進むも何とかとどまるも何とか
「っ」
追い込まれていてもこの場から移動する勇気なんて僕には無い。だから、立ち上がったのも走り出したのも別の理由からだった。物音がしたのだ。
「さっきの連中の話を聞いてたここの住人だったなら――」
襲ってきたって不思議はない。故に僕の足を動かしたのは、恐怖だ。悲鳴を上げるのは堪えて、それでも物音の方から離れるように、それでいてできるだけこの地区の外縁から離れないように走りながら、振り返る。
「いない?」
僕の思い過ごしだったのか。追いかけてくるような人物はおらず。
「とは言え、引き返すわけにもいきませんよね」
走る音は壁の向こうの連中にも聞こえたかもしれない。幸いにも日はまだ空に残っているし、背の高い建物もあまりない。並ぶ掘っ立て小屋の向こうにはスラムで無い街並みだって見える。
「どうにかしてあちらに行けば」
とりあえずの難は逃れられる。勘違いから連中が狙っている以上、もう本を売るだとか袋を買うだなんて言ってる場合じゃない。宿も下手すればさっきの連中の一部が先回りして見張ってる可能性もあるものの、それならそれでやりようはあった。働かないかと声をかけてくれた飲食店の店主との縁はまだ連中に知られていないし、財布的には痛いが、本を売った代金で別の宿に泊まるという手もある。
「『たられば』が多すぎですね」
ただし、どれもこれもこのスラム地区を無事に抜け出せたらが前提の話だ。
「っ、行き止まりか」
ただ外へ地区の外縁へと目につく道を進めば、無駄に折れ曲がった道はやがて袋小路へと行きつき。
「計画して建てた訳じゃないですもんね」
初めてきた僕にも行き当たりばったりの増築を繰り返したとわかる構造、それがきっとこの道を行き止まりにしたのだろう。つまり、他の道も似たような状況になっている可能性がある訳で。
「安易に外周方面に伸びた道だと思って進むと、他もこうなると」
まるで迷路。あの場に留まっているのが賢い選択だったとも思わないが、案内人もなしにこんな場所をさまようというのも相応に無謀であったらしい。
「空でも飛べたらあっという間なんですけど」
生憎僕は鳥ではない。
「壁や建物をよじ登る?」
強度面で大丈夫かも不安だが、それ以前の問題だろう。視界内の掘っ立て小屋も誰かにとっては家だ。見知らぬ人間が登っていたのを見たら、何をしてくるか。
「それに」
ここはスラム地区。さっき追いかけてきていた連中よりはるかに危険な人間が住んでいておかしくない場所だ。流石に実家で着ていたような服は処分にしてお金に変え、今は古着に腕を通し、他のギルド利用者と変わらない格好をしているつもりだが、それでもこの地区の住人からすればかなり良い格好をしている。
「狙われない要素がありませんよね」
にもかかわらず、今のところ無事なのは、運がいいのかその手の住人がまだ様子見をしてるからとかだろうか。
「夜が来るのが早いか、それとも」
住人に僕が襲われるのが早いか。僕の中で臆病な部分が早く逃げ出せと喚き散らすが、逃げろと言われても道が解からない。どことなく他人事のように冷静に状況を把握できているのは、状況が詰みすぎて一回りして落ち着いてしまったからであるような気がする。
「どうしようもなさ過ぎて諦念を覚えてしまった」
とも言うか。武器になりそうなモノはなく、襲撃者が一人なら護身術で一時しのぎくらいはできるが、複数の人間が相手だと厳しい。
「あるのは――」
本だけ。分厚い本ならば背表紙で殴打することぐらいはできるかもしれないと考え、密かにストレージから取り出したそれを懐に忍ばせる。
「直接手に持つと、アレですからね」
盗んでくれと言わんがばかりだということぐらい僕にもわかる。だから、服の中に取り出し。
「あ」
前方に視線を戻すと、ひょろりと痩せた男がこちらへ歩いて来るところだった。