29話 悪魔
魔王が倒されたことで、魔物の勢力は大きく衰えた。
しかし、壊滅したわけではない。
魔王を倒したから世界が平和になりました……なんて、現実はおとぎ話のようにうまくいかないのだ。
魔物は指導者を失い、大きく力が削がれることになった。
しかし、絶滅したわけではない。
魔王が倒されたとしても、まだまだ世界には魔物があふれている。
そして、人がその驚異にさらされていることに変わりはない。
この東クリモアも、同じく魔物の驚異にさらされていた。
『大悪魔』を名乗る魔物が近くの洞窟に住み着いた。
大悪魔は魔王の腹心だったと名乗り、無数の魔物を引き連れて自らの力を誇示した。
その上で、東クリモアにとある要求をした。
月に一度、生贄を差し出すがいい。
さもなければ、街は炎に包まれるだろう……と。
「悪魔が現れたのは、おおよそ一ヶ月前のこと……ヤツの要求に従うのならば、そろそろ生贄を差し出さなければいけない。皆、自分が選ばれるのではないかと、ビクビクしているのさ」
「そんなことになっていたのか……」
魔王が倒れたことで、好き勝手に行動する魔物が増えていることは確かだ。
その大悪魔とやらも、上からの圧力が消えて、好きに生きていくことにしたのだろう。
「素直に悪魔の要求に従うつもりなのか?」
「わからない……少なくとも、領主さまは従うつもりはないみたいだけど。でも、ダメだね。あの人は現実が見えていない」
「と、いうと?」
「悪魔を討伐するために、領主さまは兵士を派遣したよ。それと、冒険者も雇った。しかし……結果は、全滅さ」
「それは……」
痛ましい結果に、思わず眉をひそめてしまう。
「ん? でも、そんな結果になったのならば、普通は焦らないか? そうすることが正しいとは言わないが、悪魔の要求を受け入れることを考えることも、選択の一つとして出てくると思うが……」
「言っただろう、領主さまは現実が見えていないんだ。兵や冒険者が返り討ちにあったことで、正義感に火がついてしまった、とでも言うのかね。悪魔なんかに絶対に屈してはならないと、また討伐隊を編成しているのさ」
「なるほど、そういう……」
「悪魔の力は絶大だ。普通の人が勝てる相手じゃない。それなのに、領主さまは絶対に従わないという。今度こそ討伐してみせるという。その心意気はすばらしいものかもしれないが……現実が見えていないよ。ヤツに勝てる者なんて、それこそ、勇者さまくらいしかいない」
「……」
俺なら、この街を救うことができるのか?
人々を助けることができるのか?
しかし……
国に裏切られた苦い記憶が浮かぶ。
また裏切られたらどうする?
ありもしない冤罪をかぶせられたらどうする?
人の欲は際限なく膨らんでいくものだ。
街を救い感謝されたとしても、それは一時のことかもしれない。
あの国の王のように、欲に目がくらみ、とんでもないことをしでかすかもしれない。
俺一人なら、まだいい。
どんな悪意をぶつけられたとしても、どんなひどい目に遭わされたとしても。
もう……慣れた。
でも、今はエステルが一緒だ。
娘がいる。
エステルを巻き込むわけにはいかない。
だからといって、離れるなんて選択肢もありえない。
「……大変だな」
結局、俺は自分が元勇者であることを明かすことなく、無難な相づちを打つ程度にとどめておいた。
悪いところではないと聞いていたが……
こうなると話が変わる。
厄介事に首をつっこむような趣味はない。
巻き添えをくらう前に、早いところ街を出た方がいいかもしれないな。
「それで……聞きたいことはそれだけかい?」
「ああ、そうだな」
「えっと、一週間だったかい?」
「そのことなんだけど……」
「ねえねえ、お母さん」
フィンちゃんが顔を見せた。
その隣にエステルもいる。
「エステルと遊んできてもいい?」
「店番はどうするつもりなんだい?」
「えっと……また今度手伝うから!」
「まったく、すぐ遊びに夢中になるんだから。まあ、新しいとも……その子は」
エステルを見て、女将が顔色を変えた。
その視線は、エステルの耳に向けられている。
屋内ということで安心したのか。
エステルは麦わら帽子を脱いでいた。
「……その子は魔族なのかい?」
「ん? そうみたいね。この耳、かわいいよね♪」
フィンちゃんは、エステルが魔族であることをまるで気にしていないみたいだ。
ただ、女将は……
「……すまないね」
女将はこちらを見ると、後ろめたい気持ちを隠すように目を逸らした。
そのまま話を続ける。
「今思い出したんだけど、満室だった。空きが出る予定もない。悪いんだけど、他をあたってくれないかい?」
女将も悪い人ではないのだろう。
エステルが魔族だからといって、差別するような人には見えない。
しかし、状況が悪い。
悪魔に狙われている今……
魔族であるエステルと関わると、どんな災難が訪れるか。
女将も、フィンちゃんという娘がいる。
子供のためならば、どんなひどいこともできる。
それが親というものだと……俺は、そう思うようになった。
「……そうか。わかった」
「え? え? お母さん、なに言ってるの? 部屋なら空いてるじゃない」
「たった今、全部埋まったんだ」
「えー、そんなことあるわけないし。なんでウソ言うの?」
フィンちゃんは、なぜ女将がそんなことを言うのかわからないらしく、何度も問いかけていた。
純粋な子だ。
エステルが魔族であることを知りながらも、そうして隣に立っているから……すごく優しい子でもあるんだろう。
こんな子がエステルの友だちになってくれたら、と思うものの、もうどうしようもない。
「エステル、行こうか」
「……うん」
エステルは事情を理解しているらしい。
落ち込んでいるものの、でも、取り乱すことはない。
こういうことに慣れているんだろうな。
こんなことに慣れているという事実に、やるせない気持ちになるのだけど……
でも、仕方のないことなのだ。
誰も彼も強い心を持っているわけじゃない。
フィンちゃんのように純粋でい続けることもできない。
「手間をとらせて悪かったな。他をあたってみるよ」
「……すまないね」
「いいさ。女将の事情も理解できる」
「そう言ってもらえると、助かるよ……」
エステルがたたたと隣に移動して、俺の手を握る。
不安に思うことなんてなにもないというように、小さな手をしっかりと握り返した。
「エステル、また遊びに来なさいよ」
「うん……ばいばい」
エステルはフィンちゃんに手を振り……
それから、俺たちは宿を後にした。




