デビュー
「ベアトリス、私はあなたとの婚約を破棄する!」
金髪のかつらをかぶっているアーロンさんが、強い口調で言い放ちます。
同時に舞台袖で、ばしゃああん、とシンバルの効果音が鳴りました。先程まで役を演じていた人たちが、衣装のまま急いで楽器を手にBGM係となっています。
縦に巻き巻きの黒いかつらをかぶり、ひと時代昔の型のドレスを着た私は、それらの音に気圧されたように一歩下がるのです。
舞台上では動きを大げさにするよう習いましたが、即席の舞台は左右に十歩も歩けないほど狭いため限度があります。
しかも観客が非常に近く、気をつけなければ、舞台に肘をかけて見ている彼らに手足が当たってしまいそう。
「な、何をおっしゃるのです!? 信じられませんわ!」
常に高笑いをしていたにっくき悪役令嬢が狼狽する、その様子に観客はそれまでのヘイトを解放される、今はそんなクライマックスシーンです。
初日の舞台の前に、欠けた歯を詰め直したアーロンさんの腕には、ロングのかつらでなるべく喉元を隠している少女、に見せかけた小柄な少年がか弱げに取り付いています。すべての台詞を裏声でこなさなければならない彼が一番、大変そう。人材不足が目に見えて表れています。
それでもどうにかこうにか漕ぎつけたクライマックスでは、主人公の侯爵令息が、一族のいるパーティー会場で悪役令嬢ベアトリスの所業を暴き、この前のシーンで明らかとなった愛する少女の本当の素性を知らしめ、悪人たちをまとめて断罪します。
ユリウス殿下もきっと、卒業パーティーでこういうことをなさりたかったのでしょう。
ついつい早く旅に出たくて、殿下の見せ場を潰してしまった私。悪役令嬢としましては、詰めが甘かったかもしれません。
もちろん、舞台上のベアトリスはさっさと自供して逃亡などいたしません。
最後まで悪役令嬢らしく、主人公たちを責め続けるのです。
「なぜ、私の愛を裏切るのです!?」
まるでその身を焼かれているかのように、整った顔に苦悶を浮かべて。
彼女は良くも悪くも純粋でした。
いつまでも子供のように、周囲が許してくれると思っていたのです。なんの代償も払わずに、望んだすべてが手に入ると信じ込んでいたのです。
ですから、婚約者の行為はまぎれもなく彼女にとって裏切りでした。
「私はこんなにもあなた様を想い、いつだってあなた様の行く末を案じて、尽くして参りましたのに! なぜ、なぜ、私をお選びにならないの!? なぜ私でない女を選ぶのですかっ!!」
この期に及んでも彼女にはわかりません。
彼女が尽くしていたのは自分自身。案じていたのは自身の将来。そこに相手の気持ちなど欠片も入っていなかったのです。
それは悪と言えば、悪なのでしょう。
けれど私は、非常にまっすぐな心根であるとも思うのです。
本来の演出では、ここでみっともなく泣きじゃくる予定なのですが、咄嗟に涙を出すことはちょっと、演劇素人の私には難しく、かわりに悔しそうに顔をそらす演技に変えていただきました。
個人的には、そのほうが強気なベアトリスらしく思えます。
思いっきり悔しい顔を作り、くっ、と勢いよく観客のほうへ顔をそらしましたら、突然、額を撃ち抜かれたような衝撃を受けました。
観客に熱が入り過ぎて、何かを投げつけられたわけでは、ありません。
そういう具体的な衝撃ではありません。
もっと物騒な、そう、これは、殺気。
悔し気に閉じていた目を開けます。
すると大勢の観客の後方に、深緑色のマントをした三人の男性が立っていました。
そのうちのお一方が、刺し殺さんばかりの眼力で私を見つめていらしたのです。
あらあら、追いつかれてしまいましたわ。
かつらも派手な舞台化粧もしておりますのに、案外ばれてしまうものですね。
私と目が合った途端、その方は動き出そうとしましたので、私は咄嗟に唇に人差し指を当てました。
上演中は、お静かに。
ほんの少しばかり微笑みを添えて。
すると、その方は目を瞠って留まりました。
そして私が退場するまで、熱い熱い眼差しを注いでくださっていたのでした。
*
幕が下り、舞台裏に戻りますと、さっそく出待ちのファンが待ち構えておりました。
ほんと、熱心ですこと。
「私の初舞台は、いかがでしたか? ルドルフ様」
一体何がどうしてこうなったのか、もはやどなたにとっても価値のないこの身は、なぜだか王太子のご側近に追われております。
最初に絵を描いた海の傍の町で、ばったり再会したのが事の始まり。あの時は、出港する船に乗り込んでから、港で茫然としていらっしゃるお姿をお見かけしただけでしたが、その後も別の場所で何度かお会いして、あらもしかして、追われているのかしらと思いましたら、その通りだそうで。
学園に通っていた頃から微塵も変わっていないしかめっ面を、ルドルフ様はこの日も私に向けておられました。
「貴女は何をしているんだ」
うぅ、と獣のように唸る声が後ろに聞こえてきそうです。
この方は卒業しても私に怒ってばかり。以前はまだ敬語を使われていましたが、すでに身分を失った身に敬意を払うことはおやめになったようです。
「不幸に遭われた役者の方の、代役を頼まれましたの。私はこの通り心を入れ替え、人助けをしておりますのよ」
「・・・悪の令嬢を平然と演じているあたり、反省の色は窺えないが」
「まさか。過去を振り返り、懺悔の念に苛まれながら演じておりますわ」
くっ、と涙を隠すように顔をそらしてみせます。
けれどその演技は、ルドルフ様に鼻で笑われてしまいました。
「確かに、悪役を演ずることなど貴女には容易いだろう。三年もの間、そうして我らを欺き続けていたのだから」
あらまあ。色々とばれているみたい。
欺いて、とおっしゃるということは、私が婚約を破棄したくてそのように仕向けたことには、勘付いていらっしゃるのでしょうか。
もっともヒントはたくさん残して来てしまったので、特に驚くことではございませんが。
ただ、なぜルドルフ様が追って来られるのかは、実のところあまりよくわかっていない私です。とにかく良い予感がしませんので、お見かけしたら逃げるを繰り返して参りました。
身分を捨てたくらいでは殿下のお腹の虫が収まらず、さてはこの首をご所望なのかしらと初めは思ったものですが、別に指名手配などをされているわけでもないようですし、追手もルドルフ様とお供の方々だけの少人数。どうも各所には内緒で、私をこっそり連れ帰りたいようです。
私が望んで悪役を演じていたことにお気づきであられるのを鑑みますと、もしかして事情説明などをご所望なのかもしれません。
でしたら、私にはまったく利のないことです。
まだ午後にも舞台がございますし、早急にお帰り願いたいところ。ですが、さすがにこの状況ではどうにもできませんね。
「即刻そのふざけた衣装を脱ぎ、我々と来てもらおう」
「わかりました」
素直に了承いたしますと、ルドルフ様は拍子抜けされたようでした。
そしてかえって、疑わしく思われたようです。
「何を企んでいる?」
「いえ特に。では着替えて参りますので、帰りの馬車をご用意くださいませね。私、乗馬の経験はございませんので」
更衣室は一座の幌馬車の中です。
衣装係の女性に着替えをお手伝いいただき、派手な化粧をゆっくり落として外に出ますと、そこで待っていらしたルドルフ様は、舞台上での私のようなお顔に変わっておられました。
「・・・祭りが終わるまで、町を出る馬車は一切ないそうだ」
とっても悔しそう。
皆、お祭りを楽しみにして来ておりますからね。御者も例外ではございません。今頃は酒場で評論家にジョブチェンジしていることでしょう。
そもそも町に人が溢れて危ないので、お祭り中の馬車や馬の通行は禁止されているのです。
「ルドルフ様、人助けも高貴なお方のお役目ですわ」
こうして私は無事に追手を説き伏せ、午後にも悪役令嬢を務め上げて、初日の舞台を終えたのでした。