最終話
雨の河川敷。おはなやさんが傘もささずに空を見上げて鼻歌を歌っていると1人の老人がやってきた。
大きな傘を差した綺麗な白髪のおじいさん。おはなやさんを見つけるとゆっくりと歩いていき、静かに傘を差し出す。
「風邪をひきますよ、おはなやさん」
おはなやさんはおじいさんを見上げると、可愛らしく笑って小首を傾げた。
「恋をしているんですか?」
おじいさんは微笑み返して空を指さした。
「遠距離恋愛なんです」と。
結婚記念日には花を一本買って帰る。
それがおじいさんとおばあさんの約束だった。
おじいさんはおばあさんのことが大好きだった。
だから、自分のお嫁さんになってくれた感謝を伝えることが出来るその日が嬉しくて。
初めての結婚記念日、あまりにはりきりすぎて、両手いっぱいのバラの花束をプレゼントした。
おばあさんはとてもびっくりした後、困ったように笑って言った。
「とても嬉しいけれど、これからは一本にしましょう?」
そう言って、おじいさんと指切りをした。
それから、おじいさんは約束を守り続けてきた。
結婚記念日になるとお花屋さんに行って、おばあさんに贈りたい花を一生懸命選んだ。
おばあさんはいつも心から喜んでくれた。
ずっと約束が続くのだと思っていた。
でも、どんなものにも永遠はなかった。
ある日、おばあさんに病気が見つかり、残りの命を告げられた。
お別れなんてしたくない。
おじいさんはおばあさんのためならいつだって一生懸命になれた。
たくさん勉強して、たくさん考えて、たくさん試した。
それなのに、どんなに頑張ってもおばあさんの命は遠のいていく。
おじいさんは自分の無力さを痛感し、病室でうなだれた。
「ごめん……。君には今まで数えきれないほど幸せをもらったのに何も返すことが出来ない……」
悔しくて、そして、悲しくてたまらなかった。
おばあさんはそんなおじいさんの手を握って微笑んだ。
「あなた、私の夢を聞いてくれますか?」
「夢?」
訊き返すおじいさんにおばあさんは頷く。
「私の夢はね。明日もあなたに会うことよ」
「僕に……?」
「ええ、毎日、毎日、眠りにつくたびに思うわ。明日もあなたに会えますように。ねえ、今日は夢が叶った素晴らしい日なのよ。なのに、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」
「…………」
「一緒に笑って下さらない? 私、それだけで十分だわ」
そう言っておばあさんは本当に幸せそうに笑った。
おじいさんは笑おうとしたけれど心がいっぱいで中々上手くいかなかった。
だから、おばあさんの手を握り返してこう言った。
「僕は本当に素敵なお嫁さんをもらったね……」
おばあさんは照れたように頬を赤くした。
それから2人は何度も同じ夢を見て、何度も夢を叶えては、一日一日、お互いに出会える今日を喜んだ。
そうして、60回目の結婚記念日を迎える前に夢は破れてしまった。
おはなやさんの隣に座って相合傘をしながら、おじいさんは困ったように言った。
「今日はね、妻が亡くなって初めての結婚記念日なんです。いつものようにお店に行って妻に贈りたい花を一生懸命選ぼうとしたんですけど、どれも違う気がして。そんな時におはなやさんのことを思い出したんです」
「私のことを?」
「はい、たんぽぽに染まる河川敷を見てあなたのことを。そうして、思いました。私の恋心を花にしてもらえないかと。その花を妻に贈りたいと」
「いいんですか? 摘むことが出来るのは一度だけですよ」
「構いません。僕はきっと一生、妻に恋をするでしょう。でも、きっとこれ以上、この花が育つことはありません」
胸に手を当てて悲し気に雨降る空を見上げるおじいさんにおはなやさんは納得したようにうなずいた。
「分かりました。では、目をつぶって下さい。頭をなでてもいいですか?」
「はい」
何の迷いもなく目をつぶるおじいさんの頭をおはなやさんはそっと撫でた。育んできた心を愛でるように。そっと。そっと。
その手から花が生まれる。
それは59本の花束だった。
バラやマーガレット、チューリップなど。59種類の花が束ねられていた。
「目を開けてください」
おじいさんから傘を受け取って、丁寧にその手に握らせる。目を開けたおじいさんは驚いたように息を呑んだ。
「これが……?」
一本一本確かめるように花を見る。持つ手が震える。
「すべて僕が今まで贈った花です……」
贈って受け取って、大切に飾られて枯れていった花。一生懸命に選んだ花。おじいさんは花束に顔を近付ける。
「ああ、食卓の匂いがします……」
おじいさんが花を買ってくるとおばあさんはいつもおじいさんの好物をたくさん作って待っていてくれた。
「あなただけ祝うなんておかしいわ。今日はお互いに感謝しあう日でしょう?」と言いながら。
おじいさんはおばあさんによく見えるように傘から手を出して花束を空に掲げた。
途端、雨が止んだ。
まるで贈り物を濡らすのを嫌がるように。
おじいさんは嬉しそうに目を細めて「ありがとう……」と心をこめて伝えた。
空には大きな虹が掛かっていた。
見頃が過ぎた河川敷。おはなやさんは両手いっぱいの花束を見ていた。
夕焼け色のおそろいの花。花びらがひとつしかない花。59種類の結婚記念日の花。
今回出会った人々の花をひとつひとつ愛しそうに見つめる。
それから、目をつぶって自分の頭をそっと撫でた。そっとそっと。育んできた心を愛でるように。
でも、その手の中には何も生まれない。
おはなやさんは目を開け確かめると、寂しそうに微笑んで、ぎゅっと花束を抱きしめた。
「君は綺麗なものが好きだからね……」
そう呟きながら。
おはなやさんは花束を心にしまうと立ち上がる。河川敷から去っていく。
おはなやさんの正体は誰も知らない。
名前も年齢も不思議な力の理由も。生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
それでも、この町の人々は近所の河川敷がたんぽぽに染まると「おはなやさん」を思いだす。
恋する人は彼女のことを探し始める。
自分の恋心を花にしてもらうために――。