Ⅶ
ここから佳境です。
Ⅶ
規則正しい金槌の音が響き、鉄錆と土の混じったような匂いが、作業場全体に響いている。セラフィムは口元を布で覆った。
「此処が……」
セラフィムがジュドを振り返ると、ジュドは入口に立ったまま、頷いた。セラフィムは周囲を見回し、隅でスコップを担いでいた青年に近付く。
「居た」
セラフィムは、虚ろな表情でトロッコに石を積む青年に声を掛けた。
「―――モルネイ・ジ・ルージュ王子だな」
「……へ?」
青年は顔を上げる。
糸目に黒髪の、誠実そうな青年――――紛れも無く、ルイナ国王子、モルネイであった。
「……だれですか?」
「……やっぱり、知能は低下させられてるか」
「?」
セラフィムは秘鍵の束を取り、その中から、青い親鍵が付いたものを選択する。
「【自由のアザゼル】―――王子に、魔術からの解放を」
シュオっ! と、セラフィムの指先から青い光が迸り、モルネイの額を貫いた。
「――――っ!」
モルネイは額を押さえて蹲り―――顔を上げ、目を瞬かせる。
「……此処は? って……き、『鍵の守り人』様!?」
モルネイが、細い目を見開いて驚愕する。その様子に、小さくセラフィムは笑った。
「ユースチアンが喜ぶだろう……さあ、王子。仕事が山ほど在るぞ」
「……はい?」
モルネイは腰を抜かしたまま、困惑を顔に浮かべた。
壁が削られた部屋の様子に、モルネイは暫し絶句する。
「……何ですかこれ」
セラフィムは頬を掻く。ソファの横に居たジュドが、ばっ、とモルネイを見て構えた。
「安心しろジュド。お前にトラウマ植えつけたのは此奴じゃない」
「は?」
「あれは偽物だ」
セラフィムは、呆然としているモルネイの肩を叩く。モルネイは驚いたのか、びくっ、と肩を竦めた。
「……その、偽物は?」
「さぁな」
セラフィムはジュドに近付いた。そして、ソファに寝かせられているユースチアンを見る。
「様子はどうだ」
「変わらないけど……少し、手が冷たくなってきてる」
「……あの野郎……魔法を直に喰らって、【イスカリオテ】の力が増したんだな」
「助かるか?」
セラフィムはユースチアンの額に手を乗せた。
「……やって見せる」
そしてセラフィムは深い息を吐いた。
透明人間は、消えることを望まれた青年だった。
狂った飛竜は、平和と一族の安寧を望んだ優しき長だった。
心を失った老商人は、平凡に飽いた脆弱な老人だった。
利を追い求める王子は―――
「彼は、只満たされることを知らなかっただけの、哀れな男だよ」
少女の声が、ユースチアンを振り向かせる。
相変わらず、この灰色の世界は変わらなかった。此処に来るのも三度目で、ユースチアンは既に、不安感を覚えなくなっていた。
「よかったね。あのモルネイは、偽物だった」
「……またお前か」
「私は貴方の中に居るからね」
くすり、と少女は笑う。
「ね、ユースチアン。そろそろ、私にも、貴方の言う『世界』を見せてよ」
少女はユースチアンの前に立ち、ユースチアンを見上げる。
「貴方達の幻想がどんなものか、私も見てみたい」
「幻想……?」
「……知らないの?」
少女はくるりと回転し、首を捻る。
「この世界全部、幻想なんだよ?」
「……は?」
「言ったでしょう、此処は、真実を映す鏡の中」
少女は両手を広げた。
「この世界は本当は、何も無いんだ。ロトが魔法で、全部在るように見せてるだけ」
「ちょ、ちょっと待て、そんなこと、」
「嘘じゃないよ? 何なら願えば良いじゃん、私に」
少女はそして、笑みを怪しげに深めた。
「この世界の本当の姿を見せろ、嘘を吐くなって」
「――――、」
ユースチアンは暫し絶句する。
嘘だ、と言いたくても、この少女が嘘を言うメリットはさして無い。
「私達秘鍵はね、ロトに使われる為にこの世界に居るんだけど―――ロトが弱かったから、ばらばらにされちゃったんだよね」
少女は体の後ろで手を組み、少しばかり項垂れる。
「ロトは、好きな女の子が居たんだ」
「は?」
「その子を殺して―――ううん、ロトは、世界で一番の人殺しなんだ。それが嫌だったんだって。それで、大きな一つの『嘘』を吐いた」
少女はエメラルドの目をユースチアンに向ける。
「十一番目のあの子は、ロトに全然忠実じゃない。けど、向かってる先はロトと同じだ」
少女はユースチアンに近付いた。
「……やだなぁ、消えたくないよ」
「………………」
「だから、来て」
少女の手が、ユースチアンの腕を掴んだ。
「――――っ!?」
ぞぞぞぞぞ、と、少女が掴んだ部分から、黒い何かがユースチアンを侵食する。ユースチアンは少女の腹を蹴り、後方に飛び退いた。
「なっ……」
ユースチアンは自らの腕を掴んだ。黒く変色した部分は痺れていて、手先が奇妙に冷たい。少女は数度、腹を押さえて咳き込んだが、すぐに立ち上がった。
「ああ、もう!」
少女は苛立ちを顔に浮かべ、ユースチアンに向かって走り――――腕を掴んで立ち尽くすユースチアンの背後には、光すらも飲み込む闇が、口を開けた。
「え―――」
景色が歪み、異空間への入り口がユースチアンを飲み込む。ユースチアンはもがこうと手を伸ばしたが―――その手は虚しく空を掻いた。
「……嘘だぁ」
直後、その空間に、セラフィムが降り立った。
「っ!」
少女は足を突っ張って速度を殺す。セラフィムはローブを翻らせ、腰から秘鍵の束を取り出す。
「【イスカリオテ】。回収させて貰おう」
「で……出来るつもり? 今まで出来なかったくせに」
「事情が変わった―――ユースチアンを返せ」
セラフィムはずかずかと少女に近付いた。少女はじりじりと後ずさる。
「秘鍵―――『神』を神足らしめる力、教義へと続く鍵。私達が欲しいんでしょう、ロト。でも、気付いちゃったんだもんね、貴方達の狙い」
「そうか」
「だから、嫌だね!」
言うなり、少女―――【イスカリオテ】は踵を返し、走り出しながらその姿を消す。
「待て!」
セラフィムが怒鳴る。が―――当然、少女は既に消えていた。
セラフィムの顔が引きつる。ぐざっ、と音がし、足元を見れば、灰の上に、ユースチアンが身に着けていた腕輪―――セラフィムが渡した腕輪が落ちていた。
アーサーシーエン国の王都、ヴァリキュアラは、不安げな空気に包まれていた。国王は塔の窓から空を見上げ、僅かに顔に、困惑の色を浮かべる。
数時間前、晴天であった王都の上空は―――どんよりとした黒い雲に覆われていた。時折、雷なども聞こえる。
いつも通りの夕立ではない―――それは、誰もが感じていることだった。
空気は乾燥している。風も生暖かくない。それ『らしい』空気が無いのだ。
「国王様!」
「何だ」
「魔法使い達が、あの雲の原因を調べるべきだと申しております。賢者石や水晶が、異常な反応を見せているとのことで……」
「―――分かった、向かわせろ」
「はっ!」
大臣が下がると、国王は執務机に向かった。
「『鍵の守り人』……今こそ来て欲しい時なのだがな」
ユースチアンを連れて行ってから、もうすぐ三月になる。期待はしていなかったが、当然、連絡も、噂すら入ってこない。
紫の稲妻が、雲の中を走る。国王は顔を顰めた。
モルネイは、盆の上に乗せた数個の器と鍋を持って部屋に入る。客人用の寝室には、ベッドにユースチアンが、そのすぐ横にセラフィムが、そして二人の居るベッドに半身を乗せて床に座った状態で、ジュドが寝ていた。
「……ジュド君、風邪ひくよ」
モルネイは苦笑する。ジュドは体を起こし、目を擦った。
「どうだい、お二人の様子は?」
「全然……」
ジュドは首を横に振る。モルネイは顔を曇らせた。
「……ごめんね、僕が不甲斐無いばっかりに」
「え、いや、その……」
「彼奴の精神支配魔法は強力だった。けど、王子なんだから、僕が何とかすべきだった」
モルネイは、鍋から器に粥を盛り、ジュドに差し出す。ジュドはしかし、首を横に振って器を押し返した。
「二人が食べないなら、俺も良い」
「…………そうか」
モルネイは盆を机の上に置き、器を受け取る。
「まあ……暫く、休んで行くと良い」
「どうも」
ジュドはじっと、セラフィムとユースチアンを見、両手で二人の手を握った。
「……戻ってきてよ、セラフィー、ユースチアン……」
きゅう、と、ジュドは目を閉じる。
「俺を一人に、しないでくれ……!」
か細いその声は、酷く切なげなものであった。
深い闇に、全身が沈んでゆくのを感じた。秘鍵が生み出す闇とは別種の―――酷く人間臭い、記憶の闇だ。
太陽と青空によく映える、白い街並みが遠くに見える。『方舟』―――否、サディムの王都だ。中央に在る王宮、その高い塔の上に居るのは恐らく―――自分。
顔の造りは違う。髪の長さも違う。年齢も恐らく違う。だが、纏う雰囲気は自分と同じものだった。
否―――自分が、彼と同じなのだ。
自分は、『セラフィム・スーザ・スカルラット』という器に過ぎなくて―――結局自分は、彼の予備に過ぎない。
あの姫を愛したのは自分ではなく、彼だ。
絶望を味わったのは自分ではなく、彼だ。
希望を見出したのは自分ではなく、彼だ。
だから結局、自分もこの世界の一部に過ぎない、虚構だ。
何も出来やしないのだ。
「――――エルフ」
暗闇の中に蹲る自分に、懐かしい声が掛けられる。
「もう消えるのか、エルフ」
自分の頭を、誰かが撫でた。
「ユーちゃんを助けられなくても。それはお前のせいじゃないだろう? お前は今まで、立派に『鍵の守り人』をやってきた。一度や二度の失敗くらい、構やしない」
首を横に振ると、その誰かが苦笑する。
「……帰ろうよ、セラフィム。ジュド君が待ってる……ユーちゃんのことは、また向こうでしっかり考えればいい。また呼び出してくれれば、俺達はいつでも行くよ」
ぐい、と、その誰かが自分を抱え上げた。
「まだ、お前は消えるには早いから」
その誰かは、そっと自分を、闇の出口に置いた。
「お前はまだ、そっちの世界に居られるんだから」
「―――父さん」
微かな声に、ジュドは弾かれたように顔を上げる。
「セラフィー!」
「……ジュド……」
ジュドは、ぎゅう、と、体を起こしたセラフィムにしがみついた。
「良かった、帰ってきた……」
「……俺は……」
「ユースチアンを助けに行って……二日間、寝てたんだ」
ジュドはそして、未だ目を覚まさないユースチアンを見遣る。
「事件の後始末は、モルネイがやった。けど……偽物は、結局見つかってない」
「……仕様が無い、今回は……」
セラフィムは頭に手を遣った。
「……もう最悪だ。何かと、後手後手に回ってる」
「……ユースチアンのことも?」
「ああ。間に合わなかった」
セラフィムは、隣に眠っているユースチアンを見遣る。
「……肉体はまだ生きてる。が―――」
セラフィムはガリガリと頭を掻いた。
「……セラフィー、起きた?」
部屋の扉を開き、紙束を抱えたシンが入ってくる。
「ラ……シン、何だ」
「使う?」
シンは紙束をセラフィムに差し出した。『回帰』を呼び出す際に使ったもので、宿に放置していたのだ。
「……いや、良い」
「でも……」
「俺が何とかする」
セラフィムはそして、力の抜けたユースチアンの体を起こし、背負った。
「予定が変わった、ジュド、長距離移動だが、大丈夫か」
「何処に?」
「……始まりの土地」
セラフィムはそして、意を決した表情になった。
「アーサーシーエンの王都―――ヴァリキュアラだ」
荷馬車の荷台に座り、セラフィムとシンは並んで空を見上げていた。時折荷馬車は大きく揺れながら、静かに街道を進んでいる。
「うー……ごめんセラフィー……」
「いや、俺も、焦りすぎた」
荷台には、ユースチアンの他に、ジュドが横になっていた。セイレンシアを出て二日、長距離移動には慣れているジュドも、流石に体力の限界を迎えたらしい。
「―――シン」
「何?」
「……お前の目的は何だ」
ジュドが寝たのを見計らい、セラフィムはシンを横目で見る。
「……監視と、暇潰しだ」
シンはあっさりと答える。
「それに―――今、人間が……ロトが歩もうとしている路は、嘗て私が歩んだ道だ。返却を急げとはもう言わぬから、せめて、あの瞬間を忘れないでくれ」
「……ロトに言ってくれ」
「お前は『ロト・クライスト・スカルラット』だろうが」
「違う!」
突然に、セラフィムは怒鳴って自分の膝を叩く。驚いたのか、車を引いている走竜が、短く鳴いた。
「……俺は、『セラフィム・スーザ・スカルラット』だ」
言い聞かせるようなセラフィムの言葉に、シンは鼻を鳴らす。
「お前らの事情はどうでも良いが……約束は守れよ」
「分かってるよ……優しいな、お前は」
「……その方が、都合が良いだけだ」
シンはそっぽを向いて頬を掻いた。少々照れたように言う様子に、セラフィムは苦笑する。そして、寝返りを打ったジュドに毛布を掛け直してやった。
「……まだ、ああ見えるのか」
「……ああ。私に魔法は効かないからな」
「……そうか」
セラフィムは、腰に吊るした秘鍵に触れる。
「―――ところで、セラフィー」
口調が幼いものに戻り、セラフィムは会話の終わりを感じて振り返る。
「知りたくない?」
「……何をだ」
「ロトの、隠された記憶」
「……!」
セラフィムは驚愕を顔に浮かべる。シンは悪戯っぽく笑った。
「セラフィムが第二世代だから受け継いでない、ロトが『鍵の守り人』になるまでの話」
そしてシンは、目を怪しげに細めた。
神族、と呼ばれる種族が居る。
元々は人間が中途に進化した魔法生物で、魔力と魂のみで構成され、枷となる肉体を持っていない。故に寿命も持たず、生まれ方や死に方も不明な、特殊な生物である。
スカルラット家の長男、ロト・クライスト・スカルラットは、その神族に最も近い人間だとして有名であった。
人間は、魔法を使えない。大国サディムに置いてそれは常識で、魔法は神族や獣精だけが使い得るものであった。
サディムの王宮の西側に立つ、純白の塔の屋上に、少年と少女が寝転がっていた。少女は上等な絹の服や銀の耳飾りを身に着けているが、少年は木綿の簡素な服に、黒いローブのみである。
だがこの少年が、件のロトであった。
少女が起き上がり、少年に近付く。そして、目を閉じている少年の顔を覗き込んだ。
「ロト、起きてる?」
「―――起きてるよ、姫様」
少年、ロトは目を開く。少女は笑顔になった。
「ロト、ねえ、いつになったら私を名前で呼んでくれるの?」
「今更気恥ずかしい。真名なら良いッスよー『喪……』」
「きゃー! 駄目、真名は駄目だってば! 本当は教えるのも駄目なんだからね!?」
言うなり、少女――姫は、上体を起こしていたロトに体当たりをする。
「ぐえっ!?」
ロトは受け止めきれず、姫を胸に乗せたまま倒れ―――後頭部を強かに打った。
「~っ!」
ロトは頭を押さえて痛みを堪える。
この平凡極まる少年が、神族に近いと言われる理由―――それは、その髪の色であった。
通常ならば、スカルラット家の男は髪が黒い。が―――ロトの髪は白に近く、日の当たっていない部分だけが青や緑に変わって見えた。
その髪を、神族を研究している者達が、神の子の証だと勝手に騒ぎ立てるのだ。
「あ、見てロト!」
姫は立ち上がり、塔の端に駆け寄る。そして、低い壁の上に上った。
「……危ないぞ」
「じゃ、ロトも来てよ」
ロトは苦笑して、姫の隣に立ち、その手を握る。
「―――ほら、綺麗だよ」
少女が指差すのは―――世界を淡い橙色に染める、夕日であった。
白い王都が、夕焼け色に染められている。遥か遠くの山の稜線は金色に縁取られ、雲も、街と同じ色に輝いていた。
「……そうだな」
ロトは小さく笑う。そして、帰ろうか、と姫を見た。
だが次の瞬間――――その表情が、凍り付く。
姫は、俄かに吹いた風に煽られてバランスを崩し―――後方に倒れかけていた。
「姫!」
ロトは迷うこと無く走り出し、壁を飛び越える。数刹那先に、既に姫は落下を始めていた。ロトは焦燥に顔を歪め、壁を蹴る。
「手を!」
ロトが伸ばした手が、姫の手を掴む。ロトは姫を抱き寄せ―――しかし、急速に縮まる地面との距離に、絶望を感じた。
「――――どうしよう……」
呆然として、ロトは呟いた。
死ぬ。
少しも疑いようの無い真実が、ロトの時間を引き延ばす。耳元で鳴る五月蝿い風の音も、人々の悲鳴も、遠い。
只、逆さに見えた遠くの夕日と空だけは、泣けるほどに美しかった。
瞬間―――
ごそり、と、ロトの中で何かが蠢き、心臓の裏を引っ張られるような感触がした。
「ぐっ!?」
同時に、がくり、と突然、ロトと姫は失速する。
「……止まっ……た?」
ロトは、恐る恐る目を開く。
ロトと姫は、地面に叩きつけられる寸前で、空中に停止していた。
「何だ、これ……」
ロトは、自分の背後に在るそれを見上げる。
それは、青白い光で作られた―――陣であった。
同心円と図形、そして読めない文字が、浮かびながらゆっくりと回転していた。やがて、ふっ、と、その陣は煙のように消える。
ロトは姫を抱えたまま、地面に着地した。
「……無傷だ」
ロトは自分と姫を見、呆然として呟く。姫も、きょとんとした顔をしている。
これが―――人間が魔法を手にした瞬間であった。
「………………」
セラフィムは頬杖を付く。シンは相変わらず、足をぶらぶらとさせながら無邪気な笑顔を見せていた。
「それで、この世界が生まれたのか」
「うん。悪いのは、ロトじゃないよね」
シンの言葉に、セラフィムは小さく笑う。シンはぱたぱたと尾を揺らした。
「……ヴァリキュアラで、何するの?」
「………………」
セラフィムは答えず、黙ってシンの頭に手を乗せる。
「……お前はきっと、『正しいこと』をするつもりなのだろうな」
シンは口調を変えて呟く。
「例えそれが、世界を滅ぼすことになっても」
「世界はもう滅びたさ。今は残響に過ぎない」
セラフィムは顔を上げる。
「―――残酷な物言いだな。この世界でも、生きている人間は居るのに」
「だから、彼らは『カリソメ』と呼ばれる」
「……『仮初』、か」
シンは頬杖を付く。
「なぁセラフィム。お前、この世界が好きか?」
金色の目を細め、シンは呟いた。が、セラフィムは答えない。
「お前達『鍵の守り人』を裁くのは、私ではない。この世界そのものだ」
「………………」
セラフィムは頭の後ろで腕を組む。
「白い、布の塊が槍を持ってるような奴を見たことが在るか? あれがドグマの使い魔だ」
「……たかが鍵のくせに、使い魔を持ってるのか」
「只の鍵ではないからな。世界を変えられる鍵だ――――秘鍵は。故に、真名であるドグマの他に、秘鍵、という通称を持っている」
「……シン、お前、ドグマの正体を知っているのか」
シンはそっぽを向く。答える気は無い、と言う事だろう。
「……私は、『鍵の守り人』の味方ではない。が―――今更、敵になる気も無い。ユースチアンにはそれなりに世話になった。私も『神』ではない……情が移りはする」
「……つまり、ユースチアンの味方か」
「そうだな」
シンは頬を掻いた。そして、寝息を立てているジュドと、目を覚まさないユースチアンを見遣る。
「ドグマは―――何をしようとしているんだ?」
「さあな。一つ言えるのは、『鍵の守り人』の狙いとドグマの狙いと俺の狙いは、全て食い違っているという事だけだ」
セラフィムは荷台に横になる。シンはセラフィムを見下ろし、それから空に視線を向けた。
「……平和だなぁ」
酷く空々しい言葉が、不意に出る。シンは自分の言葉に驚いたように目を瞬かせた。そして、聞かれたか、とセラフィムを振り返るが―――
セラフィムは、腕を枕にして寝息を立てていた。シンはほっとしたような顔になる。
「……平和かな」
再度呟き、シンは目を細める。
彼が見ている世界は、抜けるように蒼い秋の空と―――全てが死に絶えたような灰色の地面だけが、何処までも広がっていた。
銀の装飾が付いた黒いローブを着、青年、ロトは王宮を闊歩していた。
人類初の魔法使いとなったロトは、既にサディムで、国王に次ぐ権限を持つようになっていた。元々の仕事であった王女の目付け役も続けてはいるが、今は主に、魔法使いとして働くことが多くなっている。
「姫様、遅れて悪い。会議が入ってな」
「……うん、良いよ」
ロトに椅子を差し出し、姫は控えめな笑顔を見せる。
「此処、まだ分からないんだけど……」
「は? まだこんなのに手間取ってるのか」
ロトは算学の教科書を指さす姫に言う。姫は少々むっとした。
「私はロトとは違う。そんなに簡単に理解できないよ」
「はいはい。王宮付ともなると魔法使いも大変なんだ。勉強に時間なんか掛けられない」
ロトはペンを取って、紙に解説を書き込む。姫はその様子を見、心配そうな顔になった。
「……辛くは無いの?」
「何が?」
「だってロト……王族とか貴族とかの権力とか、嫌いじゃん」
「俺も貴族だ。貴族に生まれてお前の目付け役になった以上、そういうものと無関係じゃいられない」
ロトはきっぱりと言う。
「それに、在って困るものでもないし」
「……そう」
そして姫はやはり少々悲しそうに笑った。
「ロト、変わったね」
姫の言葉に、ロトは顔を上げる。
「俺は変わってない。変わったのは世間だ」
そして、きっぱりと言った。
ヴァリキュアラに近付くにつれ、空は曇り、空気は次第に重くなっていった。セラフィムは口元を布で覆い、空を見上げる。
「……あれを、秘鍵が起こしてるって言うのか」
「そうだ」
シンはセラフィムの膝に乗って言った。
「……なあセラフィム、こんなことを言うのも何だが―――今からでも、『方舟』に引き返さないか? 『回帰』に任せれば、お前は―――」
「どちらにしろ、俺が死ななきゃ『鍵の守り人』は完成しない」
セラフィムは目を細める。
「良いんだよ、もう」
「……お前は人間だろう?」
シンはセラフィムを見上げた。
「ロトは、自らの魂を十二に分割した。人である身で、肉体の限界を超えた年数、『鍵の守り人』として世界を支える為に―――だが、幾らロトでも、自分以外の十一の体は作れなかった。そうだろう?」
「そうだ」
「だから第二世代は――――『鍵の守り人』に拾われた人の子だろう?」
「そうだ」
「お前も、ツェーン……スフも、普通の人の子として生きる路が在った筈だ。だが、神の子として生きる路を選ばされた……辛くは無いのか」
「辛いとか、辛くないとか分からない」
セラフィムは、シンの頭を撫でて微笑む。
「普通とか、普通じゃないとかも知らないからな」
シンは耳をはためかせた。そして、くるりと体を回し、セラフィムの胴に顔を付ける。
「……お前とジュドは、『普通』の家族に見えるけどな」
「お前は『普通』の子供だな」
二人は暫時顔を見合わせ―――同時に笑った。
「セラフィム。全てが終わったら、またジュドと旅をするんだろう?」
「ああ」
「……それを考えると、少し残念だな」
シンは目を閉じる。
「誰が『神』となるにしても―――お前は死んでしまうから」
「そうだな」
セラフィムはそして、少しばかり俯く。
「お前、戻りたいか」
セラフィムがシンに言った。シンは暫時、悩むような顔になる。
「なってもいい。きっと、返還が一番丸く収まる形なんだろう」
「……今のお前になら、教えてもいいか」
セラフィムはそして、小さく笑う。
「?」
「俺の、本当の目的を」
そしてセラフィムは、怪訝そうな顔をするシンに、薄い笑みを見せた。
突然の国王からの呼び出しに、ロトは急いで執務室へと向かう。
「お呼びでしょうか」
「やっと来たか……一つ、頼みが在るのだが」
国王は椅子から立ち上がり、机の上に地図を広げる。
「今や、魔法技術はサディム全土に広がっている。いずれ、お前を超す魔法使いが現れ、いつ何時、この王国を倒そうという不逞の輩が現れるかも分からん」
国王の言葉に、ロトは反論しかけ、しかしそれを飲み込んで先を促す。
「そこで、だ。ロト―――お前の血族以外の人間が魔法を使えないようにしてしまえ」
「……は?」
国王は刀を抜き、王都の位置に突き刺した。サディムの中心―――全方角を山に囲まれた場所だ。
「お前以外に魔法使いなど要らん。魔法書も回収させる。だから」
「お待ちください、大陸全土にどれ程の魔法使いが居るとお思いで? 全員を殺すにしても知識は伝承されますし」
「だからお前に言っている。魔法を使えないようになる魔法を掛けろと言ったのだ」
「……それだけ大きな魔法を使うなど……『神』でもなければ不可能でしょう」
「そうだな」
国王はしかし、にやりとしてロトを見る。
「だからお前が『神』になれ」
「……は?」
国王はロトを指差し、再度言った。
「この世界は今、ドグマを持つ『神』に支配されている。だからお前が、『神』からドグマを奪い、それを所有して新たな『神』となれ」
「――――、」
ロトは暫時押し黙り―――国王をじっと見る。
「……少し、考えさせてください」
「駄目だ。今すぐに魔術を組め。お前は私に仕えているのだろうが」
国王は羊皮紙とペンを突き出す。
「……はい」
ロトはそれを受け取り、俯いた。