001 落ちた先
「ぐっ、う……!?」
気持ちよく眠っていたところ、突然襲って来たドスンという衝撃で目が覚めた。
何ごとかと一瞬だけ身構えたけれど、すぐさま「ああ、またベッドから落ちたんだ」と悟る。まったく自慢できたことではないが、慣れっこだった。慌てることはない。じわじわと広がる鈍痛をしばし耐えればいいだけ……の、はず、なんだけど、なにこれ、いつも以上になんか痛い……!
おかしいな、敷いてるラグマットが少しは衝撃を吸収してくれてるはずなんだけどな……? なんでこんなコンクリートにでも直撃したみたいに痛むんだろう……?
「っ~~! いったぃ……!」
涙が浮かぶ薄目を開けて、のそりと腕を動かす。そして感じる違和感に息をのんだ。
しかもなんか、硬いし、冷たい!? え、なんで!? ベッドの下にはお気に入りのラグマットが敷いてあるのに。
あのうっとりするほど心地のいい手触りとかけ離れた感触に、慌てて両手をついて体を起こした。まだ薄っすらと残っていた眠気は一気に吹き飛んだ。
その拍子に「ジャリッ」という部屋ではまず聞かない音を耳が拾い、反射で音の発信源に目をやる。肩から滑り落ちる髪が黒いカーテンを作る。そんな非常に狭い視界の中で、茶色は茶色でも見慣れたラグの柔らかいブラウンとは違うその色に目を見開いて固まった。
え、……つ、土……? ……私のモカブラウンのラグマットは!?
ドッと変な汗が全身から噴き出した。ついでに心臓がフルスロットル で動き出す。
「……えっ……」
なにこれ、どこここ? どうなってんの!?
訳が分からず、とにかく体をこして辺りを見回した。きょろきょろきょろきょろ。挙動不審極まりないスピードで首を可能な範囲で動かしまくる。
前も右も左も、全部、木。それもかなり立派な、大木がずらりと並んでいた。「森」という漢字は、「木」を3つ集めたものだけれど、いやいやいや。
……エッ、どう考えてもおかしいよね!? 私、今起きたばかりなんですけど!? もちろん、眠りについた場所は、キャンプ中でもあるまいし、こんな森の中じゃなくて、私の部屋の! 慣れ親しんだベッドの! ぬくぬくなお布団の中なんですけどぉお……!?
……。
…………。
…………あっ、そっか、夢かぁ!
「なんで」「どうして」と誰も答えてくれない問いかけばかりが頭をめぐり、しばらくしてから不意にそんな結論に至った。脳裏ではピコン!と電球マークがきらめいた。
あー、そっかそっかぁ、こんなわけわかんない状況、夢しかないよね! ラノベじゃあるまいし! いくらタイムリープだとか今はやりの異世界転生だとか、そういうのはどれだけ夢見たところでしょせん夢は夢! 画面や紙の向こう側だけに存在する怪奇現象なわけで。
だから、これは夢だ。妄想しまくった結果、脳が見せてくれている、私の未熟さと不甲斐なさから作り上げた世界。……だと考えたら、物申したい気持ちが湧いてきた。
ねえ、もうちょっとこう、ご都合主義な感じでよかったんだよ? 別にお姫様になりたいわけじゃないけど、もっと夢らしい夢でよかったのに、なんでこんな森からのスタートなの? いくら夢の中でも死亡フラグは必要ないよ? と、問いただしたい。自分の脳に。
って、そうじゃない。余計なことは考えるな、今はこの夢から覚めるのが最優先。起きて覚えてれば、その時、気が済むまでツッコめばいい。自分の夢の中でもこんがらがっている妄想に。
えーっと、どうやったら夢から目覚められるかな? 夢の中でもう一回寝ればいいの? あっでも待って、その前に一応、一応ね。確認、しとこっかなぁ……!
だってさ、もし、もしもだよ? 万が一、現実なら呑気に寝たりしたら危ないじゃない? いくら日本にオオカミはいないとしてもさ、さすがにね? 危ないよね? クマやイノシシとばったりエンカウント でもしたら、もうその時点で詰みだわ。野生動物舐めたらいかん。だから、確認は大事ってことで……まっ、夢の中だから痛みは感じないんだろうけどね!
この訳の分からない状況が「痛み」から始まったことから目を背け、一縷の望み をかけて右手で左手の甲をつねる。
むぎゅぅううう。
……いっ、たいんですけどぉ……! は? え、は?? なにこれ、どゆこと???
赤くなった甲が訴えるヒリヒリとした痛みが、認めたくなかった現実を突きつけてくる。思わず逆ギレしそうになるけど、なにに、もしくは誰に向けてキレればいいんだかすらわからず、妙な焦りと苛立ちが募るだけだった。
え、あ、なに? もしかして私、これから強制サバイバルでもしなきゃいけないんですか? パジャマ姿の、ドすっぴんで?? 意味がわからん。
あ、いやこの際、すっぴんはどうでもいい。眉毛があろうがなかろうが、今の状況に影響はない。クマやイノシシに眉毛の大切さは分からない。人とエンカウントした時はちょっと気まずいだろうけど、それでも今の状況を考えたら人と出会るだけで、もう勝ちだわ。勝利だわ。
というか、そもそも、そこが一番の問題なのでは? やばい真面目にここで生死がわかれる。だってこちとらゴリゴリのインドア派ですよ? 汗かくの嫌い・虫大嫌い、エアコン最高・漫画大好きの、筋金入りのオタクですよ? 当然、森とか山の歩き方なんて知らないし、現在地さえわかんないからどこ目指して歩けばいいのかも不明だし、しかも裸足だし!!
こんな状況でどうしろと??
野生動物とのエンカウントなしでも、誰かに出会って助けてもらわなきゃ、さまよい続けて餓死するという笑えない未来すら見えてきた……
あ、あれですか? 映画やアニメとかで見る「狼煙」ってやつですか? それで助けを求めろと? ライターもマッチもないのに? あの、昔見た子供向けアニメのような方法で火をおこせと??
あ。まさしくこれが「絶体絶命 」という言葉が当てはまる状況なんですね。なるほど、こういうときに使うのか。……ああ、うん、でも出来るなら使いたくなかった、と思考が現実逃避を始める。
状況が飲み込めなさ過ぎて気持ち悪い。喉の奥になにかが詰まっているような感覚のまま、再び視線を落とせば所々草が生えている地面が視界に入った。
青々としたそれらに「こっちは全く草生えるような状況じゃないんだけど」と八つ当たりしたくなった。やばい。混乱し過ぎて、キレるところまでも可笑しくなってきている。でも、ついツッコミを入れたくなるくらいの間隔を開けて「www」な感じで生えてるんだもの。無駄に腹立つ。
途方に暮れつつ涙目で天を仰ぐ。降り注ぐ日差しは梅雨を勝手にスキップ して夏にでもなったのかと錯覚するほどに強い。
大人げなくも泣き出しそうになっている私をあざ笑うかのような、雲一つない澄み渡る青空に、思わず乾いた笑いが漏れた。
神さま、私なにか悪いことしましたか?
喉の奥がひくつくのを感じながら、無意識にそんなことを考えた。
ツンとした痛みを訴えた鼻の奥、視界が大きく歪んだ、その時。
「……おい」
真後ろから声が降ってきて、飛び上がる。誇張じゃなく、本当に数ミリでもお尻が跳ねた。ついでに心臓は止るかと思った。でも、同時に切望していた「人の声」に心底ほっとした。
よ、よかった、人がいた……! 助かったぁ……!
「は、はい……!」
安心からか、ポロリと目から涙が零れ落ちたのを、慌てて拭い振り返る。声からして男の人なのは間違いないし、不審がられていることは確認せずともわかる。だってこんな森の中でパジャマ姿の女がいたら誰だって不気味に思うでしょうし。むしろ良く声をかけてくださいましたと、お礼を言うべき状況だわこれ。
なので少しでも印象がよくなるように、急いで寝癖もそのままの髪を撫でて、無理やり前髪で眉毛を隠した。立ったまま見下ろしてくる相手を、無理やり作った笑顔で見上げる。
……アッ。これ、マジで詰んだかもしれない。