おかしな男
「うへへへへ……」
目は虚ろ、頬は痩せこけ、それでいてニヤニヤと笑みを浮かべたソレがおそらく僕の初めて会ったここの住人だった。当然、まともな相手には見えないし、近寄りたいとも思わない。
「どうする?」
声に出すことはなく自分に問う。目指していたのは、男の更に向こう側。立ち止まるのも引き返すのも不自然だし、目の前の男を刺激する可能性がある。
「ひゃああっ」
「え」
男が奇声を発したのは直後のことだった。誓って不自然な挙動はしていない。男を刺激するのを恐れて、考えている間も立ち止まったりはしなかった。だが、驚く僕を前に男はおぼつかない足取りで僕に向かって走り出す。
「っ」
男の顔に見おぼえはない。駆け寄ってくる理由も友好的なモノには思えず、僕は身構えた。
「これは――」
身構えはしたが、顔を歪める。フラフラと蛇行しながら走ってくる男の挙動が、叩き込まれた護身術で襲ってくる相手の姿勢とまるで違っていたからだ。酔っぱらいか何かの様なでたらめさ。歩幅も均一で無く、いつ襲いかかってくるのかタイミングが読めない。
「異国には酒に酔う様をまねて次の行動を読ませない格闘術がある」
護身術を仕込んだ師から、そんな話を聞いた記憶が蘇るが。
「できればその対処方も教えて欲しかったんですけど?!」
「ひ、ひぇえぇぇっ!」
泣き言を言っても男は止まらない。恐怖を覚えた僕は、懐に手を突っ込み。
「っ、この、来るなぁぁぁ!」
気づけば叫んで分厚い本を投げつけていた。
「へべっ」
本は男の顔面に直撃し、手から零れ落ちた何かが陽光に反射して鈍く輝いた。
「あ、って……ナイフ?!」
投てきの成果によって我に返った僕が視線を輝いたものへと向ければ、男が落としたのは薄汚い小ぶりの刃物であり。何を目的としていたかは一目瞭然だった。
「危ないところ、だったんでしょうけど」
失敗が二つ。声を上げてしまったことと、本を投げてしまったことだ。まず、声を上げたことで、聞きつけた住人がやってくる可能性がある。こんなところに来たことなどないので、住人が現れた場合の反応がまず読めない。
「そして、本」
隠したままなら、こうして刃物で襲われたとき本を防具代わりに刃を止められたかもしれないが、僕を襲おうとしつつも様子を窺っている者が近くに潜んでいた場合、胴を狙っても本にささるだけと学習された可能性がある。ストレージからの取り出しをうまく使えば、即席かつ使い捨ての防具がわりに使うこともできただろうが。
「とりあえず」
本を回収、ナイフはすぐ再利用されないように屋根の上にでも放り投げようと決め、僕は再び歩き出した。
「ふぅ、あまり汚れてはいないみたいですね」
もし午前中に雨でも降って居たら、こうはならなかっただろう。油断なく倒れた男を視界に居れながらまず本を拾って、もう一方の手でナイフを拾ってから土を払い。
「さて……ああ、あれなら」
周囲を見回し、平らな屋根のバラックを見つけるとその屋根にナイフを放る。
「ただのナイフならいいですけど、こういうの時々犯罪組織の構成員の証だったりする場合があるって本で読みましたからね」
ただでさえ不慣れな時だ。武器が手元にあった方が心強いのは確かだが、それが面倒事を呼びこむ可能性も踏まえて、敢えて放置し。
「ぷっ」
立ち去ろうとしたところで、どこかから誰かの噴き出した音が漏れた。
「っ」
顔をこわばらせて僕は周囲を見回し。
「く、くくくく……やぁ、すまんすまん」
おそらく先ほどの音の主だろう、堪えきれなかった笑いを隠すことすらなく物陰から現れたのは襤褸を纏った僕よりやや背の低い人物だった。
「久しぶりに面白いモノを見せて貰った。よりによって投げられたモノを顔面に受けてぶっ倒れるとか、しかもそれが本とは……」
「はぁ……」
何がツボにはまったのか、そして本と倒した男にどういう関係があるのかはわからないが。
「僕に何か御用ですか?」
ただおかしかったから出てきた、という訳ではないだろう。最悪の場合、僕を追いかけて来た連中の話を聞いて密かに僕を尾行していた可能性だってある。出来るだけ平静を装いつつも、僕の手の中に嫌な汗がにじんでいた。