あの飲食店へ
「次はあの飲食店かぁ」
無事いかがわしい本はストレージに確保し、書き置きを残して宿を出た僕は、以前食い逃げ犯を投げ飛ばしたごく普通の一般市民の暮す地区の端近くまでたどり着いていた。
「ここから先は飲食店お集まるエリアでしたよね」
時間外れなこともあって人もまばら。ちらりと飲食店の中を覗けば、昼の後片付けと夜の分の仕込みに終われていると思しき従業員の姿が見えた。
「うーん、長居は無用かな」
この分であれば、あの男性の店も準備でそれなりに忙しいことであろう。
「僕がこの街を出ることまで、ミリティアに伝えて貰えれたらいいんですけど」
縁があるとは言え、それは過剰な要求だろう。
「ムレイフさんではないですけど」
仮の名でも名乗ってみるのも良いかもしれない。元婚約者の名前で出した手紙なんて、おそらくミリティアが手にする前に捨てられるであろうし。
「文面の中に僕と彼女しか知らないことを書けば、正体は察してくれるはず」
それでも氏素性の知れない誰かの手紙なんて素の僕の手紙同様届く前にはねられるであろうから、無視されないぐらい影響力のある人物になりあがらないといけない訳だけれど。
「技能が自身を守って余りある高みに至れれば」
不可能ではないと確信はしていた。
「となると問題はムレイフさんの目をどう盗んで技能の熟練度を上げるかですけれど」
秘密を打ち明ける、と言う気にはなれない。
「ストレージにも限りが……あ」
長々と考えすぎたからであろうか、気が付くと目的の飲食店のすぐ近くまで僕は歩いてきていて。
「考えるのは、後にしますか」
遭いたくない連中が存在する以上、街の滞在は短い方が良い。事情を話し挨拶を終えてしまおうと僕は店に足を踏み入れて。
「お嬢様、何もこんなところにお忍びで足を運ばれませんでも」
「大丈夫よ。お父様からも許可は頂いているわ。無断って訳じゃないし、それに――」
釘で打ち付けられたかの様に足が動かなくなる。信じられなかった。衝立の向こう、店でも一番いい席から聞こえてきた声は、僕の記憶の中にあるミリティアの声そのものだったのだから。