彼の首に両手を回してしまったから、彼に抱きついているような体勢だ。
それどころか、これは、お姫様抱っこというものではないだろうか。
「な、なっ……何するんだよ! 放せ!」
あまりの恥ずかしさに彼の腕から脱出しようともがいたが、どうやら全力で身体強化しているらしく、びくともしない。
それなのに、なだめるように髪を撫でる手は優しい。
いつの間に、こんな繊細な魔力制御ができるようになったんだろう……。
なんて、感心している場合じゃないっ!
「放せって言ってるだろ! くそっ、はーなーせー!」
自分の方が強力な身体強化が使えるから、本気を出せば彼の腕から逃れることはできる。
しかし、そのためには、彼の腕の骨をばきばきに折らなくてはならない。
指一本でヴィルジールを昏倒させた術を使うことも頭をよぎったが、それもできなかった。
彼が、心配してくれていることが分かるから——。
「辛いよな」
彼の言葉に実感がこもった。
彼もまた、過去の記憶に引きずられ、その罪の重さに苛まれてきた一人。
似たような境遇の彼だけが、この苦しみを真に理解できるのだろう。
もしかすると彼は、今、俺が泣いていることにも責任を感じているかもしれない。
「もう……なんなんだよ」
マルクは抵抗することを諦めた。
彼の肩に額を預けると、それだけで心が落ち着いてくる。
が、それは僅かな時間だった。
「何やってるんだよ! マルクを下ろせ!」
今にも強力な攻撃魔術を仕掛けてきそうな殺気をみなぎらせて、セレスタンが駆け寄って来る。
オリヴィエとアロイス、他数名は二人の様子をほぼ最初から見守っていたのだが、後から駆けつけたセレスタンはヴィルジールがマルクを抱き上げている衝撃的な場面からしか見ていない。
全身から放電しているかと思うほどに激昂していた。
けれど、長兄が「そこは踏むな! 回り込んでこい!」と命ずると、律儀に遠回りして大岩の前にやってきた。
「マルクを下ろせって言ってるだろう!」
天才魔術師が、火花が散る人指し指でヴィルジールの顔を指差した。
「やれやれ……。相変わらず過保護なことだ」
ヴィルジールは大きなため息をつくと、腕の中の少年を地面に下ろした。




