想定外の先に
「入り口だけ、入り口だけなら――」
スラム地区が近づいてくるのを目で確認しつつ、僕は譫言の様に繰り返す。やはり中に入ってゆくような勇気などない。だが、今更方向変換しても逃げ切れるとは思えない。だから、他に選択肢など皆無だった。
「スラム地区の入り口に隠れてやり過ごす」
中に入ってゆくつもりはない。きっと頼まれても無理だ。
「問題は、それで、騙されて、くれるか、ですけど」
「待ぁて、こるぁあ゛あっ!」
後ろを振り返るまでもなく追ってきている。賭けなんてしたくないが、護身術が使えることは、これまで絡まれた時に使ったことがある為に連中には露見している。食い逃げ犯とは違って簡単には投げられてくれないだろう。
「はぁ、はぁ、はぁ」
スラム地区の入り口が見えてくる。足を踏み入れたことどころか近寄ったこともないだけに、ここまで接近するのも初めてだ。当然、土地勘も皆無。隠れる場所を探すにも行き当たりばったりになる。
「どこか、どこか――」
隠れる場所を探しながら、走る。足は止められない。むしろ中に入るところは後ろの連中にきっちり見せる必要がある。
「建物は、だめ」
入り口が一つだとすると、もし連中が追ってきたら逃げられない。となると、利用できそうなのは何かの物陰だとかだが。
「全身、隠れない、と」
ここの住人でない僕の姿は、確実に浮く。だが走りながらでは、深く考える余裕もなく。
「あ」
見つけたのは、板壁に空いた穴。
「っ」
他に追っ手から逃れられそうなものも見当たらない。僕は穴につっかえないことを祈りながら、身体をくぐらせる。
「ん、はぁはぁ、……よし」
頭が通り、肩が通り、胸、胴、腰と来て片手を地について穴を太ももが通り抜けたところで密かに安どの息を吐き。
「くそっ、まさかスラムん中まで逃げるとは」
「どうすんだよ? これじゃ付与品、スラムの奴に持ってかれちまうぜ?」
壁一枚向こうから聞こえた声に、固まった。何故だ。何故僕が付与品を持っていると解る。こちらですら先ほど気づいたばかりのことを連中が知っているという異常事態に僕は混乱し。
「けどよ、本当に付与品持ってるのか、アイツ?」
「だってよ、付与品の店の隣の屋根から見たんだぜ、あの元貴族の坊ちゃんが店から出てくるところ。付与品をもってないなら金を持ってるだろ? 売っぱらってきたってことだってあるしよ」
尚も続く会話を聞いて、疑問が氷解する。連中の中に付与品の店から出てきたところを上から見ていた奴がいたのだ。
「上ですか」
そういえば上方は警戒していなかった気がする。屋根の修理だとか看板の設置だとかで屋根に上る仕事を受ける可能性だって充分ありえたのに、失念していたのは僕のミスだ。
「それで騒ぎになるのも構わず追いかけてきた、と」
付与品は高価だ。そして追い出されたとはいえ僕は元々貴族だった。実家から持ち出してきた品でもあるのではないかと連中が考えても不思議はない。実際、先生から選別に頂いた付与品は持っているのだ。もちろん、あれを売り払う気なんてないが。
「それはそれとして」
面倒なことになったと思う。入り口近くとは言え、僕が大金か付与品を持っているかもしれないと口に出してくれたのだ。聞いていたスラムの住人が僕を見つけたら、どんな行動に出るかなんて想像するまでもない。
「いや」
そこまで考えてあの連中もわざわざ声に出したのだろう。危険を感じて僕がスラムから出てきたらそこを捕まえるつもりだとしたら、先ほどの言動にも納得がいくのだ。
「さっきの話がこの地区に広まったら――」
状況は最悪なことになる。連中もさっき通ってきたスラム地区の入り口辺りでしばらくは待ち受けているだろうからそちらから逃げるのは難しい。
「割と詰んでませんか、これ」
一応、話が広まる前に別の入り口までこの地区を通り抜けることが出来たなら脱出も可能ではあるだろうが、僕にはこの地区の土地勘がない。
「無理に動き回るとかえって迷いそうな気が……」
だが、蹲っていれば状況は悪化するだけ、僕は完全に追い込まれていた。