第一話 出会い
僕、朝露雪道は高鳴る心臓の鼓動を押し殺して放送機器と対峙していた。
今学校中に放送されているのは、今流行っているアイドルグループの歌らしい。愛や希望を混ぜ込んだ歌詞を猫撫で声で歌う、それは女子高生の胸をときめかせているようだ。
僕は目の前にある放送機具に異常がないことを確認しながら、そんなことを考えた。
ここは三船高校の放送室。
学校の生徒を楽しませるための昼の放送を、僕は流していた。
マイクの音声が決められているスピーカーにのみ届くように設定して、マイクに声を吹き込み始める。
「皆さん、こんにちわ。お昼の放送です」
何度目かわからないその台詞を僕は口にする。耳に入りやすいように、いつもよりやや高いトーンを意識して言葉を紡いでいく。
遊び心の入る余地のない作業だ。だけど、安定している。
「今流れている曲はみなさんご存知の「ときめく恋心」。カラオケなどでよく歌われるあの曲です」
言い換えれば聞き飽きているはずの曲だ。
聞いている生徒たちは、大満足はしてくれないと思う。聞き飽きている曲なんて意識するほどの物でもない。けれども、自分の好きな曲を流すような度胸は僕にはない。
印象に残らず、悪印象も残さない。
それでいいと思う。
「……ふぅ」
マイクの電源を切って、軽く息を吐く。それを皮切りにして体から力が抜けていった。負担のかかった椅子の背もたれが軋み、音を立てる。
これで終わりというわけじゃない。そう自分に言い聞かせて、僕は手の中に収まっているストップウォッチに浮かぶ数字を眺める。
「あと一分と十七秒、そこで音楽の音量を小さくして、次の曲の紹介をする……」
自分に言いきかせるために声に出す。おそらく、こんな僕の行動を人は笑うとは思う。けれど、僕にはこういう動作が必要だった。
この一分と十七秒を求めるために興味のない音楽を何度も聞いた。音楽のサビが終わり、程よい余韻を感じられる程度の時間だった。
放送委員会に入ってからもう四か月。
仕事には慣れているが、それでもこういった準備は必要だと思う。失敗しても誰にも気づかれない仕事だ。それでも僕は失敗させたくはない。
一分十七秒、僕はマイクの電源を左手で入れて、利き手である右手を音量調節ノズルに伸ばして音量を絞っていく。
「いかがだったでしょうか。心ときめく歌詞はみなさんをドキドキさせてくれましたか? 続いては――」
無難で無意味な感想を付け加えて、次の曲の紹介へと移っていく。
同時に、右手をノズルから手を放してトレーの開閉切り替えボタンを押す。機械的な音ともに浮き上がってきたトレーからCDを取り出し、あらかじめ用意しておいた別のCDをトレーにはめ込む。
押し込むようにしてトレーに力を入れて、息を軽く吸って声を吹き込んでいく。事務的な作業だと、そう思った。
次にかける曲も先ほどの親戚のような曲だった。人気だというが、二曲をいくら聴いても違いは分からなかった。
なんとなくその事実に、自分を重ねてしまう。おそらく僕は人の印象に残らず、誰にも違いを見出されるようなことはないだろう。その他、そのうちの一人にしかなれない。
あの姉さんとは大違いだ。
彼女は何度生まれ変わっても、その他多数になんてならないだろうから。
「今流れている曲は「満月の足音」です。あの有名な恋愛映画の主題歌にもなった曲で――――」
そんな曇天のような思考をしつつ、できるだけ声色には出ないようにして話す。何度も繰り返してきたその思考を断ち切るのは容易かった。
高すぎる理想を持つのは良くない。理想と現実のギャップに苦しんで、一生残る傷跡が残るだけだ。
高校二年生は、大人とは言えないだろうけれど、自分にできそうなこととできなさそうなことの区別くらいは付くような年頃だ。
僕には姉さんのような人望や才覚はない。
もし僕が姉さんと同じことをなぞったとしても、決して成功することはない。そして、自分なりの道を一人で切り開くほどの才覚もない。
だから、僕は平凡でいよう。
ストップウォッチの上を動く数字を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
傷つくのは嫌で、だから失敗することも嫌だった。
心の中でそうつぶやいて、マイクの電源を入れなおす。先ほどと同じように音量を調節しながら、当たり障りのないことを吹き込もうとした。
何度も繰り返してきた動作のはずで、失敗する可能性は限りなく低く、手慣れている作業の一つだったはずだった。
風が、吹いていた。
その出所を僕は探そうとして振り向いた。
不吉な風だということには気づかなかった。
目だけを動かして入口のほうを見る。
目線の先、締め切っていたはずの木製の扉は何者かによって大きく開かれていた。そして、その犯人であろう人物が駆けていた――――僕に向かって。
見覚えはない。背丈から女生徒だと推測できた。だが、それだけだ。僕はその人物の獣のような突進を止めることはできない。
一瞬、目線が重なる。
そして逸らしてしまった。体中の細胞が彼女に大して警報を上げていた。警報ばかりを上げて、体は見事に硬直してしまった。
何もできずに僕は動けずにいた。
「――――な、なにが」
唯一出来ることは無様な、困惑したような声を上げることだった――あろうことか電源の入ったマイクに向かって。
何が起きているのだろう、その疑問が生まれた時にはすべてが遅かった。
蛇のようなしなやかな彼女の腕は、僕と放送機材の間の空間に差し込まれる。次の瞬間、その腕をとっかかりとして彼女の体全体が砲弾のように突入する。足りない空間は僕を放送機器から押しのけることによって解消した。
僕は埃のかぶった床に投げ出される。
尻を強く打った。痛みもあったが、それよりも気になることがあった。
僕に目線もくれず、彼女は放送機器を興味あり気に眺めていた。無防備にさらされた背中からは、力任せに彼女のやろうとしていることを妨害できることを教えている。しかし、僕の体には力が入らなかった。
椅子の足の隙間から見える上履きは緑を基調にしていて、僕と同学年の高校二年生だということがわかる。
「あのー、なにをしようと――」
勇気を出して聞いた僕の質問は、彼女の一斉のもとに切り伏せられてしまったようだ。
「ねえ、マイクって電源入ってるの? コレ」
彼女は振り向かずにそう言った。
無礼で、理不尽な扱いを受けた以上、僕が彼女に答える必要はない。しかし、僕の口は無意識に動いていた。自己防衛本能というやつかもしれない。
「確か、入ってると思う」
記憶を探ってそう答えると、彼女は大きく深呼吸をし始めた。その行動は、今から何かを放送をするといっているようなものだ。
彼女の体が、大きく吸った空気に突き動かされて少し膨らみ、また元の大きさへと戻っていく。
その様子が何かのカウントダウンに僕には思えた。
そして、僕がリミッターであることもわかっていた。加えて、それが機能することがないこともわかっていた。
「光栄に思っていいわよ」
彼女はそう言って、急に僕のほうを振り返った。
その動きに長い茶髪がたなびく、高校二年生にしてはやや小柄なその体はきれいな流線型を描き、中世の騎士を思わせるような凛々しさを表現していた。
瞳がその印象を強めるように、怪しく輝いている。
一目見て、彼女は特別なのだと気が付いた。
床に這いつくばっている僕と、彼女の間の距離が広がった気がした。
「世界の変わる瞬間なんて、そうそう見れないからね!」
構わずに彼女は言葉をつづける。
その様子は先程の僕と同じく、自分に言い聞かせるための物にも見える。自身をより研ぎ澄まし、磨き上げられたその意思を伝えようとしているのだ。
すぅ、と。
彼女は一段と大きく息を吸った。
何の滞りもなくカウントダウンは進行して、今、解き放たれるようだった。
その瞬間を、僕は落ち着かない気持ちで眺めていた。おそらく、その気持ちを忘れることはないだろう。
彼女はマイクを強く握りしめて、言った。
「近くの河川敷でゴミ拾いをやるわよっ! 希望者は放課後、2のCへーーーー!!」
体から熱が奪われたことを、感じた。




