第1話 第一印象は最悪。
夏上旬だというのに照りつけるような日差しの暑い日が続く中、学生たちが夏休みに入り一週間経ったとある昼下がり。
部活のため学校を訪れていた私は肩の辺りまで伸びた髪を下ろし、前髪には雪の結晶の形をしたヘアピンを止めていた。
昼時ということで弁当を持ち教室に向かっていた途中、私は足止めをくらっていた。
「行かない。」
ハッキリとした拒絶。
「で、でもさ…人数は多い方が良いし…」
それでも食い下がらない目の前の少年。
「それなら他の子を誘えば良いじゃない」
開け放たれた窓から入る心地よい風を浴びながら、学校の廊下で言い争いをする私と彼。
私の服装は学校指定の制服、夏服の薄地の紺色スカートに白の半袖シャツに胸元には赤いリボン。少年の場合は下が黒のズボンで緑色のネクタイをしている。
「でも…冬華ちゃんにきて欲しいって皆が…」
少し頼りなさげな少年は私の顔色を伺うようにちらちらと視線を上下に動かしてきた。
「皆って…一成くんも行くの?」
少年・色井一成の動きに眉根を寄せるも、私、水瀬冬華は歩き出そうとしていた足を止めた。
「う、うん。誘われたから…行ってみようかなって」
照れくさそうに頬を掻く一成に、眉を寄せる。
(…一成くんって確か泳げないんじゃなかったっけ?)
以前、学校の体育の授業で泳ぎのタイムを図るテストがあった。
しかし一成はその時泳ぐことが出来ず、危うく溺れかけ、先生に助けられるという事件があった。
それを思い出した私は鋭い視線を一成に向けた。
「一成くん。皆で海に行こうって話だけど…そもそも一成くんって泳げないでしょ?中学生だけで海に行くのに…もし溺れでもしたら危ないよ?」
厳しく言ったけど、その言葉の中には彼を心配している気持ちが大きくあった。
というか、自分でも危険だって思わないわけ?
「だからだよ。…僕、泳げるようになりたいんだ」
「……。」
幼稚園、小学校ときて中学も同じ…幼馴染といっていい彼はいつもおどおどしていて優柔不断で怖がりな少年だった。けれど今、目の前にいるのはとても勇敢で真剣そのものの表情をする一成。
一瞬ではあったけど、少し見とれてしまった私はすぐにハッと我に返る。
「……分かった。じゃあ私も行くよ」
「本当!?」
しょうがないな。とため息を吐きつつ微笑めば、一成は頬を紅潮させると私の両手を握った。
「言っとくけど、私が一緒に行くからには一成くんを泳げるようにするから。…覚悟しといてよね?」
「うん!ありがとう、冬華ちゃん!」
茶色がかった彼の髪が夏の日差しを受けキラキラと輝く。外ではうるさいほど蝉が鳴き声を上げていた。
学校にいて忘れかけていたけれど…私達は今、夏休み真っ只中なのだ。
───そして、一週間後。
「わあ!キレイ!」
学校から程遠くない場所にある海岸で、一番乗りだと言わんばかりに両腕を広げる少女に後ろから四人の少年少女が歩み寄る。
「はしゃぎ過ぎよ、麗奈」
「だって見てよ、ひーちゃん!青い海、白い雲、広がる砂浜!そしてなんと言っても…」
腰に片手を当て、もう片方を海へと伸ばした麗奈にひーちゃんこと比奈が嫌な予感を感じつつも麗奈の次の言葉を待つ。
「日に焼けた肌を晒す、大人の男性!!」
「やっぱり…」
鼻息荒く宣言した麗奈を、行き交う人達がクスクスと笑いながら横を通り過ぎていく。
比奈は恥ずかしげに両手で顔を隠すと俯いた。そんな比奈の横を通り過ぎ、麗奈の横に並ぶ少年が一人。
「麗奈はホント煩悩だらけだよな」
「何よ!それが彼女に対する態度なわけ!?」
「はぁ?だったら言うけどよ、彼氏いるってんのに他の男を見て鼻息荒くなるとか、どういう神経してんだよ!!」
「うるさいわね!信也は信也、他は他なのよ!」
「どんな屁理屈だよ、それ!?」
ぎゃいぎゃいと喧嘩を初めてしまった麗奈と信也を尻目に、私は一人海の方へと歩いて行く。その後を追うように一成が駆け出せば、比奈が慌てて声をかける。
「場所はこの付近に確保しとくから、しばらくたったら戻って交代してね!」
「分かった!」
場所を取り先に待機するのは麗奈、信也、比奈の三人。私と一成は泳ぎの練習という事で先に海を満喫するという分担だった。
一成に海へ行こうと誘われた後、いつものメンバーで行くという事を聞いて皆で予定を立てた。
一成とクラスが一緒なのは私と比奈。あの事件を知る比奈と共に一成の泳ぎの練習の提案をした所、信也と麗奈も快く受け入れてくれたのだった。
比奈は私と一成同様、幼馴染と言っていいほどの付き合いだった。麗奈とその彼氏である信也とは中学の時に出会い、信也は一成と、私と比奈は麗奈とそれぞれ友達になり、お互いに知り合いを紹介したところ自然とこの五人で行動を共にすることが多くなった。
「先に泳げると言っても時間ないし、近場で練習して帰り道の時間を短縮しようか」
「うん。…あの、冬華ちゃん」
一成が心配そうな視線を向けてくる。そこには強引ではあったが、今日誘ったことを怒っていないかという不安が見て取れた。
「大丈夫よ。最初はどうしようかと思ったけど……今日来れて良かったって思ってるから」
「そっか…良かった!」
一成が嬉しそうに笑むと、私も釣られて苦笑を浮かべた。
最近私だけがこの五人という輪から離れつつあった。それには“理由”があるのだが、それは一成すら知らない。だが何かと離れたそうにする私の態度には気付いていたのだろう。
一成は何度もめげずに私に話しかけてきた。
(誘われた時もお節介だな…って思ったけど、やっぱりみんなといると楽しいな)
「よしっ…今日は、思いっきり楽しむわよ!」
「おー!」
拳を振り上げた一成を伴い、私は浅いだろう波打ち際付近で泳ぎの練習を始めた。
「浮き輪」
「はい、此処に。」
「ゴーグル」
「ちゃんとつけてるよ」
青い生地の学校指定水着に、売店で売っていた白いハイビスカスの絵柄の浮き輪と黒のゴーグル。それを身に付けた一成は波打ち際にどーんと立った。
それを少し笑いそうになりながらも私は先に水の中に足を入れる。
寄せては返す波に足を持っていかれる感覚はあったものの、その冷たさに心地よさを感じた。
「まずは水に慣れる練習をしよっか。とりあえず足が付く辺りまで歩いて行くよ」
「う、うん…」
浮き輪の端をきゅっと握ったまま固まる一成にため息を吐いてから、私はその手を掴んだ。
「大丈夫よ、すぐに溺れたりしないから。それに溺れそうになっても私が助けてあげるから…ね?」
「だ、大丈夫だよ!」
強い口調でそういうと一成は私の手を放しずんずんと海の方へ歩いて行く。その背を呆然と見つめていると、情けない声が届く。
「ふ、冬華ちゃーん…っ、水が冷たいです…っ!」
「もう…何を当り前なことを」
さっきまでの威勢は何処に行ったのか。それでも一成の情けない声に少し安堵している自分に気付く。
(拒絶された…かと思った)
最近、一成が違う人に見える時がある。
幼稚園からの付き合いで、一緒に居る時間が一番長いのは一成だ。それでも私の知る一成はいつも頼りなくて、守ってあげなくちゃいけない存在で…。
(でも…なんか、最近は…“男の人”にみえなくもない)
変わってしまった。そう思っていたけど、根本は変わらない。
(うん、一成は一成だよね!)
「冬華ちゃーん?」
「今行くから!」
少し遠くにいた一成に手を振りながら、私は上に着ていたパーカーを脱ぎ捨てた。
「!!!」
その瞬間、周りの視線が私に集中した気がした。
一成は学校指定の水着だったけど、流石に私までスクール水着という訳にもいかないので比奈と麗奈と共に買い求めたものだ。
白を基調とした生地に水色で花の模様が描かれたビキニ。と言ってもお腹はあまり出さず、上はフリルになっており腹部まで裾がある。下も同様にふわりと広がるスカートタイプだ。
髪は左右に二つで纏め、前髪には“いつものように”雪の結晶を模ったヘアピンをしている。
(あれ?自分では変じゃないと思ったんだけど…)
未だ離れない幾つかの視線を背に受けながら、私は水を掻き分け一成の元へ歩いて行く。
すると一成は顔を赤くしたまま呆然と私の…胸元を見ていた。
「何処見てるの…」
「へっ!?いや…。って、冬華ちゃんこそ何なのその水着は!」
「何って…変かな?」
「え!?ううん!そんなことない!すっごく可愛いよ!!」
「そ、そう…」
(恥ずかしげもなくよく言えるわね…)
互いに顔を赤くしたまま俯き向かい合っていると少し高い波が私達を襲った。肩が浸かるか浸からないかの波だったのだが、一成の表情が一変する。
「おおお、溺れる…」
「いや、足着いてるから。」
一気に顔を青ざめた一成にぷっと吹き出しそうになるも、私は彼の両手を取る。
「まずはバタ足からね。浮き輪があるから溺れはしないけど、私の手を放さないでね」
「う、うん…」
ゆっくりと私は一成の手を引き浜辺から遠ざかる。それに合わせぷかぷかと浮き輪で浮かぶ一成はバタ足をした。
「上手だよ!その調子!」
度々そんな声を掛けつつ、私は浜辺に近づいたり遠ざかったりを繰り返し、一成が水に慣れるようにしていった。しばらくした後、私達は浜辺へ上がった。
「つ、疲れた…」
「水を怖がってた割には上手だったよ、バタ足」
浮き輪を持ったまま浜辺に座り込んだ一成の隣に座りそう言えば、一成は少し頬を染めると言い難そうにしながらも口を開いた。
「それは…冬華ちゃんが手伝ってくれたからだよ」
「え…」
少し鼓動が跳ねる。いつもなら何という事も無い台詞なはずなのに、今日はやけに…その、色っぽく感じた。
(声が少し低い…からかな?あ、もしかして声変りしたの!?)
最近一緒に居る時間が減ったから気付かなかったが、一成の声は昔より低い気がする。
戸惑いを隠せずにいると、近くで足音が聞こえ振り返ってみると見知らぬ男性が三人此方に歩いてくるのが見えた。
三人共に肌が日に焼け黒く、金髪や茶髪をしていた。耳や鼻にもピアスをした彼らはいかにもやんちゃしてますという人たちだった。
「ねえ…君、高校生?」
三人並んで立つ中、真ん中にいた金髪の人がしゃがみ込むと私に顔を近づけてきた。
「いえ…中学生ですけど…」
「中学生!?うっわ、めちゃくちゃ大人っぽいね!」
私達は中学三年だ、半年ちょっとしたら高校生になる。それが何だという訳では無いが、よく見れば彼らもまだ大人にしては幼げな印象を受けた。
(この人達…高校生なのかな?…というか、これってもしかしてナンパ?)
人生初のナンパだったけど、何の感情も抱かなかった。
「ねえ君さ、俺らと遊ばない?」
「そうそう、一人で遊ぶより大勢の方が楽しいでしょ?」
前言撤回。こいつらに対しての感情は…怒りだ。
明らかに目に入る位置に一成がいるはずなのに、彼らはそれをまるで居ないかのように扱った。最早、私の中には彼らに対して嫌悪しかない。
「遊びません。連れならちゃんといますから!」
そう言って一成の手を掴み立ち上がらせ、彼らを押し退けるようにして歩き出す。
「え~?そんなこと言わないでさ、俺らと遊ぼーよ」
だけど通り過ぎようとした瞬間、左端に居た茶髪の男性が私の腕を掴んだ。
それすらもイラッときたのだが冷静にその人を見上げた。
「放してください。あまりしつこいと警察呼びますよ」
流石に睨み付けるのは避け“睨み付けるような”勢いで見上げてやった。
すると腕を掴んでいた男は眉を吊り上げると大声で叫んだ。
「調子にのんなよ!!」
男が声を荒げる。
けれど泳ぎの練習をしている内、いつの間にか浜辺の端の方まで来てしまっていた私たちと三人の男以外、そこに人はいなかった。
遠くに見える人影も、ちらちらと見る程度にしかこちらに注目していなかった。
(ナンパ男って理不尽すぎるわ。自分から誘っておいて無視されたり拒否されるとすぐに怒りに任せて暴力に走るんだから)
掴まれた腕に痛みが走る。男はもう片方の手を振り上げると私を殴ろうとした。けれど私の腕を掴む男の手を逆に利用し、振り上げられた男の拳の前にその手を突き出してやった。
やり方は簡単。掴まれた腕を振り上げられた拳の降下地点に彼の手が来るように動かすだけ。
殴りかかってきた男は真っ直ぐに私の顔を目掛けて振り下ろそうとしていた。なので動かす地点は―――
(顔の前ってね!)
私が腕を動かした事に呆気に取られる男だったが、既に振り下ろした拳は止まることなく自分の手を殴る。
「痛ってぇー!?」
男が自分の手を殴り、その痛さに情けない悲鳴を上げて蹲る。私はというとその男を見下ろし掴まれていた腕に残る男の感触を消すように何度も擦った。その間、約数秒だ。
(自慢じゃないけど、私のお祖父ちゃんは元オリンピック代表空手選手なの。小さい頃からその稽古を見ていた私にとって、その拳が重いか軽いかの違いは一目見ればわかるのよ!)
蹲った男を見た瞬間に怖気づいたのか残り二人はオロオロしていた。私はふんっと鼻を鳴らしてそいつらに背を向ける。
「行くよ、一成くん」
「……。」
蹲る男を振り返ることなく立ち去ろうとしたのだが、手を握っていた一成が動かない事に気付き振り返る。其処には握られていない方の手を強く握りしめ、俯く一成の姿があった。
「どうし――――危ない!!」
声をかけようとして、私は咄嗟に一成の手を引いた。
その瞬間、何かが耳元をかすめ空気を切る音がすぐ側で聞こえた。
「っ…」
「冬華ちゃん!!」
悲痛な叫びを上げる一成を背に庇う形で目の前の男と対峙する。先程まで蹲っていた男がもう立ち直ったのか拳を構えていた。
「額が…っ、赤くなってる!?」
一成の声に反応するように、チクリと額が痛んだ。
私が見たのは男が矛先を一成に向け、殴ろうとする所だ。
咄嗟に手を引いて避けたけど、男の指にはめられていた指輪が少しかすってしまったようだった。
「中学生の分際で…」
男の目は据わっていた。隣にいた男たちも尋常ならね怒気に驚きを隠せない様子で固まっていた。
一気に張りつめた空気に、私は短く息を呑む。その時、殴ってきた男の手に見覚えのある物を見つけ私は気が付けば叫んでいた。
「それ…返して!!」
いきなり手を伸ばした私に誰もが驚く中“それ”を持っていた男は私の手を避けると、不適に笑み手元に視線を落とした。
「へぇー…これ、大事なもんなの?」
「っ!!」
手のひらで乱暴に転がす男に、私は悔しくて唇を噛む。
「…そんなに大事なんだ。」
私の態度は男を煽ってしまったようだった。彼は笑みを消すと、それを握り締め海の方に体を向けた。
「やめてっ──!!」
顔から血の気が引いていくのが分かった。でも男は私の制止に聞く耳を持たず、振り上げた手を一気に振り下ろす。
それと同時に手の中からキラキラと光る“雪の結晶”の形をしたヘアピンが沖の方へと飛んでいった。
遠くでポチャンッと音がした。その瞬間、私は力なくぺたんと砂浜に座り込む。
「あーあ…あれじゃ、見つからないだろうな?あはっ!ははは!」
顔をわざと近づけて笑う男に、最早睨みつける力も無かった。
(あれは……お母さんがお父さんに初めて貰ったプレゼントなのに。…亡くなったお母さんが…一番大切にしていた物なのにっ!)
怒りなのか悲しみなのか分からなかった。でも込み上げる荒ぶる感情に、私の目からは涙が零れそうになる。
(お母さん…っ)
グッと拳を握り締め私が男を叩こうと手を振り上げたその時。
「僕が探してくるよ」
私の手をふわりと包み、男から私を守るように立った一成が優しげな笑みを私に向けていた。
「一成くん…?」
「僕が見つけて冬華ちゃんに返すよ。だから、泣かないで?」
良い子良い子と私の頭を一撫でした後、一成は浮き輪を手に海の中へと歩いていった。
「一成くん、待って!」
───お母さんが亡くなってもうすぐ1ヶ月になる。ううん“まだ”1ヶ月しか経っていない。
一成はその事も、ヘアピンの事も知っている。
そして私が皆から離れた理由の一つがそれだということも多分気づいていたのかもしれない。
「こんなに広い海の中で見つかるわけないだろ?馬鹿じゃないのか?」
馬鹿にしたように笑いながら一成の背を見る男の横を通り過ぎ、おまけで振り向き様に男を睨み付け、私はもうずいぶんと遠くまでバタ足で泳いで行ってしまった一成を追いかけた。後ろで未だ嫌味を叫ぶ男は無視で。
(結構遠くの方に投げたから…深い場所まで流されてないと良いんだけど)
クロールで一成の元まで泳いでいく。
その時、空が少し光った。気が付かなかったが空の雲は黒く、広範囲に広がり空を埋め尽くしていた。光ったのはその中でも一番黒く厚い雲だった。
嫌な胸騒ぎがする中、私は一成の浮き輪に手を掛けた。
「一成くん、戻ろう?何だか天気も悪くなってきたし、波が高くなったら私でも泳ぐのはキツイから、ね?」
「でも、まだ冬華ちゃんのヘアピンを見つけてないんだ」
「それは……いい、から。」
「良くないよ」
声を荒げるでもなく冷静に叱った一成を見る。真剣な表情で海の中を見つめ、一成は諦めの色を微塵も見せていなかった。
「あれは冬華ちゃんにとって、とても大事な物でしょう?だから絶対に見つけなくちゃ…」
「一成くん…」
その気持ちだけで十分だった。
確かにあのヘアピンはどんな物よりも一番大事な物だ。私も諦めずに隅から隅まで探したい。でも先程から感じる胸騒ぎが、早くここから離れろと告げている。
「ヘアピンはまた探しに来ればいいよ。とりあえず今は戻ろう…?」
「でも…!」
一成が声を上げようとした瞬間、光の線が空を駆け、激しい音が鳴り響いた。
「きゃっ!?」
それが雷だと知った時には、既に大雨が降り注ぎ私たちに容赦なく襲い掛かった。
小さな波紋を幾つも広げる海はまるで太陽が隠れた空の色をそのまま映しているように黒かった。
(予感的中?…胸騒ぎはこれだった?)
「……。私が浮き輪を引きながら泳ぐから、一成くんもバタ足を止めないで」
「え…?」
一成の身に付けている浮き輪に付いていた紐を手に彼の前に出た私を、一成は不思議そうに見る。
「今ならまだ降り始めたばかりだから波もそんなに高くないはず。だから急いで浜辺に戻るよ!」
「うん、分かった」
ヘアピンも大事だけど、今はそれよりも自分たちに命の方が大切だ。
やっとバタ足で泳げるようになった一成と、泳げるとはいっても授業で習った程度の泳ぎしか出来ない私では波に呑まれたらひとたまりもない。
ゆっくりではあったが私たちは泳ぎ出した。視線の先では海の家に避難する人達の姿が小さく見えた。
(ん?…小さく?)
泳いでも泳いでも一向に近づかない浜辺に、私達は波に流されていることに気づく。
「冬華ちゃん、僕たち流されてるね」
「うん…でも、泳ぎ続けてればきっと何とかなるよ!」
それは一成を元気づけようとしたというよりも、自分に言い聞かせたような言葉だった。
もし今、波に流された場合の対処法を知っていたら少し不安は薄れたかもしれない。
でも私達にそんな知識はない。
(どうしよう…っ)
その時だった。私たちの方に泳いでくる二つの人影に気づく。
一人はライフセイバーのジャケットを着た大人の男性。もう一人は信也だった。
「冬華!一成!」
「信也くん!」
私達の側まで泳いできた信也はホッとしたように息を吐いた。
「もう大丈夫だよ、すぐに浜辺に戻ろう」
「はい!」
ライフセイバーの男性は安心させるように笑った。それにつられるように不安が薄れた。
ライフセイバーさんは浮き輪を持った一成の方を優先的に引っ張っていった。
私がそうして欲しいと頼んだからというのもあったが、一成よりも泳ぐ事が出来るという自負もあったからだ。
そんな私の側には信也が付いてくれた。
ライフセイバーさんに止められたらしいが、心配して来てくれたようだった。
「波が高くなってきているから、僕の側を離れず泳いでね!」
ライフセイバーさんの言うとおり波は荒れ始めていた。
それに加え雷が鳴り、雨も止むことを知らず激しく降り続いていた。
「大丈夫か、冬華?」
「うん、平気…」
途中止まっては私を気にしてくれる信也に微笑みつつ、私は重くなる足を一生懸命動かした。
(流石に一成くんとの練習後に泳ぐとなると、凄く疲れる…。手も重くなってきたっ)
必死に泳ぐ私達は、この時背後から迫るものに気付かなかった。
最初にそれに気付いたのは、一成だった。
「皆、後ろ!!」
一成の声に誰もが振り向く。そこには手慣れたサーファーなら大喜びしそうなほど、高く大きい波が私達に迫っていた。
誰もが茫然とそれを見つめたまま動けなくなる。
「みんな大きく息を吸って、僕に掴まって!!」
波が迫る直前に聞こえたライフセイバーさんの声にハッと我に返る。
見れば一成を浮き輪ごと抱き寄せ、信也と私にもう片方の手を伸ばすライフセイバーさんがいた。
先に近くにいた信也がその手を取る。
「冬華!」
信也がライフセイバーさんに掴まったまま私に手を伸ばす。
「っ!!」
少し水を飲み込んでしまいながらも大きく息を吸い、水を掻き信也の手に自分の手を伸ばす。
次の瞬間───大きな波は私達を飲み込んだ。
渦を巻くようにして海水が私をどんどん海底へと引きずり込んでいく。
激しく揺さぶられるように、沈んでいく身体。
“何も掴むことが出来なかった手”で必死にもがくも、海水はまとわりつくようにそれを邪魔する。
───ゴポッ…ゴポッ……
苦しさのあまり口を開いてしまえば、空気が泡となり幾つも上っていく。
(このままじゃ…!!)
今まで瞑っていた目を薄く開き見たのは上っていく空気の泡。
(私も…上に…っ、戻らなきゃ!行かなくちゃ!!)
死ぬのは嫌だ。
その意志だけが強く胸を打つ。ドクドクと速まる鼓動と共に、私は重い腕や脚を必死に動かし上へと泳ぐ。
その途中、珊瑚礁と海底の岩で出来たアーチ状のトンネルを潜った。
すると突然身体が軽くなりすんなりと水を掻きながら上へと上っていけた。
その事を不思議に思うことなく泳いでいると、ゆらゆらと光を反射しながら揺れる海面が見えてきた。
(これで、助かる!)
私は手を伸ばすと最後の一掻きを終えた。
『ぷはっ!!』
勢い良く海面から顔を出す。
新鮮な空気を肺に送り、逆に中に溜まっていた海水を吐いた。
『ゲホッ、ゲホッ!…な、何とかなった』
深く深呼吸を繰り返した私は、霞む視界で一成や信也たちを探した。
だけど、目の前に広がる光景に…私は只々見つめる事しかできなかった。
『どういうこと…?』
青い空に広がるのは白い雲。目の前には白い砂浜と少し高めの崖。
そしてその上には森林が続き───巨大なお城のような建物が建っていた。
『あんな建物なかったよね…』
とりあえず浜辺まで泳いでいくも、そこは周りを崖に囲まれた一種の孤島のような場所だった。
『海の家とかも無くなってる…。それよりもまず、天気が晴れてる?』
空を見上げれば太陽が輝いており、私はその眩しさに目を細めた。
『とにかく…一成くんたちを探そ、う…』
もう一度海に入り迂回すれば違う浜辺に行けるのではと考えた矢先、一つの影が海から上がる。
しかしそれはどう見ても“人”ではなかった。
見た目はザリガニのような体に珊瑚に似た殻を被ったヤドカリらしいが、その大きさは私より二倍は大きいまさに怪物だった。
「ギシャアァー!」
『きゃあー!!?』
変な奇声を上げるとヤドカリ擬きは私の方に一直線に歩いてきた。
その小刻みに素早く動く足の動きといったらもう!…凄くキモかった。
『こっち来ないで!!』
逃げようとするも足は動かずその場にへたり込んでしまう。
もうダメだと。私はこんな辺鄙な場所で変なヤドカリ擬きに殺されるのか、と。
目を瞑った瞬間、激しい音と共にヤドカリ擬きの足音が止んだ。
恐る恐る目を開けてみると、そこには頭に銀色の刀身をした剣を刺されピクリとも動かないヤドカリ擬きがいた。
『何が…起きたの?』
呆然と誰に言うでもなく言った言葉だった。でもそれに返答した人物が、私の側に立っていた。
「アレは此処ら一帯に生息する魔物だ」
一番最初に目についたのは───太陽のきらめく光を受け輝くサクラ色の髪だった。
白のブレザーに灰色のズボンと黒の靴。ネクタイは水色の如何にも学生な服装だったが、ただ一つ。普通ではない点があった。
彼の腰にはヤドカリ擬きの頭に刺さる剣を収めていたであろう黒い鞘が差してあった。
それだけじゃない。胸元で金具を留めた外套を羽織っていた。
「大丈夫か」
たったその一言には心配するような感情も、気遣うような感情すらも含まれてはいない。
けれど私はその言葉に安心したかのように鼓動が穏やかになっていくのを感じた。
(えっと…服装は変だけど…助けてくれたってことかな?てか、ホントに何あの服。何かのコスプレ?)
初対面の相手に失礼だとは思ったけれど、疑問に思わずにはいられなかった。
「お前…見たことも無い服を着ているな」
(え、それは私の台詞なんだけど…)
互いに不思議そうな視線で見つめ合っていると、目の前の少年はスッと手を差し出してきた。
「立てないのか?」
『あ、ありがとう…ございます?』
とりあえず立つことにする。
私は差し伸べられた手を取ろうとしたのだが――――
「『!!?』」
私と彼の手が触れ合うと思った瞬間、私の手は彼の手に触れる事なくすり抜けてしまう。
いや、むしろ逆だったかもしれない。彼の手がすり抜けたのかもしれない。
状況が把握できず固まっていると、ふと目の前の少年の変化に気付く。
目線を上げ彼の顔を見れば、血の気が引き青ざめた表情で自分の手を見つめたまま身体がガクガクぶるぶると震えていた。
『あ、あの…?』
「ぎゃああああああ!!!?」
突然悲鳴を上げたかと思えば、少年は直立不動のままパタリと一枚板のように浜辺に倒れた。
『きゃー!?何!?』
いきなりの事に私も訳が分からず悲鳴を上げてしまう。
『ちょっ、大丈夫ですか!?』
側に膝を着き少年の顔を覗き込もうとした瞬間、彼の目がパチッと目を開き私と目が合う。
「オ、オバケェエエエー!!?」
『は…?』
飛びずさるように少年はものすごい速さで後ろに下がると大きな音を立ててヤドカリ擬きの殻にぶつかる。だがそこで終わりでは無く、少年はそのまま殻の中に入っていこうとまでした。
私の方を怯えるようにして見つめながら。
こうして私は――――少年『ハル・ヴァインセッド』と出会ったが、彼の第一印象は言うまでも無く。
――――最悪だった。
ここまで読んで下さり、ありがとうございます!