船乗りの神隠し
今回は、オランダ商船の船乗りのお話です。
大量に積み上げられた荷の中から、同じ印のついた荷を纏める作業は、結構きつい。探す苦労もさることながら、やっと見つけた荷を、同じ場所に運ぶために、大いに労働を強いられる場合があるからだ。
オランダ船の下っ端乗組員ハンスは、まさに今、過酷な状況の中にいた。あと少しで花の印のついた荷が引き出せる。
いい加減、荷運びに疲れたハンスは、上にある荷をどける作業をはしょり、先ほどから一番下に潜り込んでいた荷を少しずつ引き出していた。
実を言えば本日、ハンスは誕生日を迎え、目出度く十六となった。祝ってくれる人は誰もいないのであるから、今日くらいは楽をしても罰は当たらないと思う。
(よぅし。あと、ちょっと……)
慎重に、少しずつ……。包みは頑丈だが、破いたりしたら、こっぴどく叱られる。ましてや、上の荷をひっくり返しでもしたら、大変だ。
割れ物は、ここにはないはずだ。だが、万が一、品物に傷でもつけば、殴られるだけでは済まされない。
前回の船乗りの中に、小瓶を一つ割った者がいて、給金を全て差し押さえられたという話を聞いている。前払いで全額を貰っているハンスだったら、いったいどうなるのだろう。
「さむらいに斬られるかも」同僚のピエトは言う。〝さむらい〟とは、この国の、人を斬る職業の人のようだ。何とも物騒な国であるとハンスは思う。
「ハンス、お前、何かしでかしたんじゃあ、なかろうな」
突然、掛けられた声に、ハンスは飛び上がった。ぐらぐらと荷が揺れる。慌てて背で揺れる荷を支え、
「はいっ。ミースター、俺、ちゃんと仕事してますっ」
答えながら、足で引き出した荷を押し込んだ。
ハンス担当の「ミースター」は、癇癪持ちだ。一旦、怒らせれば、きんきんといつまでも、がなり立てる。
一つの文句に一つの平手、気が収まるまで続く説教は長々と続く。癇癪持ちに付き合いたくないハンスとしては必死だ。
「ふんっ」面白くもなさそうにミースターはハンスを一瞥し、ハンスはいつ、荷が崩れ落ちはしないかと冷や汗を流す。まぁ、いい……
「カピタンがお呼びだ。何の用かは知らんが、忙しいんだ、さっさと行って、戻ってこい」くるり、と背を向ける。
やれやれ。ハンスはほっとして、がんっ、一番上の荷が頭を直撃した。
「うぅぅっ」
唸りながらも落ちてきた荷を手で受け止め、そのまま膝を突く。じんじんと頭が痛い。
「本当に何もしとらんな?」
もう一度、振り向いたミースターに、どきり、としながらも、ハンスはこくこくと頷く。
「おや?」とミースターは怪訝な顔をして、
「泣くほどのことじゃあない、私は聞いているだけだ」
ハンスは痛みに滲んだ目を、ごしごしと拭った。
屋根付きの三角階段の前では、じろじろと怪訝な目がハンスを委縮させたが、「さっさと行って、戻ってこい」との命令には、従わざるを得ない。
カピタンは、ここ〝出島〟では一番の偉い人と聞いているが、下っ端のハンスにとって怖いのは直々の上司に当たる「ミースター」だ。本来であれば、下っ端に毛が生えた程度のくせに、〝居残り組〟の中では船乗りとして長いがために「ミースター」を気取っている。新米のハンスには、言いたい放題だ。
二度のノックの後に、「intreden(入りなさい).」と返事があり、ハンスは小さくなって部屋に入った。
目を見張るほどの豪奢な部屋に、ハンスは言葉がない。
「ハンスか?」の言葉に、ただ頷いた。
「待ちなさい」書き物をしていた様子のカピタンは、ちら、と上げた顔をすぐに下げ、カリカリとペンの音だけが室内に響く。ハンスとしては、待つしかない。
所在なく見渡した部屋には、物珍しい品が一杯だ。ハンスは興味深く品々を眺めた。
饐えた臭いと、喧嘩の声、女たちの賑やかな笑い声と、子供の泣き声……いずれも似たり寄ったりの人たちが住む洞窟のような住居で、ハンスは育った。
ライン川ほとりの船着き場で、荷運びをしていた父親が、喧嘩の巻き添えを食って死んだ。船着き場では、良くある話だ。
母親と二人きりとなったハンスは、ともかく、生きるために、なんでもやった。スリやかっぱらいは日常茶飯事だ。これもまた良くある話。
生活に疲れ果て、母親が病となった。またまた良くある話。息子は生活費と薬代を稼ぐために、異国行きの船に乗った。まぁ……これは多分、あまりない話だと思う。
父親の昔からの知り合いが、ハンスの暮らしを見かねて、口を利いてくれたのだ。前払いで貰った給金は、殆どを母親に渡してきた。しばらくは、これで安心だ。
随分と気前のいい船だと、ハンスは感心した。ところが、どうやら口を利いてくれた男は、船乗りの偉いさんに、ちょっとした貸しがあったらしい。これもまた、船着き場には良くある話のようだ。
良くある話にどっぷりと浸かったハンスだからこそ、珍しい物には、興味がある。それでも教養があるわけではないから、結局――
(あれ一個で何日ぐらい食っていけるかなぁ)などと、品のないことを考えている。見ているうちに思いは膨らみ、(何が食えるか)に至った頃には、ついつい襟で口の端を拭ったほどだ。
「Wilt u dat ik u bel(お呼びでしょうか), kapitein(船長)?」
外から掛かった声に、「やっと来たか」とカピタンは嫌そうな顔をして、
「intreden(入りなさい).」と答え、ハンスに顎をしゃくる。あまりの不機嫌さに、ハンスは自分が何か悪いことをしたかのように縮み上がり、首を縮めたままに振り向いた。
「君がハンス?」ドクトル・シーボルトは訊ね、
「はい」何度か面識のある商館医に、少しほっとしてハンスは答えた。
「一緒に来てもらおう。君に頼みたいことがあるんだ」
(ドクトルが? 俺に頼みって……)
なんだか、ちょっと怖い。
新しい薬を試したいから飲んでみてくれないか――とか、ちょっと腹の中身を見せてくれないか――とか……
恐ろしい考えが頭の中を巡る。身を固くするハンスに、
「平気だよ。大したことじゃない」とシーボルトは笑った。
「一週間だぞ。これの上役には、私の荷物の纏めを手伝わせると言っておく。どこも手一杯なんだ、余計な人手は割けん」
カピタンは不機嫌だ。
「toestemming(了解)」シーボルトは下手なオランダ語で言い、くるりと背を向ける。ハンスとしては、従いていくより他にない。
「座りなさい」
シーボルトは、床を指差す。
ハンスは、どう反応したらいいか、皆目わからない。椅子も何もない小さな部屋は、「畳」が敷き詰められているが、慣れない代物であるから、ハンスには〝柔らかい床〟としか認識がない。
突っ立っているハンスに、シーボルトはさっさと畳に胡坐をかいた。
なるほど。ハンスも倣って、足を組もうとして、ころり、と転がる。シーボルトがおかしそうに笑った。
「はぁ……俺が、シーボルトの言う島に行けばいいんですか?」
「そうだよ、簡単なことだろう? 別に〝実験体〟になって欲しいと言っているわけじゃない」
優秀なシーボルトはハンスの頭の中まで見えているらしい。
「君のmoederは、体が弱いらしいね。体力をつける薬は、あるよ。君にあげよう。帰国したら真っ先に診察してあげるよ。勿論、診察結果に見合った薬も調合する。全部、ただでだ。君への報酬ととってもらっていい」
こんないい話はない、ドクトル・シーボルトは優秀な医師だ。シーボルトに診てもらえば、母ちゃんは絶対に元気になる――。
(でも何故、俺が?)ハンスは首を傾げた。
ハンスはただの下っ端船乗りだ。シーボルトとだって、特別に話をした記憶はない。
「石坊を知ってるね。君が適任だと言ったのは、石坊だ。君は日本語を少しは話せるだろう?」
石坊は、琉球の船乗りだ。小さな子供だが、オランダ語を話す。度々「将軍」への届け物を持ち寄る琉球船に、石坊はいるのだ。
人懐っこく、元気な子供が、いきなりオランダ語で話しかけてきたことが切っ掛けで、二人は仲良くなった。一人っ子のハンスには、弟のように思えて親しみがある。
「石坊に習いました。俺も石坊にオランダ語を」
ハンスの言葉に、(なるほど、本場仕込みか)とシーボルトは呟き、
「一週間。硫黄島へ行ってくれ。言われたことをしてくれれば、それでいい。約束は守るよ。絶対に、だ。全部、こちらで手配する。だから、悪い話ではないだろう?」
興奮気味のシーボルトに、ハンスがなんと答えるかを迷っていると、
「白湯をお持ちしました」
シーボルトが借りた、ヘトルの住居に住む日本人女性の部屋主が、まぁるい顔で、にこり、と笑った。
「船乗りなんかに、ならなければ良かった……」
ハンスは、つくづくと思う。
ごつごつとした岩山は殺風景。眼下に広がる海は、深く青い。
きらきらと陽を反射する海は、故郷の海と繋がってはいるはずだが、何か違う気がする。
説明しろと言われても、説明はできない。ハンスは、自慢ではないが、学校にも行っていないのだ。
そもそも……山とはなんだと、ハンスは苛立ち気味に思う。
地面が盛り上がってできていると聞いたが、大きな石が固まっているとは、聞いてない。ハンスにはとても、信じられない代物だ。登るに難儀だし、転ぶと痛い。
祖国に山は、ない。船乗りの親父に話では聞いていたが、まさか実際に自分が登る羽目になるとは、思いもよらなかった。
別に、船乗りになったから、山に登る羽目になったのではないとわかってはいる。だが、他に文句の言いようがないのだから、仕方ない。
「島に行ったら、〝平佐田〟という人を探し、大殿の使いだと言うんだ。「海底の皇子」について知りたい、と言えば通じる。簡単でいい。書面にして渡して欲しいと言えば、書いてくれるはずだ。君は書面を受け取って迎えの船に乗るだけ。どうだい? 簡単だろう?」
シーボルトが言うと簡単に聞こえる。だが、実際は……ちっとも簡単じゃあない。この国の人たちは、異国人を奇異の目で見る。
囲いの外から、物珍しげに中を覗く人たちを見ていると、自分が珍しい生き物になったような気がする。
(もしも島人に見つかって、〝さむらい〟でも連れてこられたら……)と思うと、ぞっとする。
異国の地で、〝珍しい生き物〟として死ぬのはごめんだ。たった十六年しか生きていないハンスは、まだまだ「良くあること」を経験し尽くしていない。
頼れる人もない今、ハンスは逆に、珍種の生き物の檻に放り込まれた異物のような存在だ。
迎えの船も時が来なければ、来ない。初日にはあまりの寂寥感に、迎えが来るまでじっとしていようと思った。
翌日には、殺風景な山の上、人の姿もない静かな場所に、孤独感に苛まれ、恐る恐る里に下りてみた。異国の人でもいい、一人は嫌だ。ハンスは人が溢れる洞窟の中で育ったのだ。
〝平佐田〟たる人物の、宿泊先は教えられている。ハンスのいる山を下って、いくつもの道が分かれる分岐点、大きな木が目印だ。
坂を下ったところに、家がある。隣接した家があるが、〝柿の木〟があるほうが目的の家だと聞いている。
ハンスは〝柿の木〟を知らないが、「こんな木だよ」シーボルトが、さらさらと描いた〝柿の木〟の絵を渡されている。
人の足音がしては身を隠し、ハンスが分岐点に辿り着いた頃には、大きく陽が傾いていた。何とはなしに、物寂しい時刻だ。
坂の下を見下ろせば、坂を分けるように左右に広がる、石を積んだ囲いらしきものが見えた。おそらくは人の住まいだろう。
ハンスがじっと目を凝らせば、あった。左手の囲いから覗いている木の頭は、シーボルトが描いた絵と似ている。反対側の囲いからは何も見えないからには、左のほうが〝平佐田〟の滞在している家だろう。
(どうしよう)
このまま下りて行って、「平佐田さん、いますか?」聞ければ手っ取り早い。だが、そうもいかない。「平佐田に会うのは、こっそりと」と、念を押されている。
勿論、〝珍しい生き物〟である以上、堂々と里に下りるわけにはいかないし、他人目を避けなくてはならない事情も、わかる。異国人が勝手に出島を出たのだ。見つかれば、ただでは済まされない。
〝珍しい生き物〟でなくても、さむらいに斬られる結果は同じだ。
(困ったな)
夜まで待とうかとも思う。が、暗くなってから塒に戻る道のりは、危険だ。地面が盛り上がってできている山には、盛り上がっていない場所だってある。
また、降りてくる途中、人ではない影も何度か見かけた。そいつらがハンスに対して友好的であるかどうかは、わからない。いきなり「ぱくり」と食われるのも嫌。やはり、「船乗りになどならなければ良かった」とハンスは思う。
「居王様?」
いきなり上から聞こえた声に、ハンスは飛び上がった。大木を背にして坂を見下ろしていたハンスは、まさか木の上に人がいたとは、思いも寄らない。
恐る恐る顔を向けると、出島役人と同じ、馴染みのない黒い目とぶつかる。
「おおぉぉっ」
思わず声を上げて慌てて口を塞ぐ。
(さむらい……)
ハンスの背が凍る。が――
(待てよ、俺は何か間違っちゃないか)
口を塞ぎながら、ハンスは目の前の黒い目をまじまじと見つめた。どうやら黒い目は子供らしいと気付く。が、顔が反対だ。目の下に眉がある。
(この国の子供は、木に生るのか?)
馬鹿な考えが頭に浮かび、怖気が全身を駆け巡った。
(hel……)
昼と夜が混ざる時、気紛れな魔物が人の世に顔を出す。海の底から現れる「人魚」とは、絶世の美女ではなく、日暮れ前にこの世に紛れ込んだ魔物が変えた姿なんだと、ハンスは幼い頃に酔った父親から聞かされた。
海の底から現れる美女も、木の上から逆さまに現れる子供も、いずれ魔物に違いない。ハンスの肝が縮む。
(どうせなら美女が良かった)と、縮んだ肝の端が文句を言う。それでも。肝の端っこに耳を貸す余裕もなく、ハンスは口を塞いだまま脱兎のごとく駆け出した。
「うわあぁぁぁっ」叫びたいが叫べない、〝さむらい〟もまた、ハンスにとっては魔物と一緒だ。
「居王様、待って!」
「いおうさま」が何なのか、ハンスにはわからない、だが「待って」は知っている。石坊がよく使った言葉だ。
分が悪くなると必ず石坊は言う。「待って」と。魔物の分の心配は、してやる義理はない。
息を切らしてハンスは走る。幾分か明かるさのあるうちに、塒の近くに辿り着いた。
魔物は追ってこない。ばたり、と倒れ込んだ野原は、山とは思えぬほどに平坦で、青々とした草が柔らかい。さわさわと風に靡く音が、潮風と混ざり合い、ハンスを包み込む。ハンスが好きな場所だ。
手足を伸ばして仰向けば、うっすらと月が顔を出している。薄く星も瞬きだし、ハンスは思う。
船乗りになんか、ならなければよかった――
ちかり、と瞬いた星がハンスの青い瞳を射し、瞬きをしたハンスの目の端から、小さな滴が頬を伝った。
〝逆さまディング〟が、ただの子供だと知ったのは、ハンスが脱兎のごとく走った翌日のことだ。
「夕刻でなければ魔物も出まい」と、朝早くに下り始めた山の道で、〝逆さまディング〟を見つけて身を隠した。今度は逆さまではなく、まともに歩いている姿に、驚いたほどだ。
ゆくゆく見れば、石坊より幾分か大きい子供は、目の色も髪の色も肌の色も……ハンスから見て、石坊と同じに見えた。
(話しかけてみようか)
ちら、と頭を掠めた考えに、ハンスは首を振る。さむらいと知り合いだったら、困る。
結局、いつまでもうろうろとしている子供のおかげで、ハンスは里に下りる機会を失った。
翌日は前の晩に立ち込めた「白い煙」が怖くて寝つかれず、とても里に下りる元気がなかった。
その次の日は、「白い煙」が一向に収まらず、手探り、足探りで坂を下って、足を滑らせ、ずるずると斜面を滑り落ちた。何とか掴んだ木の枝に下を見おろし、地についていない足が竦んだ。
下腹部が締め付けられるように痛み、(もう駄目か)と思ったほどだ。それでも故郷の母親を思い、必死でよじ登ったときには、つくづくと生きていることに感謝した。
幼い頃の記憶を辿り、天に向かって祈りを捧げたほどだ。結局、その日は、それで終わり、翌日は慣れない運動のせいと、打ち身の痛みでとても山下りは無理だった。
さすがに焦りを感じたハンスは、次の日には痛みを押し切って山を下った。ところが、あと少しで坂に辿り着くといったところで、道の脇から足音が聞こえ、慌てて木に登った。
ハンスの足ぎりぎりのところを、島人らしき男が通り過ぎ、ばくばくと破裂しそうな胸の音を聞きながら、(見つかるな、見つかるな)子供の頃の遊びを思い出した。
難なく男が木の向こう側に道を折れ、ほーっ。と息をついたとたんに、ずるずると木を滑り落ち、掌と踝を擦りむいた。本当に踏んだり蹴ったりだ。
塒に戻ってシーボルトから貰った袋を開けると、きちんと擦り傷用の塗り薬が入っていた。感謝しながらも、
(簡単だと言いながら、本当は怪我をする危険もあると予想してたんじゃないの?)
と、ハンスが思った訳は、細かく説明書きがついている薬が、沢山入っていたからだ。
結局。〝平佐田〟に接触できずに、残る印は一つとなった。一週間――面倒であるから適当な絵柄を七つ、並べた絵柄の一つを残し、全てに×がつけてある。
困ったな……
シーボルトは怒るだろうか。結局、何もできなかった事実に、〝報酬〟は望めないだろうか。
だけど、ハンスはただ、何もせずに渡された食糧を平らげ、のんびりと過ごしたわけじゃない。ただ〝平佐田〟にまで辿り着けなかっただけだ。
よし。最後にもう一度、行ってみよう。
荷物を背負って、ハンスは山を下る。二日目の晩ほどではなかったが、「白い煙」がもやもやと漂っていた。
視界が悪い。慎重に足を運ぶ理由は、二度も〝お祈り〟は嫌だからだ。ハンスは〝お祈り〟が嫌いだ。
下り始めてすぐ、ハンスは人影を見つけて、はっとして、木の陰に隠れた。だが、高い声は子供のようで、歌うように叫びながら走って行った。
(こんな視界の悪い日に。子供は無茶をするな)
気にはなったが、とっ捕まえ、「危ないから早く、ママのところへ帰れ」と注意してやる義理はない。
随分と時間は掛かったが、そろそろ坂が見えてくる地点に辿り着く。
今日は、なかなか運がいい。「白い煙」のせいか、島人の姿は他に見かけなかった。おかげで隠れる必要はなく、擦りむいた傷も、打ち身も酷くならずに済みそうだ。
出島に戻れば、また、忙しい。体を庇ってできる仕事など、ありはしない。ならばこれ以上、余計な怪我はしたくない。
再び〝逆さまディング〟に出会うのはごめんだから、道の端からそっと木の上を見る。
いない。大丈夫だ、やっぱり今日は、ついている。「何だか行けそう」と調子に乗ったハンスは、坂を駆け下りた。
一応、角に生い茂る低木の間に身を隠す。白い煙は山の中ほどではなく、ほんの僅かに、けぶるだけだ。
耳を澄ませれば、家の中は静かだ。ほんのわずかに聞こえる音は、女の声らしきものと、ざぶざぶという水の音。夕餉の支度をしているのかもしれない。
そろそろ日が暮れる。さっと周りを見渡して、ハンスは石積みの囲いを回る。
誰もいない。好都合だ。かっ、かっ、の音に一瞬、心臓が跳ね上がったが、赤い鶏冠に眉を寄せる。
(食ってやろうか……)
腹立ちと空腹に思ったが、鶏舎に入る気にならなくて急いで通り過ぎようとして、「おや……」の声に、慌てて伏せる。
「腹が減ったか? じきに坊らが戻る、ちぃと辛抱しろ」
言いながら通り過ぎる声はお年寄りか。
鶏舎の裏側に身を伏せたハンスは、隙間だらけの板戸から嘴を出す鶏に辟易としながら、必死にくしゃみを堪えていた。
小さな足音が遠くなり、こっ、こっ、と生肉が騒ぐ声を聞きながら、ハンスが顔を上げると、目の前に柿の木がある。
(やった!)
ハンスは柿の木の裏側に飛び込んだ。
やれやれだ。正面に家を見渡す柿の木は、元々が野生なのか、幹が太い。がっしりと根を張った柿の木は、ハンスを隠すには十分な太さを持っていた。
見上げれば、葉が青い。なんとなくほっとして、ハンスは幹に背を預けた。なんだか不思議な臭いと何かの花の甘い香り、鶏のかっかっが、妙にハンス
の瞼を重くさせ、
かたん――
音に飛び起きた時には、辺りは真っ暗になっていた。うっすらと白が漂っている。ハンスは咄嗟に天を見上げた。迎えは今夜だ。遅れたら、置いて行かれる。
船乗りとなって仕事は山ほどあったが、〝見張り〟は一番の嫌な仕事だった。いつ、海賊に襲われるかわからない。
熱かったり、寒かったりも嫌だったし、潮が容赦なく体に叩き付けるのにも、うんざりする。だから、さっさと交代したい。おかげで、月の位置から時間を推し量る技には、長けていた。
(まだ大丈夫、約束の時間まで間がある)
ともかくにも〝平佐田〟を起こし、簡単でもいいから、「海底の皇子」とやらの話を書いてもらわねば困る。母親の体がかかっているのだ。
焦りと多少の寝ぼけが重なって、ハンスは柿の木の裏から無防備に飛び出した。
(とにかく、まずは目の前の部屋から当たってみるか)と、縁に向かって……
「居王様じゃ……」
すぐ後ろからの声に、またまた飛び上がった。こわごわと振り返る。
またもや、いた……。もしかしたら、島中の子供は、全員が〝逆さまディング〟なのかと恐ろしくなり、〝平佐田〟のことなど、頭から放り出して逃げ出した。
「待って!」
待つもんかっ。必死に走ったつもりだが、荷を背負っている分、体が重い。が、荷を放り出して後で島人に見つけられても厄介だ。
「こっそりと」と念を押されているからには、ハンスがいた痕跡を残していくわけにはいかない。〝さむらい〟の姿が頭に浮かぶ。
恐慌状態のハンスは、ともかくもう、約束の場所に行ってしまおうと海岸へと一目散に走り出す。もしかしたら、迎えは早めに着いているかもしれない。〝逆さまディング〟も、海の上までは、追ってはこられまい。
息を切らせて海岸に着き、月明かりの小舟に、ほっとする。所在なさげに男が一人、船縁に腰掛け月を眺めていた。
ハンスの足音に男は、ぱっ、と体を向け、警戒した様子を見せた。息を切らせてハンスは一言「ハンス」と叫ぶ。男はじっとハンスに目を凝らし、「来い!」と叫んだ。
さっさと舟を漕ぎ出す男は、どうやら琉球人のようだ。やれやれとハンスは荷を下ろそうと何気なく振り向き、思わず「いいいぃぃっ」と叫んだ。
ハンスの荷を結んだ紐の端をしっかりと握った〝逆さまディング〟が、月の光にきらきらと目を輝かせ、訴えるように言った。
「居王様、儂も隠れ里へ連れて行ってくれ」
読んでいただき、有り難うございました。
次回、再びシーボルトの登場です。