Ⅷ
Ⅷ
ユースチアンを背負い、ジュドはセラフィムとシンの後を追う。
「……どうなってんだ、これ」
そして、閑散とした中央通りを見遣った。
アーサーシーエンの王都、ヴァリキュアラ。王族や貴族、近衛兵の他に、裕福な一般民や商人が多く、商業、観光の中心地である。
だが――数か月前に訪れた時とは、街は明らかに様子を変えていた。
白煉瓦の家と商店が立ち並び、本来なら人で賑わって居る筈の中央通りは、人影どころか、僅かな人の気配もしない。
「―――ジュド」
「ん?」
「あれ見ろ」
セラフィムは、通りの先を指差す。ジュドは目を凝らし――――
「……彼奴……」
白い布の塊のようなものを従えた―――モルネイを見付けた。
「何で、」
「偽物だ。多分―――秘鍵に、完全に取り込まれたんだ」
セラフィムは苦い顔になり、ジュドの前に出る。モルネイ―――否、青年はふらりと一歩踏み出すと、顔を上げ、セラフィムを見る。
「―――開戦、かな」
セラフィムは苦い顔で呟く。同時に、青年が口元を、邪悪な笑みの形に歪めた。
青年の顔には―――左目に重なるように、十字架の刻印が刻まれていた。
「ジュド、お前とユースチアンは、シンと逃げ――――」
「嫌だ!」
がっ、とジュドはセラフィムの肩を掴む。
「セラフィムは、速いだけで、飛べないだろうが。俺が居なかったら、相手が空に逃げたらどうする」
「……そうか」
セラフィムは苦笑し、秘鍵を握った。そして、緑の親鍵を右目の鍵穴に向ける。
「【速さのガブリエル】―――解放」
ドウッ! と、セラフィムの周囲に魔力のオーラが現れる。それと同時に、青年は手を振り上げた。
「……そろそろ、かな」
空を見上げ、『回帰』は呟く。
「―――行こうか、皆」
風が『回帰』を撫で―――その姿がばらける。風が去った後には、『聖ロト・クライスト・スカルラットの湖』を囲む山の稜線に、十の人影が現れていた。
「ナギ・ツヴァイ・スカルラット」「居るよ」
「ルート・ドライ・スカルラット」「居る」
「アイン・フィーア・スカルラット」「居るー」
「ダン・フュンフ・スカルラット」「居るぜ」
「ロス・ゼクス・スカルラット」「居ます」
「スィア・ズィーベン・スカルラット」「はいはい」
「スフィア・アハト・スカルラット」「ああ、居る」
「カイト・ノイン・スカルラット」「居るが」
「ツェーン……スフ・エルレ・スカルラット」「はいはい、居ますよ」
「よし」
点呼を取った青年は、持っていた本を閉じ、一同を見回す。
「俺達の狙いに、秘鍵―――ドグマが気付いたらしい。今し方、エルフと接触した感触が在った。少々予定は狂ったが、ヴァリキュアラに向かう」
青年はそして、猫目の少年―――ダン・フュンフ・スカルラットを見遣る。
「フュンフ。召喚陣の準備は」
「こっちは完了してる。けど、セラフィムは戦闘中みたいだぜ。期待しない方が良いと思うが」
「……フィーア」
青年はガリガリと頭を掻く。フィーア、と呼ばれたのは、フードのように布を目深に被り、大きな垂れ目を眠そうに瞬かせる少女だった。
「……準備は無理だろうけどー、セラフィムならー、一人の『与えられし者』くらいー、すぐに倒せるよー。あの子強いしー」
「……だが、もう時間が無いんだ」
青年は腕を組む。
「彼が完全に『鍵の守り人』として―――私たちの一員として目覚めてしまったら、きっと、悲しむ人が居るからね」
「ジュド君やユーちゃんだろ? 説明すりゃー良い」
中年の男……カイト・ノイン・スカルラットが言うが、スフが何か言いたげな顔になる。
「まあいい。どうせ、じきにツヴォルフが生まれる。すぐに移動しよう」
青年はそして、魔法陣を書いた紙を地面に並べた。と―――
最後の紙を置いた瞬間、魔法陣が青白く輝く。青年は一瞬驚いた顔になったが、すぐに微笑んだ。
「どうやら、歓迎されているようだね」
魔法陣の上に立ち、青年は他の九人を振り返る。
「さあ、行こう」
そして青年は、微かに悲しげに目を細めた。
「『鍵の守り人』、最後の仕事だ――――やっと、彼女に逢える」
セラフィムは路地を左に折れた。ユースチアンを背負ったジュドが、必死の形相でそれに続く。使い魔を従えた青年が、間も無く路地に飛び込んで来た。
「セラフィム、何処に!?」
「人の居ない所だ! せめて王宮前広場に!」
セラフィムはジュドの手を掴んだ。【ガブリエル】の力が作用し、ジュドの速度も上がる。
「秘鍵も……いつまで俺に味方してくれることか」
苦い顔で呟き、セラフィムは木箱を飛び越える。
「やっぱり、敵、秘鍵なのか?」
「多分な。俺の目的がばれたか」
「あの、何だっけ、槍? は?」
「ロンギヌスの槍か。いつでも準備は在るんだが―――」
セラフィムは、息が上がり始めたジュドから秘鍵の力を外してやる。そして、ユースチアンを引き受けた。
セラフィムは路地から広場へと出ると、足を止めて相手を振り返る。
「来い――――『与えられし者』」
セラフィムは、左手に秘鍵の束を、右手にユースチアンを取り、相手を待ち構えた。
赤黒い、秘鍵の魔力を纏った青年が現れる。セラフィムはゆっくりと唇を舐めた。
「―――『儀式をすべきは天に近き場所』……早いとこ、あの街に上らなきゃなんだよ。ロトの誓いは知ってるだろう、大人しくしてくれ、ドグマ」
セラフィムはユースチアンを地面に下ろす。
青年が手を振り下ろした。瞬間―――
ヴァリキュアラ上空に広がっていた暗雲から、雷が降ってくる。
「いっ!?」
流石にセラフィムも驚いた顔になり、咄嗟に秘鍵を選択できなかった。爆音が空気を切り裂き、煉瓦敷きの地面が派手に揺れる。
「セラフィー!」
ジュドは悲鳴にも似た声を出した。土煙と、何かが焦げる臭いがする。
「……え?」
が―――白煙が上がる落下地点には、無傷のセラフィムの姿が在った。これには、青年が怪訝そうな顔をする。
「危なかったな……『回帰』に感謝するか」
言って、セラフィムは頭上に掲げていたものを下ろす。
それは―――ユースチアンが身に着けていた腕輪だった。【イスカリオテ】を抑え込む為に腕輪に籠められていた魔力が、セラフィムを守ったのだ。
「成程、ドグマお前―――サディムを滅ぼしたあの日のように、またこの世界を滅ぼすつもりか」
青年は答えない。
「お前は神に使われるだけの存在だろう。黙っていれば、迎えに行ったものを」
セラフィムは、赤い親鍵と緑の親鍵を掴む。
「【力のルシファー】、【速さのガブリエル】―――連携解放」
セラフィムは右手を矛の形に―――人差し指と中指だけを立てた形に―――して、青年に向かって振る。指先から迸る青白い魔力が、電撃となって空間を切り裂き、青年に向かった。青年は使い魔を盾にし、セラフィムと距離を取る。
「っ!」
セラフィムは弾け飛んだ使い魔の残骸を払いのけ、急速に青年との距離を縮める。が、青年はセラフィムに向かって雷を放ち、強制的に離れさせた。
セラフィムは雷を避けて大きく後方に跳び、ふっ、と短く息を吐いた。
青年は、空気中の塵からまた使い魔を生成する。その左目に刻まれた十字の刻印は、赤黒く発光していた。
「――不味いな」
セラフィムは、自身の、青白く発光している十字の刻印に触れる。
「ユースチアンに続き、此奴もか―――助けないと」
セラフィムはそして、ぐっ、と青年を睨む。そして、青い親鍵を握りしめた。
「【自由のアザゼル】―――頼む」
セラフィムは、矛の指先を青年の額に向ける。
「応えてくれ」
青年が空中に手を突出し――その手に、黒い剣が収まる。セラフィムは動かず、距離を詰めてくる青年を睨み続けた。
果たして―――花火のような音と共に、青白い光が放たれた。その光は青年の額を貫き、青年は走っている途中で地面に崩れ落ちる。
「やったか……」
セラフィムは安堵の息を吐き、青年に駆け寄る。眠っているような青年の顔から、十字の刻印は消えていた――――が。
「……あ……?」
鋭い痛みがセラフィムを襲う。間も無く、セラフィムの口から、冗談のように赤い鮮血が溢れ出した。
「―――相変わらず馬鹿だな、『咎を背負いし神の子』よ」
青年が、セラフィムを押しのけて立ち上がる。セラフィムは胸を押さえて蹲った。
その胸は―――青年の黒い剣に、貫かれていた。
「そして愚かしい。ドグマは『神』に使われるのではない。我らドグマに使われ、我らの器となる者こそが、『神』なのだ」
青年の手の甲に、十字の刻印が浮かび上がる。
「貴様ら人間も、ラケルも。我らの道具に過ぎぬ」
セラフィムは口を押えて激しく咳き込んだ。胸の傷と口から、血が噴き出す。
「お前も『与えられし者』だろう。この男も『与えられし者』だった。だがお前もこの男も、秘鍵の力は己の力だと過信して―――お前は『鍵の守り人』となり、この男は身分を偽って王子となった。根本的に、人間らしい愚かさは変わっていない」
ジュドがセラフィムに駆け寄り、セラフィムを庇うように立って青年を睨む。が、その顔は恐怖に縁取られ、体は小刻みに震えていた。
ジュドにとってセラフィムは、誰よりも強く、誰よりも優しい、全てである。そのセラフィムが今、殺されようとしているのだ。
「セラフィム……」
ジュドはセラフィムの顔を覗き込み―――戦慄した。
「もう何も……感じない……怨嗟の声も炎も……何も見えない……」
セラフィムの顔は―――酷く人間臭い、歪んだ笑みを浮かべていた。
「くっ……は、はははははははは! はははははははははははは!」
そしてセラフィムは、天穹を仰いで哄笑する。
「終わったんだ……やっと、代替わりだ……やっと死ねる……俺は、」
セラフィムは、血塗れの右手を空に翳した。そして、泣きそうな笑みを零す。
「俺は―――人間だ」
セラフィムを見上げ、ジュドは困惑したような顔になる。セラフィムはジュドを見遣り、優しく、震える体を抱き寄せた。
「……ごめん、な」
セラフィムはジュドの耳元で囁く。
「約束、守れなくて……お前、一人にして、ごめん、な」
じわりと、セラフィムの血がジュドの服に染み込む。
「――――っ……」
セラフィムの体に手を回し、ジュドは涙を目に浮かべる。セラフィムはジュドの頭に手を遣り、目を閉じた。
「後は頼んだ――――皆」
かふっ、と、小さな咳と共に血を吐き出し―――セラフィムは動かなくなった。
ロトは羊皮紙を机に広げ、その両脇に魔法書を積み上げる。
「神の召喚……神の召喚……ドグマの奪取……あー!」
ロトは頭を抱える。その様子を近くのソファから見、姫は呆れたような顔になった。
「断っちゃえば良いのに。私がお父さんに言おうか?」
「撤回しねぇよ、あの人は」
きっぱりとロトは言う。
「……少し寝たら? 酷い顔色だよ?」
「……んじゃそのソファ貸してくれ」
「はいはい、どうぞ」
姫はソファの端に寄り、自分の太腿を叩く。
「………………」
これは冗談なのだろうか、とロトは暫時悩んだが―――結局、厚意に甘えることにした。
ソファに寝転がり、ロトはぼんやりと姫を見上げる。姫は、珍しく良い笑顔を返してきた。
「……なあ姫様。俺変わったかな?」
「どうだろうね」
「……神様とドグマについて、姫様、どれくらい知ってる?」
「ドグマは確か、命を創る箱を開く為の鍵で、世界の秩序を保つ為に必要なんだよね? で、神様は、それを使える、唯一無二の人」
「……それに俺がなれるとか思うか?」
「全然」
「酷ぇ」
答えつつも、ロトは笑う。姫らしい答えだ。
「神様は確か、とっても孤独な存在なんだって」
「へぇ?」
「神様になって命を扱うことは、とても罪深いけど、誰も、神様を裁いてはくれない。だから神様は、ロンギヌスの槍、ていう、神殺しの槍をいつも持っていて、その柄を差し出しているんだって」
「……殺せってか」
ロトは目を閉じる。姫はロトの頭に手を遣り、天井を仰いだ。
「寂しいんだよ、神様も」
姫は、すぐに寝息を立て始めたロトに苦笑する。
「だから―――ロトが神様になったら、私はやだなぁ」
そんな姫の言葉も、既にロトに届いては居なかった。
長い夢を見ていた気がする。
否、夢ではないと分かっている。だが、目を覚ませばまた、あの姫が隣で笑っているのではないかと―――全て、自分の悪い夢なのではないかと、願ったことは在る。
だが、これは現実だ。
姫が死んだのも、サディムが滅びたのも、自分が自我を見失って分裂したのも、自分が人間を辞めてしまったのも―――全て、どうしても否定できない事実だ。
過去を変えられても、自分が生まれなかったことにはならない。
どれ程償っても、失われた命はもう戻らない。
ならばせめて―――偽りを重ねてみよう。
嘘を塗り固めて、いつか、その嘘が現実となるまで、孤独を紛らわして居よう。
それがきっと―――生き残ってしまった自分の、運命なのだろうから。
「―――ご苦労様、セラフィム……ごめんな」
魔法陣に降り立ち、青年は、並べられた紙の前に立つ少年を見遣る。
黒猫の獣精の、亜人のようだ。が――その中に存在する真名に、青年は見覚えが在った。
「お前が協力してくれるとはな」
「ユースチアンを助けてくれ。それをしてくれるなら、手を貸そう」
「良いだろう」
青年は少年に手を差し出す。少年は手を握り―――その姿が、急速に変化した。
黒かった髪は色が抜けて中途に長くなり、白い肌は小麦色に焼ける。目だけは変わらず金色で―――間も無く、セラフィムが『神』と呼んだ男―――ラケルが、其処に立っていた。
「セラフィムが死んだようだ」
青年が言うと、ラケルは微かに目を見開く。
「そうか……ユースチアンを助けるとか言っておいて、自分は先に死ぬのか」
「あの子はまだ若い。死ぬには惜しいし、死なせたくない―――ユースチアンは、あの子自身に救わせるよ」
青年に続き、他の『回帰』の面々が現れる。そしてラケルを見、皆驚いたような顔になった。
「皆、聞いて欲しい。確かにラケルは、私達が秘鍵を返還すべき『神』で―――つまり、味方では無かった訳だが。利害が一致した。彼もドグマに振り回された被害者だ、協力したい」
青年の言葉に、『回帰』達は顔を見合わせ、頷いて承諾する。
「ツヴォルフは?」
「連れてきました。聖痕を刻めば『鍵の守り人』の代替わりが完了します」
右目を十字架が描かれた布で隠している青年、ロス・ゼクス・スカルラットが答える。
「――行こうか。広場に」
青年の言葉に、一同は頷いた。
「この世界は滅んだんだね」
灰色の世界を見渡し、ユースチアンは呟く。
「私達が住んでいる―――生きている世界は『仮初』に過ぎなくて。これが、じゃあ、この世界の本当の姿なんだ」
「そうだよ。全部死んじゃったの。ロトが神様になろうとしたから」
少女―――【イスカリオテ】はユースチアンの隣に立ち、ユースチアンを見上げる。
「それでも、嘘の中に帰りたい?」
「………………」
ユースチアンは目を閉じた。
「ロトの記憶は見せたよね? ロトが悪いんだよ。人間なのに、神様になろうとして、なり損なったんだ。だから、サディムは滅んだ」
言って、【イスカリオテ】は灰を蹴りあげる。
「『鍵の守り人』なんて、嘘吐きばっかり。私達ドグマは、神様がちゃんと神様になれるようにしてあげるだけなのに。あんな奴ら、皆死んじゃえば良い」
「私はそうは思わない」
ユースチアンは【イスカリオテ】を見る。
「だって。ロトは、自分が滅ぼした人間を、また生み出した。それは神様として、正しいんじゃないの?」
ユースチアンはそして、灰色の世界に視線を移す。
「少なくとも私は―――こんなつまらない世界より、いろんな人がいろんな場所でいろんな風に生きている世界の方が、ずっと面白いと思うけど」
「……人間なんか居なくても、この世界には、飛竜が居る。走竜が居る。水竜が居る。獣精が居る。神族が居た。賑やかだよ、十分」
「―――かもね。でも、」
ユースチアンはそして、【イスカリオテ】の前にしゃがみ、その目を睨み付ける。
「例え嘘でも、私達人間は今、此処で生きてる。それを、言葉だけの存在にしないで―――私達を、嘘の存在にしないでよ」
ユースチアンは【イスカリオテ】の肩に手を乗せた。
「消えたくない気持ちはわかるよ。でも、私達人間だって同じだよ。だから―――」
ぐっ、と、ユースチアンの手に力が籠もる。
「貴方は行かせない。此処で、『鍵の守り人』が回収しに来るのを待つから」
ユースチアンの言葉に、【イスカリオテ】は苦い顔になった。
魔法陣を床に描き、本を片手に呪文を唱える。ロトはちらりと、壁際に立つ国王を見遣った。国王は腕を組み、ロトに頷いて見せる。
ロトはぱたりと本を閉じ、両手を広げる。
「降臨せよ―――選ばれし神、ラケルよ」
そして言った、瞬間―――
床に刻んだ魔法陣が、鮮やかに輝いた。神殿の円形の広間全体が照らされ、壁に空いた六つの穴にもその光が行き渡る。天蓋の窓からは、穏やかな午後の陽ざしでは無く、強烈な魔力を纏った光が差し込んでいた。
「――――っ!」
ロトは咄嗟に、魔法陣の中央から飛びのき、ローブの袖で目を庇う。その行為が遅れた数人は、既に視力を奪われ、目を押さえて蹲っていた。
「誰が私を呼んだ」
重々しい声がする。声だけで空気が震えるその迫力に、ロトは腰を抜かしていた。
「……神……」
国王が、震える声で呟いた。そして、その老いた顔が―――見る見る、歓喜に染まる。
「――――私に、叶えて欲しい願いでも在るか」
神は人の姿を取る。金色の目に褐色の肌、雪のように白い髪の男だった。
「私を呼び出せるほどの魔法使いだ。さぞ立派なのだろうな」
神はそして、じっくりと一同を見回し―――ロトを見付けた。
「お前か」
「ひっ!?」
神が、ロトに近付く。それを見て、国王が動いた。
「待て、神よ。その魔法使いの主人は私だ。つまりお前を呼び出したのは」
「黙れ愚老が」
神が手を振る。その掌から不可視な力が迸り、国王を吹き飛ばした。
「――――っ!」
国王は神の後方の壁に激突し、壁の穴の中でぐったりとする。周囲には鮮血が飛び散り、細い国王の体は奇妙にねじ曲がっていた。
「……は……」
あまりの光景に、ロトの唇が笑みの形に歪む。
あれ程自分を苦悩させた国王が、一瞬で、只の肉塊に堕した。それは途轍もなく滑稽な光景で―――ロトの判断力を、急速に鈍磨にした。
そうだ。あのような愚王など、殺せばよかったのだ。
自分には力が在ったのだから。
「は、ははははは、ははははっ!」
皆が恐怖に震えあがる中、ロトだけは、笑えていた。
「―――貴様に、ドグマを継承しよう」
神が、ロトの顔に手をかざす。ロトはなおも笑っていたが――――
「ひぎっ!?」
突然、声と共にロトの顔が歪んだ。焼け付くような痛みが、右目を襲う。
「あぁあああああああああっ!?」
ロトは右目を押さえてのけぞる。見えていた筈の景色が消え、頭に入りきらない程の情報が、その目から流れ込んできた。
「はーっ、はーっ、はーっ……」
ロトは、痛みの治まった右目に手を遣る。
在った筈の瞳は消え―――眼球には、鍵穴が空いていた。
「これで、『神』は貴様だ」
神は―――神であった男はそして、何かをロトに差し出す。
「これが、貴様らの言う『ロンギヌスの槍』だ」
それは――銀のナイフであった。
がばっ、と、ユースチアンは起き上がる。数日振りの体の感覚に慣れず、手は微かに痺れ、貧血のような眩みを感じた。
「ユー」
「……シン?」
ユースチアンは髪を掻き揚げる。ユースチアンの顔を覗き込み、シンは安心したような顔になった。
「起きたか」
「……貴方は?」
ユースチアンは、自分の傍らに立つ青年を見上げる。
既視感を感じ、ユースチアンは目を細めた。青年はその様子に苦笑する。
「セラフィムを助けに来た。私は初代『鍵の守り人』―――ロトだ」
青年――ロトはそして、ユースチアンの前にしゃがんで微笑む。
「久し振りだね、ユダ」
「……あ!」
思い出した、とユースチアンはロトを指差す。
「真名の……!?」
「そうだ」
初めて、あの無機質な世界に行った際、ユースチアンに真名を与えた青年だ。あの時は目覚めてすぐに忘れてしまったが―――確かに、こんな姿で、こんな顔で、こんな本を持っていた。
「【イスカリオテ】は抑えさせて貰ったよ。礼を言う、大人しくさせておいてくれて」
「あ、いえ……」
「それと―――あと一つ二つ、協力して欲しい」
ロトはユースチアンに手を差し出した。
「君は、銀のナイフを持っているね?」
「え? 何故、それを……」
「必要なものは、巡り巡って、持つべき者の所に然るべき時にやってくるものさ」
ロトはユースチアンからナイフを受け取り、意味深な笑みを浮かべる。
「それともう一つ。この街で最も高い塔は?」
「王宮のものだと思いますけど……」
「其処への道を教えてくれ」
ユースチアンはロトの手を握り、立ち上がった。
「……分かりました」
ユースチアンは、袖の中で手を握る。
「助かる。きっと、世界を救って見せるから」
ロトはそして、優しい笑みを浮かべた。
セラフィムの体を抱きかかえたまま、ジュドは呆然としてその光景を見詰めていた。
あの青年が、自分を殺そうとしていた。確かに――――殺される筈だった。
だが自分は助かった。
「―――大丈夫か、ジュド」
登場と同時に青年を蹴り飛ばし、五代目『鍵の守り人』―――ダンはジュドを振り返った。ダンに続き、六代目、ロスも息を切らせて現れる。
「もうっ、速いですよフュンフ……あれ?」
ロスは、ジュドとセラフィムを見て目を瞬かせる。
「フュンフ……助けなさいよ、エルフのこと」
「悪ぃ任せた!」
ダンは、後退を始めた青年を追って走り出す。もう、とロスは息を吐いた。
「ジュド君、ちょっと良いですか?」
「……!」
ロスはセラフィムの肩を掴み、体を貫いている剣に触れた。
「だ、駄目だ抜いたら血が、」
「分かってますよ」
ロスは笑う。そして剣を引き抜き――――同時に、左手を傷口に押し当てた。
どくっ、と、血が指の間から溢れ出す。が、ロスは顔色一つ変えず、そっと傷口を拭い―――手が離れた傷口は、血が止まっていた。
「起きなさい、エルフ」
優しく、ロスが言った。手が離れた場所に傷は無く、服だけが切り裂かれている。
「ほら、起きて――――起きなさい!」
ロスの掌底が、セラフィムの項を打った。
「ごはっ!?」
セラフィムが呻く。その口から血が吹き出し、セラフィムは激しく咳き込んだ。
「セラフィー!」
ジュドは、しかし、歓喜に顔を緩めた。セラフィムは蹲って咳を繰り返すが、やがて、まともな呼吸を始める。
「げほっ……ふー……」
「勝手に死のうなんて、ズルい子だね、エルフは」
ロスは首に巻いた布で手を拭い、立ち上がる。セラフィムは青白い顔でロスを見上げた。
「まだ最後の仕事が在る。人間で居たいのは分かるけど、ちょっと手伝ってからにして」
ロスは、セラフィムの頭を撫でる。
「さあ、行こうか? 助けなきゃいけない『与えられし者』は、後二人だ」
セラフィムは苦い顔になった。が、嬉しそうなジュドの顔を見、微笑む。
そしてセラフィムはジュドの手を握り、ゆっくりと立ち上がった。
ユースチアンは口に笛を当て、息を吹く。ラナから貰った笛は、涼やかで澄んだ音をだした。
「―――怖いか?」
ロトの言葉に、ユースチアンは首を横に振る。
「大丈夫です」
ユースチアンは塔の上に立ち、王都を見下ろす。
王都からは、一切の人の姿が消えていた。それは王宮も例外ではなく―――
「……あの日への『回帰』が、もう始まっているんだな」
「消えるんですか? 私も―――」
「……消えさせないよ」
ロトは本を開く。
「さあ、最後の戦いだ」
ロトが見上げた空は、どんよりと暗い。ロトは銀のナイフを空に向けた。
「ドグマの中心は、まだセラフィムの元に在るな。だが―――」
ロトはユースチアンの手を握る。
「君の力が欲しい」
「……はい」
ユースチアンは胸に手を当てる。そして、大きなエメラルドの目でロトを見た。
「セラフィムとジュドが、もうすぐ来るよ」
ロトはナイフを振る。振ってきた雷がそれに合わせて曲り、空中で霧散した。
ばさり、と、二人に巨大な飛竜の影が掛かる。
「―――ラナ!」
ユースチアンは飛竜を見上げて微笑んだ。飛竜は塔の上に着地し、ユースチアンに顔を近付ける。
「ありがとう、ラナ。私を―――」
ユースチアンはそして、黒雲を見上げる。
「あの雲の向こうまで、連れて行ってくれ」
ジュドは大きく翼を広げ、旋回する。幾多の雷が、ジュドを掠めて地上に降った。
「頼む、もう少しだ―――ジュド、頑張ってくれ」
任せろ、とジュドは唸る。その背に乗り、セラフィムは雲を睨み付けた。
十二人目の『鍵の守り人』は生まれた。今、『鍵の守り人』達が各々に散り、印を結んでいる筈だ。
後はロトと共に、この秘鍵を―――ドグマを、完成させるだけだ。
セラフィムは、秘鍵の束を握った。そして、黄色い鍵の先端を、前に向ける。
「【癒しのマリア】―――守れ」
ジュドは雷雲に突っ込んだ。が、同時にセラフィムが【マリア】の力でその衝撃を癒し、回復させる。結果―――ジュドは傷一つ無く、雲の上へと辿り着いた。
暗雲の上には――――この世のものとは思えない光景が広がっていた。
黒い雲が地面のように遠くまで広がり、その上には―――『方舟』の街が浮いている。
白煉瓦で作られた巨大都市―――サディムの王都だ。
「……帰ってきたんだな」
セラフィムはジュドの背から、その空中都市を見上げる。
街には既に、他の『鍵の守り人』達の姿が在った。セラフィムは街の外れに降り立つと、ジュドの背を優しく叩く。
「ありがとうな、ジュド」
「……やっぱり、死ぬのか?」
「………………」
セラフィムは微笑み、ジュドの頭を撫でる。
「俺は人間だから。その時が来たら、死ぬ」
セラフィムは踵を返し、表情を引き締めた。ジュドは俯いて唇を噛むが、引き留めることは出来なかった。
規則正しいブーツの音が、人気の無い街に響く。セラフィムはローブを翻らせ、蒼穹を見上げて微笑んだ。
呆れる程に、良い天気だ―――雲の上だから、当然だろうか。
広場には既に、十人の『鍵の守り人』とユースチアン、そして――顔に白い仮面を付けた人影が在った。
「十二番目だ。予定変更により顔が出来ていない」
ロトがそして、セラフィムを中央に呼ぶ。ダンが、背負っていた青年を地面に寝かせて行った。
「この青年に憑りついているのが三本。この雲を呼んだのが三本、【イスカリオテ】は彼女の中に―――秘鍵六百六十六本が、此処に集結した」
ユースチアンは緊張した面持ちで、胸元で手を握る。
「いざ―――百五十年越しの、ドグマの継承を行おう」
ロトは、にやりとして本を開き、その上に秘鍵の束を乗せる。
「我らの願いの為に―――ドグマに、鎮まって貰おう」
「ロンギヌスの槍が、ナイフだって?」
ロトは嗤う。
「何処に槍が在る」
「『ロンギヌスの槍』とは、『神を殺す道具』のことだ。その形状は時によって異なる……嘗ては槍だった」
男はロトの手から本を取り上げ、開いた。本から文字が浮き上がり―――鍵束の形をとる。
「これがドグマだ。お前に継承しよう」
神が本をロトの足元に置く。
瞬間――――
鍵束から、禍々しい光が放たれる。
「――――っ!?」
光、と言うには余りにも魔力を含んだそれが頬を掠り、ロトの左頬に、赤い線が刻まれる。薄暗い広間は瞬く間に、その赤黒い光に包まれ―――瓦解した。
「……始まったか」
「な、何がだ?」
「『神』は唯一無二の存在でなくてはならない」
男はそして、少しばかり悲しげな笑みをこぼした。
「故に『神』の同族は―――悉く、滅びなければならない」