Ⅳ
読んでくれた友人はジュド推し。だが後半の対竜のシーンは「怖えよ!」とのこと。
Ⅳ
火にかけた鍋の中身が、くつくつと煮えている。セラフィムは木をくり抜いて作った椀にそれを盛り、並べた石の上に板を置いただけのテーブルに置いた。
「ユースチアン、ジュドの様子はどうだ」
「まだ、熱が高いらしい。お粥を持っていこうか?」
「頼む」
ユースチアンは椀の一つとスプーンを持ち、天幕に入った。
天幕の中の寝床には、仰向けで、頭に腕を乗せてジュドが寝ている。息は荒く、絶えず、汗が顔を伝っていた。
「大変だな不定期は。ほら、少しでも腹に入れると良い」
「う~……」
ジュドは寝返りを打って俯せになり、何とか顔を上げる。
不定期―――ジュドのような亜人に見られる、特異な時期だ。例えるならば女性の月経のようなもので、月に一度ほど、人間の血と他の生物の血のバランスが崩れ、体調に著しく異常をきたす時期である。下手に薬などを服用するとショック死する可能性も在り、多くの亜人は、不定期が近付くと仕事を休んで耐え抜くらしい。
そしてそれは、ジュドも例外ではなく―――『聖ロト・クライスト・スカルラットの湖』を出て数日、本人の予想通り、ジュドは不定期に入っていた。
いつもであれば、ユースチアンに対しては不機嫌な顔を見せるジュドだが、不定期で弱っているせいか、ユースチアンが介抱することに異は唱えなかった。
腕を伸ばしてぐったりとしたまま、ジュドは動かない。ユースチアンはスプーンを椀に突っ込み、ジュドの前に置いた。ジュドは顔を上げ、椀に手を伸ばす。
「美味しいか?」
「……セラフィーが作ったんだ、当然だ」
ジュドは案外に手早く粥を喉に流し込むと、深い息を吐いてまた倒れ込んだ。
「あ~……しんど……」
間も無く、ジュドは眉間に皺を寄せたまま寝息を立て始める。ユースチアンは苦笑し、ジュドの頭に手を乗せた。そして空になった椀を持って天幕から出る。
「食べられる程度には回復したらしい。が、まだ肌色は赤銅に近いし、目も竜の形に近いな……熱も、あまり引いていない」
「不定期はそういうものだからな……ユースチアン、日が高いうちに、町に買い物に行ってくれないか」
「え?」
「ジュドを置いていくことは出来ないから……一人で、と言うことになるが。食材を買って来て欲しい。その腕輪を付けていれば、多少俺から離れても、【イスカリオテ】を抑制できるだろう」
「……そうか」
ユースチアンは、左手首に填っている輪をさすった。
「何を買ってくればいい?」
「これに書いてある。金は今……ルイナ国の通貨は、リブスだったな」
セラフィムは鞄を掻き回し、金貨の袋をユースチアンに差し出す。
「気を付けろよ」
「はいはい」
ユースチアンは、過保護な台詞に苦笑して歩き出す。
「同じ大陸でも、山脈一つで違うものだな……」
ユースチアンは日光の眩しさに目を細める。そして、砂漠の途切れる山の麓、煉瓦造りの壁で囲まれた町に向かって歩き出した。
ルイナ国は砂漠が多い。森や山脈に視界を遮られがちのアーサーシーエン国とは違い、地平線までがすっかり見渡せた。が、振り返れば、岩肌も露わな山脈―――アーサーシーエン国との国境―――飛竜の棲む洞窟が在ると言われるソーダラン山脈が在る。
アーサーシーエンとルイナは同盟国であるが、国境を接しているのはこの山脈部だけである。よって、両国と接する別の国を通過するルートを取るのが普通だが―――その為か、ユースチアンが入った町は、交易が盛んな様子も無く、大陸中を旅している行商人が露店を並べているような、田舎町の雰囲気が強かった。
「えーと……」
ユースチアンはセラフィムから受け取ったメモを見る。丁寧な字で、食材の種類と量、日用品などが書かれていた。そして、その最後の一言に、ユースチアンは微笑む。
『キナージュの町は服が特産の一つだ。旅用の服でも見繕ってこい』
移動を繰り返す旅で、いい加減、シルクの服を着続けるのも、と思っていたところだった。セラフィムの気遣いが嬉しく、ユースチアンは上機嫌で、油や塩などを売っている店へと向かった。
深い唸り声が、洞窟内に木霊する。赤銅色の長髪で、浅黒い肌の女が、不安げな顔で、声の主を見上げた。
薄暗い洞窟の奥に、巨大な影が蹲っている。赤銅色の鱗と蝙蝠のような翼―――火焔の飛竜、キーマ族のようだ。
「長、どうか気をお鎮めください。あの町の人間も、弟を奪うつもりは無かったでしょう」
唸り声が大きくなり、邪悪さを帯びる。女は体を竦め、俯いて両手を握った。
「―――今日も、私が向かいます。ですから、どうか――――」
女は竜に駆け寄り、その血走った目を見上げた。
「それを、お放しください―――きっと、『鍵の守り人』殿がいらっしゃいますから」
女の言葉に、しかし竜は拒絶すように首を振って唸る。女は悲しげに目を伏せた。
竜は、鋭い爪が生えた前足を岩に掛け、洞窟から這い出る。女はその姿を見、俯いた。
竜が、空に向かって吠える。それは、地を揺るがすような猛々しい咆哮で―――しかし何処か、酷く苦しげなものだった。
遠くから、唸り声のようなものが聞こえてきた。ユースチアンは商品から顔を上げて振り返る。
「何だ?」
そして、露店商に顔を向ける。露店商は、酷く怯えたような顔になっていた。
「き……今日はもう店仕舞いだ、お客さんも避難したほうがいい」
「避難? 何か来るのか?」
「ああ、彼奴が、彼奴らが……」
言うなり、露店商はさっさと店仕舞いを始める。怪訝そうな顔をしてユースチアンが商店街を見渡せば、先程まで活気に満ちていた人々は、一様に不安そうな顔をしていた。
「……何だ?」
その異様な光景に、ユースチアンが咄嗟には動けないでいると、主婦らしき買い物袋を持った女が、ユースチアンの腕を掴んで手近な家に引っ張り込む。
「速く避難しなさい!」
「え、あ、その、」
礼を言うべきか、訊ねるべきか――まず言う言葉に迷い、ユースチアンはどもる。が、その間に女は扉を閉めて奥に走って行ってしまった。
「……何なんだ……」
ユースチアンは呆然として立ち尽くした。直後――――
何処か聞き覚えのある轟音が耳朶を打つ。ユースチアンは顔を顰め、耳に手を遣って窓を振り返った。
すっかり人気の無くなった通りに、巨大な影が落ちる。ユースチアンは窓から空を見上げ―――絶句した。
空には、巨大な飛竜が居た。ジュドも十分に巨大だが、この竜はジュドを遥かに凌ぐ。竜が一度羽ばたきをするだけで、風が塊となって町を襲った。
「っ……」
舞い上げられた砂から目を庇い、ユースチアンは窓から離れる。飛竜は空中で旋回すると、その姿を変えながら着地した。
腰ほどまで在る長髪は赤銅色で、肌は日焼けしたように浅黒い。可愛い、や美しい、と言った言葉よりは、精悍な、と言う方が似合うような女であった。女は腰に片手を遣り、町を見回す。
「……飛竜……ジュドと同じ、キーマ族か……?」
ユースチアンは声を抑えて呟く。が、女には聞こえたらしい。ユースチアンが居る家を見遣ると、窓に近付いてきた。
「今の声はお前か?」
「あ……いや、その、そうだが」
取り繕うように言葉を探すユースチアンを見上げ、女は怪訝そうな顔になる。そしてユースチアンの手を掴むと、
「えっ?」
確かめるように、匂いを嗅いだ。そして目を細め、口元を笑わせる。
「何と言う幸運……」
「え?」
「お前、ロナを知っているな!?」
ぐい、と女はユースチアンの手を両手で握る。
「ろ、ろな?」
「ああ、待っていた、きっと戻ってくると信じていた! 案内しろ!」
女の期待に満ちた顔に、寧ろユースチアンは困惑を深める。が、女は構わず、ずかずかと家の中に入り、ユースチアンに詰め寄った。
「旅人だな、何処でロナと知り合った? 何処にロナは居る?」
「え、ええと、その、ロナ、と言うのは?」
ユースチアンは女と距離を取ろうと、じりじりと後ずさりながら両手を前に突き出す。
「私の弟で、亜人だ―――今年で七歳になる」
「…………」
一瞬、ジュドの顔が過るが、ユースチアンはその考えを否定した。いくらなんでも、ジュドがまだ七歳だと言うのは無いだろう。
「私の仲間に亜人は居るが、勘違いじゃないのか?」
「……まさか。この私が、血族の匂いを間違える筈が無い」
女はユースチアンの手を掴む。
「お前から、キーマ族の亜人の匂いがした」
「だからだとしても、ロナ、とやらとは限らないだろう?」
ユースチアンは更に困ったような顔になる。だが女は、確信を持った顔でユースチアンに顔を近づけた。
「とにかく、来て貰おう。長がお待ちだ」
「いや、何処に?」
「我々の住処だ」
女は、細身に似合わぬ怪力でユースチアンを家から引っ張り出し、振り返ってその両肩に手を乗せる。
「―――頼む。長の気を鎮めなければ、この町を滅ぼすとも言いかねん。お前が弟のことを知っていようといまいと、可能性が在るなら連れて行きたい」
「………………」
「せめて、『鍵の守り人』殿の居場所が分かれば――――」
「え?」
懇願するような声音に、ユースチアンは顔を上げる。
「だが、『鍵の守り人』は流離い人、そう都合良く見つかる訳も無い」
「……ええと、」
「では飛ぶ。しっかり掴まって居ろ」
女がユースチアンを背負い、強く地を蹴る。間も無く、空中でその姿は巨大な飛竜へと変わり、ユースチアンはその飛竜の背に乗っていた。
「うわっっ……と、おい! えーと……名前は?」
飛竜は答えず、そのまま空高く舞い上がった。
飛竜が頭上を飛び去り、その下で派手に砂が舞い上がる。フード代わりの布で口元を覆って顔を顰め、セラフィムは竜を見上げた。
「……キーマ族か……この町は吹き降ろしの風が強いから、普段は来ない筈だが……」
セラフィムはそして、水の入った革袋を腰から外し、天幕に入る。
「ジュド、具合はどうだ」
「少しマシ……それより、彼奴は?」
「ユースチアンか。確かに遅いな……」
セラフィムはジュドに水袋を差し出し、呑気に空を見上げる。
飛竜は、切り立った岩肌に降り立ち、人の姿を取る。ユースチアンはその背から滑り降り、眼前に現れた洞窟を見上げた。
「……これが、お前達の?」
「ああ。言い忘れていたな、私の名はラナと言う」
「……ユースチアンだ」
ユースチアンは片手で服の裾を整え、ラナを見上げる。ラナは目を瞬かせた。
「……何か……言いたそうだな?」
「……『鍵の守り人』のことなんだが……」
「ああ、長は……秘鍵を持っている。それで、『鍵の守り人』殿がいらっしゃれば、全て解決すると思ったのだが……」
「いや、だから……」
どう言ったものか、とユースチアンは困った顔になる。しかしラナは構わず、来い、と目で言って歩き出した。
黒い岩肌に空いた、巨大な穴からは、冷たい風が流れてくる。ユースチアンは足を滑らせないように気を付けながら、ラナの後を追う。
「此処は一応……アーサーシーエン国になるのか?」
「ああ。ルイナ国との国境だな、丁度」
ラナはそして、ひょい、と岩を飛び越えた。ユースチアンもその後を追い―――
「うわ……」
言葉を失う。
今まで狭かった洞窟が突然に広くなり、岩肌も白く変化していた。道は幾つにも分岐していて、日の光が入らないような穴の奥であるにもかかわらず、薄らとした光が全体を照らしていた。
「……美しい、と思ったか?」
「え?」
ラナはユースチアンを見遣り、少しばかり得意げな顔になる。
「ファース……基、人間共は、竜を、知能も無い化け物だと見ることが多い。だが私達だって、美しいものを見て美しいと思うし、守りたいとも思う」
「……別に、」
「長も昔は―――そうだったのだ」
ラナは目を伏せた。その、酷く悲しげな様子に、ユースチアンは、言おうとしていた言葉を飲み込む。
「……変わってしまったのか?」
「―――仕様の無いことだ」
ラナはそして、顔を上げて、何かを振り切るように歩き出す。
「お前を長に紹介しよう。それから、部屋に行ってもらう」
「……まさかと思うが、同じように攫われた女達が居る訳では……無い、よな?」
「――――もっと、残酷だ」
ラナは苦い顔になった。そして、通路の内、一番大きなものに入って行く。
「長を刺激してくれるなよ。ロナが見つからず、気が立っている」
「何故、ロナを其処までして探すのだ?」
「……一族の為だ」
ラナはそして、突き当りの、入り口に布が降ろされた部屋の前で立ち止まり、ユースチアンを振り返る。
「……渡しておく。耐えられないと思ったら使え」
ラナが差し出したのは―――銀の短刀だった。
「お前……」
「頼む。これ以上、被害者を出したくないのだ、私は」
そしてラナは、ユースチアンを押して部屋の中に入り、深々と礼をした。
「長。ロナは見つかりませんでしたが、代わりに贄を連れて参りました」
言ってラナは、ユースチアンの頭を掴んで下げさせる。
「……うむ」
鷹揚な声が言った。老人のようにしゃがれてはいるが、強い芯を感じさせる響きに、ユースチアンは顔を不安げに歪める。
ユースチアンは意を決して顔を上げた。部屋の奥に設えられた椅子に、上等な服を着た老人が座っている。髪はラナと同じ赤銅色で、肌も浅黒いが、ラナと決定的に違うのは、立てた膝に乗せられた右腕に、巨大な十字架の紋章―――以前、セラフィムが秘鍵を回収した青年と同じそれが刻まれていることだった。
「秘鍵……!」
ユースチアンは、長の右手首に巻かれた紐を見遣って呟く。赤い紐には、四つの黒い小さな鍵が通されていた。
「四つも……」
ユースチアンは息を飲む。一つで人間一人を操る秘鍵が四つ―――キーマ族の長が操られているとしても、おかしくは無い。
「その女が、新しい贄か。顔をよく見せろ」
長はユースチアンを手招きする。行け、と小さくラナが言った。
ユースチアンは緊張した面持ちで長に近付く。長はユースチアンを見上げた。
「……中々の器量よしだな……だが、」
長の手が、ユースチアンの髪を掴む。
「っ!?」
「態度がいかん。自分の立場を考えろ」
「いっ……!」
ユースチアンは髪を引っ張られ、長の前に倒れ込む。跪くような格好に、ユースチアンは怒りを露わにして長を睨み上げる。が、長は鼻を鳴らし、ユースチアンの顎を掴んだ。
「絹の服とは、随分と良い身分のようだな? だが、それはあくまで人間内でのこと。此処は我ら竜の領分だ。我らに従って貰おうか」
「……、」
ユースチアンはちらりと長の右手首を見、きっ、と長を睨み上げる。
「キーマ族の長殿。無礼であったことは詫びましょう。しかし、貴方の行為には賛成できない」
「……何だと?」
「ロナと言う亜人を探す為にその姉を町に放ち、あまつさえ人攫いまでさせている。町の人間を恐怖に陥れ、意思に背いて連れてこられた娘を嬲る。それが、一族の長である貴方のすることですか? それが、誇り高き火焔の飛竜、キーマ族のすることですか!」
「黙れ、ファースの小娘が! 貴様に我らの何が分かるか!」
長が怒鳴り―――ユースチアンは見た。
一瞬であるが確かに、長の十字架の刻印が発光した。それを見、ユースチアンは、予想を確信に変える。
やはり長は、秘鍵に憑りつかれている。確かセラフィムは―――『アダム』、と呼んでいたか。
「……事情を知らないのです、長。無理に連れてこられて、混乱しているのでしょう。部屋に通しておきますから」
「そうしろ。まったく……」
長はユースチアンに背を向け、ラナに言う。ラナはユースチアンに手を差し出した。
「案内しよう」
「…………」
ユースチアンは手を借りずに立ち上がる。そして、一瞬鋭く、長の背を睨んだ。
セラフィムは鞄を地面に置き、調理用の台や刃物、鍋、食材までもを詰め込む。拡張魔法でも掛けてあるのか、鞄は難なくそれらを受け入れた。
「……何処か行くのか?」
天幕の入り口を上げ、ジュドがセラフィムを見上げる。
「ああ、ユースチアンが余りにも遅すぎる。町に行ってくる」
「……過保護」
「……五月蝿い。何かが在ってからじゃ遅いだろう」
セラフィムはそして、ジュドの前にしゃがんで頭を撫でた。
「すぐ戻る。待っててくれ」
「……俺も行く」
「駄目だ。大分、落ち着いてきたようだが……まだ、熱が下がっていないだろう」
「それでも行く」
ジュドはそして、セラフィムの服の裾を握る。意地でも、と言っているのだろうか。
「お前なぁ……まだ子供だろうが、そろそろ自立してくれるとありがたいんだが」
「竜は五歳で大人になるけど、人間は十八年掛かるんだろ? 俺まだ……」
「はいはい。分かったよ」
セラフィムは溜息を吐き、ローブを脱ぐ。そして、ジュドに背を向けた。
「ほら、おぶされ。歩くのだって辛いだろう」
「ん……」
ジュドはセラフィムの背に乗った。セラフィムはジュドを隠すようにローブを羽織り、ジュドの頭に布を被せる。ジュドはセラフィムの首に手を回し、背中に頭を押し付ける。妙に子供じみたその行動に、セラフィムは小さく苦笑した。
通された部屋の様子に、ユースチアンは思わず顔を顰めた。
岩肌をくり抜いて作られた部屋には、様々な年齢の女が居た。皆が一様に虚ろな表情をしていて、ボロボロの服を身に纏っている。中でもユースチアンは、部屋の奥に蹲る少女に目を奪われた。
皆とは違う様子のその少女は―――腹を押さえ、青白い顔で浅い呼吸を繰り返している。その腹は、はち切れんばかりに膨れていた。
「……まさか」
ユースチアンは、その、自分とそう変わらなそうな年の少女とラナを見比べる。ラナは、肯定するように小さく頷いた。
少女は妊娠していた。恐らく―――キーマ族の亜人を。それは、つまり―――
ユースチアンは口元を押さえてしゃがみ込む。その光景は、長の――キーマ族の狂気を、明確に映し出していた。
「長は、キーマ族の血を絶やさない為に、亜人を生み出し、人の中にキーマ族の子孫を残すのだと言っていた」
「それで……女を?」
「ああ。ロナを探しているのは、その為だ……ロナを見つければ、長も少しは正気に戻るかも知れない……ロナは、我ら一族の最後の頼みの綱だ」
ラナは俯く。
「分かっている……長は、おかしくなっている。以前はもっと優しく、人との距離も保った方だったのに……」
ラナは奥の少女に駆け寄り、膨れた腹をそっと撫でてやる。
「秘鍵さえ無ければ……」
ラナの言葉に、ユースチアンは唇を噛んだ。
そして、どうする、と自分に問う。
このまま大人しくしていて、セラフィムが来てくれるのを待つのも一つだろう。自分が帰らなければセラフィムは町に行くだろうし、其処で自分が攫われたと知れば、すぐに此処を突き止めるだろう。
だが―――此処に居るこの少女達の存在を知っているのは、今は自分だけで、セラフィムが来るまでの間に、何が起きるか分からない。
ユースチアンは、懐に忍ばせたラナの短刀を握った。
「ラナ。もう一度、長に会わせてくれ」
「……何だと?」
「言いたいことが在る」
ユースチアンの真っ直ぐな目に、ラナは暫時、気圧されたような顔になる。が、すぐに心配そうな顔をした。
「何を考えている? 長はあんな方だ、何をされるか……」
「考えが在る」
そしてユースチアンは、胸の前で手を握った。
「あの長と私は同じだ。厚かましい考えかも知れないが―――救いたい」
「…………何を、するつもりだ?」
「……別に、何も特別なことは」
只、自分の得意なことをするだけだ。
そう笑って見せるユースチアンに、ラナは困惑顔になった。が、分かった、と頷くと、入り口の布を上げて通路に出る。
ユースチアンは、高鳴る鼓動を抑えようと胸を押さえた。
セラフィムに頼ってばかりもいられない。自分にも、何かが出来るかも知れない。もしそれがみっともない足掻きだとしても―――何もしないよりは、遥かにマシだろう。
「――ラナ、ロナと長は、どんな関係なのだ?」
「親子だ」
「……では、ラナ、お前も……」
「そうだ。私は今、父親を否定している」
ラナは振り返った。薄暗い洞窟内でよく分からないが、その表情は、悲痛に縁取られているのだろう。
実の父親を真っ向から否定するのは、相当な苦痛を伴う。ユースチアンは自分の父親を思い出し、苦い顔になった。自分も、あの父親―――国王を否定するのは、流石に苦しい。例え、他人としか思えない距離感であっても、だ。
「……そうか」
ユースチアンは俯いて、歩き出すラナに続く。そして改めて、胸元の服を握った。
「長。先程の女が、話があるそうです」
ラナが部屋に入り、ユースチアンもそれに続く。
長の部屋の空気は何処か淀んでいた。長は部屋の奥の椅子に座り、俯いている。
「……何だ。悪いが無駄話には付き合えん」
「無駄ではありません」
つい先刻会ったばかりの男とは思えない憔悴ぶりに、ユースチアンは少々驚く。あるいはあの姿は、威嚇の為の虚勢を張っていたのか。
「――――長殿」
「小娘が……何の用だ」
「端的に申し上げます。秘鍵を手放してください。そのままでは貴方が、その魔力に食い殺されるでしょう」
ユースチアンは、自然体で近付く。長は予想通り、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「私が、たかが鍵ごときに喰らわれると? 人間と一緒にするな」
「―――そうですか、では、」
ざっ、と、ユースチアンは左手を振った。瞬間―――取り出されると同時に抜き放たれた銀の短刀が、長の右手首を切断する。
「力ずくでも、救わせていただきます」
「……あ?」
ごとり、と、長の右手首が床に転がり、秘鍵が通された紐が腕から滑り落ちる。ユースチアンは素早くそれを拾い上げると、踵を返して部屋の出口へと向かう。
「小娘、貴様……貴様ぁああああ!」
出口のすぐ横に、竜の手が突き立てられた。すぐ近くに居たラナが息を飲む。が、ユースチアンは恐怖を見せず、ラナの手を引いて通路に転がり込んだ。
「お前っ……長に何てことを!」
「済まないな、これ以上の解決策が思い浮かばなかった」
ユースチアンは手の中の秘鍵を服のポケットに忍ばせると、来た道を必死に走り出す。
「外に出れば良い、あとはきっとセラフィムが―――」
洞窟を揺るがすような、竜の咆哮が響いた。ユースチアンは顔を焦燥に歪め、ラナを見る。ラナは驚いたように肩を竦めた。
「ラナ! 頼む、案内してくれ! 外に出たいんだ、そうすれば皆きっと助かる!」
「……だが、」
「頼む! 私は『鍵の守り人』の居場所を知っているんだ、この秘鍵を彼奴が回収すれば、長はきっと正気に戻る!」
「―――本当か?」
ラナは、強い疑いの籠った視線をユースチアンに向ける。が、ユースチアンは真っ直ぐにラナを見返した。ラナは気圧されたような顔をして俯く。
ユースチアンの話が本当なら、全て解決するだろう。だが、もし助かりたい為の嘘だとしたら、ユースチアンは秘鍵を手に入れる為に自分を騙そうとしていることになる。秘鍵の力を考えれば、例え長を敵に回してでも、手に入れるメリットは在るだろう―――
「……ええい、もう良い! 私は行くから、ラナはあの女達の所に行ってくれ!」
俯いたままのラナに言い、ユースチアンは踵を返す。
その言葉で、ラナは決断した。
走り出そうとしたユースチアンの手を掴み―――ラナは言う。
「……近道が在る。付いて来い……逃がしてやるから、助けてくれ」
体が熱い。
全身を内側から燃やされているような気がする。同時に、鎖で締め上げられているような息苦しさも感じる。
「……、」
もうすぐだ、と長は自分に言い聞かせた。
もう二度と、人間に同胞を殺させはしない。もう二度と、人間と争いなどしない。
だが―――今の自分は、何をしている?
亜人が幾ら生まれても、キーマ族が幾ら増えても、人間が自分達を見る目は変わらない。女を攫えば、逆効果なのは明白だろうに。
今自分は、何を殺そうとしている? 何の為に? 何の利が在って? その行為は、誰が望んでいる?
他でもない―――自分だ。
では、自分は―――自分が自分と信じている自分は―――誰だ?
巨大な長の体が、岩肌を削って近付いてくる。鍾乳石が飛び散り、彼方此方で悲鳴が上がった。
「長! どうか、どうかお鎮まりください!」
洞窟の出口で、太陽を背に両手を広げるのは、ラナだ。
「貴方は秘鍵に操られているのです! じきに『鍵の守り人』がいらっしゃいます! あの子……ユースチアンは、貴方を助けようと鍵を奪ったのです! ですから――――」
黙れ裏切り者。長の目はそう言っていた。ラナは唇を噛む。
左手で、長はラナを握る。少しでも力を入れれば、人間の形に変化している身では、すぐに潰れて死ぬだろう。が、それでもラナは、長を見上げて言葉を続ける。
「悪いのは秘鍵です……長、どうか……」
長が力を左手に籠めると、ラナは苦しそうな顔になる。骨が数本、折れる感触がした。が、長は構わず、潰しかねない勢いでラナを握る。
瞬間―――
長の視界に、巨大な異物が現れた。
巨大と言っても、長より数回り小さい飛竜だ。長の腕を跨いで着地し、飛竜は長を睨み上げる。
「―――――っ!?」
その飛竜の背に在る人影に、長はラナを放して退いた。二つの人影は地面に降り立ち、長に近付く。
黒いローブを纏った、青年らしい人影が、自分を見上げた。風が髪を靡かせ、その、前髪に隠されていた右目が露わになる。
「鎮まれ、『与えられし者』」
それは、余りにも涼やかな―――救済宣言だった。
長の体が力を失い、洞窟の中に倒れ込む。ユースチアンは、その巨体に近付くセラフィムに駆け寄った。
「ユースチアン、秘鍵を見たんだろう。何処に持っていた」
「……ええと、それは、」
「秘鍵の気配がしたから来たんだ。何処に在る」
セラフィムはユースチアンを振り返る。ユースチアンは言い辛そうに目を逸らし、ポケットから秘鍵を取り出してセラフィムに見せた。
「その……体から剥がせば、長殿も正気に戻るかと思って……」
「………………」
セラフィムは無言のまま、ユースチアンの掌から秘鍵を取る。
「何て無茶を……」
「……やはり、怒っているか?」
ユースチアンは上目遣いにセラフィムを見た。セラフィムはガシガシと頭を掻き、「当然だ」と言う。
「何故、こんなことをした。待っていれば俺が来たのに」
「……一刻も早く、皆を助けたかった」
ユースチアンは俯く。
「それに……私にも、何か出来ることは在るだろうと……セラフィムに頼ってばかりでは、この先何が在るか分からないのだし―――ふわっ!?」
ユースチアンが顔を上げ―――その鼻を、セラフィムが摘む。
「……?」
「頼ってくれて良いんだよ、ユースチアン。お前が無理して強くなる必要は無い」
セラフィムはそして、優しさの滲む苦笑を見せる。
「お前も、ジュドも。まだ子供なんだ。出来ないことは沢山在るし、気持ちに能力が追い付かないことが殆どだ。自分の領分を超えて怪我するよりは、頼ってくれた方が良い」
「……でも、」
ユースチアンは、長の血が付いた短刀を握り、セラフィムを見上げる。
「もしこの手で守れるものが在るなら―――その努力を止めたくはない」
「……そうか。まあ、その気概は買えるが」
セラフィムは何を思ったか、そっとユースチアンの頭に手を遣る。
「……あれ?」
セラフィムが軽く力を入れただけで、ユースチアンはあっさりとセラフィムの胸の中に倒れ込んでいた。セラフィムは片手でユースチアンの頭を撫でながら、言葉を続ける。
「足。震えているだろうが」
「う……」
セラフィムはユースチアンを支え、出入り口付近で人型になっているジュドを振り返る。
「無理させて悪かったな、ジュド」
「別に……飛んだら、少しマシになったし」
ジュドは言いながら、髪に付けてあるビーズの髪飾りを弄る。
「……また拗ねているのか」
「別に拗ねてねーし」
ジュドはしかし、露骨に唇を尖らせる。その様子に、セラフィムはまた苦笑した。
ユースチアンが洞窟を振り返ると、何か言いたそうに、ラナが立っていた。
「どうした?」
「その……礼を言う。私が止めなければいけなかったのに……一族を巻き込んで、女達を巻き込んで……お前が、お前達が来てくれなかったら、長はどうなっていたか分からない」
ラナはユースチアンの手を取る。
「まだ町に居るか? 渡したいものも在るし、後でちゃんと礼を言いに行きたい」
「……セラフィム?」
ユースチアンが訊くと、セラフィムは小さく頷いた。
「【イスカリオテ】の百三、百四と……【アザゼル】の百十、【ノア】の百八か。これで秘鍵はあと九本だ」
セラフィムは、束に通した秘鍵を指でなぞり、列挙する。
「しかし、四本も持っていて……よく今まで見つからなかったな」
「誰かに憑りついていれば、その魂に気配が隠れてしまうからな。だから見付けにくいんだが」
セラフィムはそして、旅支度を鞄に詰め込んで町を振り返る。見送りには、町に帰った少女達と、ラナが居た。
「ユースチアン」
ラナがユースチアンに駆け寄り、何かをその手に握らせた。
「……これは?」
「私の鱗で作った笛だ。私を一度呼び出せる。何か在ったら呼べ」
「……大切なものだろう? 良いのか、私などに渡して」
「お前だから渡せるんだ。本当に感謝している。いつか何か在ったら、呼んでくれ」
そしてラナは、ユースチアンの手を握ったまま、ジュドをちらりと見る。
「これからも、ロナを頼む」
「……え?」
そしてラナは初めて、輝くような笑顔を見せた。セラフィムがユースチアンを呼び、ジュドがその襟を引っ張ってラナから引き剥がす。ラナは朗らかに手を振った。
「―――ジュド」
「あ?」
「お前、歳は?」
改めて歩き出しながら、ユースチアンはジュドを見上げる。
「……まだ七歳だけど。それが何だよ」
ジュドの言葉に、ユースチアンは目を瞬かせ―――疲れたような笑みを見せた。
「何が可笑しいんだよ」
「別に……」
ユースチアンはそして、嫌な顔をするジュドの頭を、乱雑に撫でた。




