鏡と邪馬台国
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡というものがある。他にもいろいろ九州からは出ている。畿内説の根拠だった鏡も九州の方が怪しいのは多い。私は九州説を推したいわけじゃない。畿内説の根拠がとても胡散臭いんだ。それ意外は考えなくて良い。正直四国や半島は胡散臭い。まず四国説に触れたい。
謎の阿波がベースになる。この謎だが本当に謎だ。一つここに古いNOが残るだのが、これどうもNの分類できなかったものじゃないか?といわれてて、あまり真剣に捉えないほうが良い。まだ発見してないが、Nに変わったデータもあるかもしれない。それでもNが高く出るのは確か。このNは何か?
縄文時代の北方モンゴロイドの渡来があった可能性。東日本は分かりやすい青森の巨大遺跡とNには遼河文明と言う共通の文化がある可能性が指摘されている。だが西日本は良く分からない。その後東日本の縄文文化は衰退する。おそらく関東に移ったのだが、一切西日本に来てないか?と言うと怪しいのと、縄文は途中からやたらと海洋技術が発達する。
当たり前の様に東北から四国への流れがあってもおかしくはない。
ただし四国で目立った縄文遺跡は特に見つかってない。シンプルに島国ゆえ古い遺伝子が残っただけかもしれない。一応曽畑式土器によりNとの接触があったとの事だが、これ半島で融合しただけで、日本に来た可能性は怪しいとはなってる。ただ、ひょっとしたら半島で混血して、四国に来た可能性はある。だが骨がかなりこの場合特異になる。かなり縄文系がきついなら良いのだが、もろ北方モンゴロイドであるため弥生人が思ったより早く来ていたとなってしまう。
青森は圧倒的多数の縄文人の中に来ただけなので骨の変化は多分無い。そういえば半島で南北モンゴロイドの中間の骨が見つかったとあり、このルーツに対して様々な仮説が立てられていた。その1つに縄文人との混血が合った。半島ですでに混血してさらに縄文人と本土で混血したらまず骨の変化はあわられない。
関東でいくらでもmtDNAのD系が出るので、特にそのあたりは問題が無い。NらしいD系。関東で縄文D系と言う特殊な系統の違うD系が出る。それがたまたままだ見つかってないだけの可能性がある。
海人として混血した曽畑式土器の集団が四国にまで広がって、後の時代にたまたま残ったためになる。一応福岡でもNは出る。弥生人のルーツなので当たり前と言えば当たり前だが、縄文時代に入ってきた可能性はある。そこ重要なのが猿田彦が祭られる忌部神社と忌部が雑穀民としての起源を感じさせる女神を重視してる点になる。
忌部氏は多分稲作民だと思われる。じゃこの雑穀の女神の重視はどこから来たのか?猿田彦じゃないか?となる。実際はもっと複雑になる。猿田彦=C1A1の可能性だが、C1A1は太平洋岸に広がった可能性が高い。当然日本海側にも広がったと思うが、このルート隼人とほぼ同じになる。
隼人と猿田彦は九州以外で何かしらの繋がりがあったんじゃないか?と見ている。ここにおそらく天皇系のD海人も絡んでいると見ている。天皇が何故山彦になってしまったか?は英彦山で解ける。ニニギの父が高天原から降りなかった神話は、山を基本とした信仰で山から下りなかったことを意味していると見ている。山から下りて日向に向かった集団がニニギだと見ている。
元は海人だったが、跡形もなくなったと見ている。天皇家自身にも一切元海人の伝承は残ってないだろう。C1A1が単独で海人をやり続けたなんてまず思えないからだ。多数派であるD系に混ざって大きな集団になっていったのが分かる。じゃないとC1A1の全国的な均等な広がりが紐解けない。これは混血して均一な集団になって広がったと見ている。
C1A1が海の民であるのは私自身が疑問を呈した、だがあれは一応留意するだけで、最近はまた海の民に戻りつつある。その根拠が曽畑式土器の存在になる。古い血統が中国に残るのは事実だが、これは済州島や中国と交流があった可能性を残している。まさに海の民だ。後済州島は古くない。
沖縄と徳島が全国的には高く出る。なのにそれほど九州は高くない。九州の隣が、四国と沖縄になる。古い遺伝子が残ったため濃くなったのが沖縄になる。この理屈がそのまま徳島でも適応できる。出雲と徳島が特殊なのはおそらく古い遺伝子が残るための歴史的な理由があったと見ている。
九州をベースとしたC1A1はカルデラ噴火で逆に九州は減って、その周辺の古い遺伝子を残す場所で高くなった可能性あると見ている。ただ島根のC1A1のデータは知らない。沖縄で最初の土器が曽畑式土器になり、沖縄で現在も繋がる最初の移民がその集団になるとされている。本来稲作が鹿児島から伝わった時期が沖縄の歴史的に分かっている移住の時期だが、その割に沖縄には縄文の遺伝子が濃すぎる。その理由が、この時代の遺伝子が残っていると考えれば自然だから。
沖縄は基本1万年より前に遡らない。そのため港川人は先祖じゃないとなってる。もちろん主流じゃないなら港川人も祖先の1つである見解は出されている。でも沖縄人を構成する大体数の遺伝子としては港川人は一切無視できる。そうなると沖縄独特のクラスターの正体は曽畑式土器の移住者だと結論付けられる。
当然Dも高いわけだが、それは後の鹿児島の移民でも説明できるし、弥生時代に長崎と交流があった事が分かって居る。
Nについては不明だが、徳島の特殊性は沖縄と良く似ているだろうと見ている。それが猿田彦神社に繋がり、稲作じゃなくて、雑穀畑作の女神が重視されるのは隼人などが絡んだ海人の国だった事が予想できる。国とは言えなくても、何かしらの古い集団があった可能性があり、これと後で忌部氏は合流した可能性がある。
忌部氏は歴史的に淡路から入ったとあるので、太平洋岸に広がった猿田彦、隼人とは違う流れだと思うし、歴史時代になっての移住だと思う。フトタマの祖先からの別系統子孫が祖先神であるので、阿波に入った歴史が明らかに浅い。後ここと伊勢に猿田彦は多い点から、明らかな太平洋岸の黒潮つながりの広がりが分かる。
後に伊豆諸島にもこの集団は行ってるためその流れが黒潮だとすぐ分かる。中国の古い系統は逆にかなり昔から中国と交易していた証しである可能性がある。遼河で日本産のヒスイが見つかっているため、誰かが持って行ったのは確かだが、現地に住んだ?はまた別の話しなので。通常はこれを遼河から来たと見るのが自然。
そりゃ当然でだって古い遺伝子が遼河から見つかって、弥生人の故郷なんだから。普通に考えたら、C1A1は弥生人だとの結論になる。だが実際はこれ逆の可能性がある。その根拠がとても怪しい猿田彦の子孫分析と曽畑式土器沖縄の関係にある。徳島は猿田彦以外は何も無い。とても脆弱な根拠。いかがわしいも良い所。
出雲と徳島には縄文に繋がる古い時代の何か?がある。だがその答えはわからない。出雲もスサノオしか追えない。肝心のクナドや船戸などの神様は追えない。だが遺伝子は両方とも古い遺伝子が残る。そういえば秦氏も多かった。
麻と絹の布つながりかな?と安直に考えている。だが秦氏は秦系中国人もかなり近いものがある。この2つは全く時代が違う。だが、3韓時代の秦系って意味ではこの2つには密接なつながりがある。
かなり後の時代になって越の地域は他が受け入れなかった高句麗の移民を進んで受け入れた。あそこはツングース族同士のつながりがあると考えている地方だから。忌部氏は高木神の子孫で3韓系秦族の末裔の可能性が高い。その関係で秦氏を受け入れた可能性がある。ただし、正直言えば、始皇帝のせいで流民になったので、本来は自分達の仇敵とも言える存在なので、始皇帝の子孫の血をありがたく受け入れるって神経が良く分からないのだが…。
その辺り始皇帝の子孫と言う秦氏もかなり胡散臭い人たちなので全くの同族=遼河秦系の可能性が高い。
天皇家にとても近い3韓秦族であるため、この2系統が一緒に居るという点で徳島の胡散臭さが倍増の部分がある。古い縄文が出雲ほど残る、出雲には無い東北N系の匂い。この差はおそらく山だと見ている。出雲はそれに対して海が純粋すぎたと見ている。ただ徳島も海人なら負けてない。邪馬台国とはつなげた無くないが、まだまだ物部氏ぐらいで片付く程度じゃない秘密があるとは見ている。
半島は良いだろう…。ルーツが半島にあるとかじゃない。韓国が邪馬台国の舞台だとか。無い。日本の稲作は無茶苦茶優れていて、その技術を半島には戻ってない。そこから巨大帝国が出来る下地が日本より少ないんだ。何度も繰り返される半島は日本ほど水田が残ってないだが、それと起源は関係ない。通ってきた道より、たどりついた場所の方が、適していたし、かつ、生産性向上の発展があったからだ。
これは良くあるミスで、栽培作物の品種の多さで起源を決めることがあるのだが、それは自体は間違ってないが、例外的にまれに起源地より大きく発達した場所で品種が増えることが多々ある。これにすごく似ている。
ただ規模を基準にするのは良くない。それが畿内説への批判的視点だから。魏志倭人伝に間違いなく邪馬台国はほかの地域より圧倒的な人口だったとか証明して無い。書き手がそう思っても駄目だ。そのための論拠を示さないと、畿内説は頭が悪い。勝手に日本一の規模だったから畿内だとしてる部分がある。別に畿内に対する2位で良いじゃないですか?だ。
やっとここで鏡に戻る。この鏡大分で見つかった。これで邪馬台国は大分だと言ってる人が居る。私はそう思わない。私は邪馬台国筑後川水系じゃないか?と見てて、その点ではこれ大分だが、筑紫平野の一部とも見れるんだ。もちろん盆地で閉ざされてる。大事なのは船でいけるか?なんだ。
大分県で見たら駄目、何故私が天皇家が邪馬台国と関係ないと書いたか?と言うと、水系が違うからだ。伊都国は博多の板付に流れる川の水系になる。んで奴国が分からん。邪馬台国はこの筑後川水系だと見ている。奴国はこれに隣接する伊都国に近い一部だろうなと見てる。
大分だが、こっちは遠賀川水系とは別の文化圏だと見ている。
面白いのが、物部氏が2つに分布する点。それを調べてみると、田川郡ってのがキーになってる。ここ両方の水系に近くなって、ここに弓削村って物部弓隊と同じ名前の村がある。有名な道鏡の出自になる。これが忌部氏じゃないか?といわれてるので、物部の家系図の謎になってるわけなのだが、軍事を司る物部氏が、一番重要だった弓隊と母方でつながりがあったのは確か。
おそらくこの部隊が畿内じゃなくて九州からずっと神武に従ってくれた兵隊だと見ている。だから物部氏本流になったのじゃないか?と見ている。ただの仮冒とは思えない説得力がある。
上流に上って村を作って、そこから筑後川水系で下流に延びたのが筑紫平野の物部氏だと見ている。ただし、それはヤマト朝廷九州制圧後だとは思う。この時の将軍が物部氏なので、一番美味しい役得があったはずなので。
豊国=邪馬台国だと言うのはかなり短絡的だと見ている。台与=とよからの連想もあるが、これ漢字が元は違ったらしい、その読み方だとイヨになるらしい。そうなるとい繋がりで伊都国の方がつながりとしては深くなる気がする。あくまで鏡が見つかった日田市は大分と佐賀の県境であってこれをもって大分=邪馬台国は強引だと思う。
私は邪馬台国は筑後川水系にあったと見てて、佐賀、熊本、大分、福岡全部候補だと思ってる。船で攻められたら守りにくいので、その領域は全部抑えていたと見ている。(海は広すぎるので仕方ない)首都的祭祀的意味で日田盆地にあった可能性は高い。だがあくまでそれはワシントンみたいなもので、ニューヨーク的な都市は別に合ったとしてだと思う。だから邪馬台国の中心地ではない。
邪馬台国と天皇家は中が良かったと思う。それは宇佐から糸島への流れで分かる。魏志倭人伝に描かれた雑多な地域の1つが天皇家の国なんじゃないかな?と見てる。
ただそれだとアマテラス=卑弥呼的な意味は出てしまう。これは難しい可能性としてはあるし、でも、私は時代がずれてるとは思う。何度も女王が建ちやすい場所だった気がするので、邪馬台国としてじゃなくて、他にそういう女王は居たのかもしれない。それでも信仰としての女神は取りあえず遠賀川水域から英彦山に向かう流れで九州で見つからないので元の天皇家の祖神と後の時代の習合的な意味合いの神だったと見ている。