Ⅲ
Ⅲ
静寂が満ちた『聖ロト・クライスト・スカルラットの湖』に浮かぶ門の前に佇み、ツェーンは溜息を吐いた。
「しつこいねー、君達も」
ツェーンが見上げる夜空には、白い布の塊のようなものが多数飛び回っている。ツェーンが手を振ると、向かってきていたそのうちの一つが消失した。
「無駄だよ。君達三下じゃ、俺達には勝てない」
ツェーンが両手を胸の前で叩くと、ぶわっ、と、青白い光が広がり、白い塊が退く。
「やっぱり焦ってるね? 百五十年だ、仕方ないだろう、が……」
ツェーンは笑みを深める。白いものは小さな槍をツェーンに向けた。
「あまり騒がないてくれよ。子供達が寝てるんだ。『方舟』でくらい、のんびり寝かせてやってくれよ」
ツェーンは、攻撃を緩める気配が無いと見ると、溜息を吐いて空を見上げる。
「悪かったよ。確かに、カリソメのツクリモノが、長く生き過ぎているとは思う。だけど、仮にも俺達は生きてるんだよ。『鍵の守り人』が、今はこの世界の――――」
悲鳴のような音を、白いものが発す。それに顔を顰め、ツェーンは俯いた。
「―――ああそうかい、分かる気は無いって。分かってるよ」
ツェーンは肩を竦める。
「でも。『ドグマ』如きが―――何の権利が在って、干渉するのかな」
ツェーンが指を振った。その周囲で水面がさざめき、水球が空中に浮きあがる。
『さあ、黙って貰おうか。いい加減、我々も怒るよ?』
ツェーンの声に、別人の声が混じる。水球は鋭く飛び、水の槍となって白いものを貫いた。
ぎっ、と、白いものが怯んだような声を出す。畳みかけるようなツェーンの攻撃に、遂に白いものは逃げ出した。
「……やれやれ」
門に背を預け、ツェーンは息を吐く。
「……ま、間違っているのは、俺達の方なんだろうけど、さ」
そしてツェーンは、自嘲気味の笑みを零した。
「貴方は誰?」
ユースチアンは、自分の前に立つ少女を見て言う。
灰の地面と、生き物の気配のしない風景。何処か既視感を覚える景色だった。
そうだ、自分は此処に来たことが在る。あの時は―――そう、真名を探して、此処に行き着いた。
その時と違うのは、立っている人影が、『鍵の守り人』らしき人物ではなく、背の低い少女だということだ。ユースチアンは灰を踏み、少女に近づいた。
「貴方は誰?」
「………………」
少女は顔を上げる。その、自分と同じエメラルド色の目に、ユースチアンははっとした。
「……私?」
少女は肯定するように小さく頷く。そして、くるりと踵を返すと、何も無い荒野を歩きだした。
「え、ちょっと?」
ユースチアンは少女の後を追う。少女は振り返ると、来い、と言うように手を顔の前で動かした。
ユースチアンが追いつくと、少女はユースチアンの手を取る。
「……?」
少女に引かれて、ユースチアンは歩き出す。無機質な風が頬を撫でた。灰の苦い臭いが、それに乗って鼻を擽る。
「……何処に行くの?」
少女は答えない。
「貴方は―――【イスカリオテ】なの?」
少女はやはり答えない。ユースチアンは溜息を吐いた。
少女は、何も無い所で立ち止まる。当然、振り返っても、景色は少しも変わっていなかった。空は無機質な色で、地平線まで何も無い。
「ねえ、此処は何処なの?」
少女は振り返った。
「ここはね、」
少女がにっこりと微笑み、ユースチアンを見上げる、
「皆の、願いが叶う場所だよ」
少女はそして、両手を広げて見せる。ユースチアンが困惑顔になると、少女は笑みを怪しく深めた。
「貴方は、何が欲しい?」
少女は両手を広げる。
「何でも在るよ。何が欲しい?」
「……じゃあ、教えてよ。此処は何処? 貴方は誰?」
少女は目を細めた。
「良いよ。此処は、鏡の中」
少女はそして、くるりと回って見せる。
「鏡は、本当のことを映すんでしょう? 此処は、その鏡の中なんだよ。私はね、その一部、かな」
「……?」
ユースチアンは顔の困惑を深める。が、少女は構わず朗らかに笑った。
「さあ、次の願いは?」
ベッドに横たわるユースチアンの額に手を遣り、セラフィムは息を吐く。
「今のところ、【イスカリオテ】が過干渉はしていないみたいだが……不味いな」
「ショックで心のバランスが崩れて、付け込まれたのか」
セラフィムの隣に立ち、ツェーンは顎に手を当てる。
「しっかりしろよエルフ。お前、『鍵の守り人』だろう」
「……はいはい。ジュド、ちょっと出てろ」
「……はーい」
嫌々、と言った様子で、ジュドは部屋から出て行った。セラフィムは腰から秘鍵の束を取り出し、一番大きな輪を口に咥える。そして、ユースチアンの顔の両側に手を付き、額を触れさせた。
「――――っ!」
セラフィムの髪が、魔力で逆立つ。セラフィムは目を閉じ、歯の間から息を吐く。
「……返してくれ、【イスカリオテ】」
セラフィムの左頬の十字架が、青白い光を纏う。
「その女は、『鍵の守り人』じゃない――――人間なんだ」
「さあ、次の願いは?」
「喉が渇いたの? はい、林檎を絞ったジュース」
「お腹空いた? パンで良い?」
「寂しい? 良いよ、話し相手になるよ?」
「風景が嫌? ううん、それじゃ花でも咲かせようか」
「五月蝿い? はーい、ちょっと黙りまーす」
少女は、膝を抱えて俯くユースチアンの前にしゃがむ。ユースチアンの周囲には、籠に入ったパンや、コップ一杯のジュース、取って付けたような花が散らばっていた。
「……、」
「ん? なーに、聞こえない」
「かえして……」
ユースチアンは、抑揚の無い声で呟く。
「私を、元の世界に帰して……」
少女は暫時目を瞬かせ―――そして、にっこりと笑う。
「だーめ。何回も言うけど、此処は同じ世界の中なんだよ? 貴方は、自分の目まで疑う気? 此処は同じ世界なんだから、何処にも、帰る場所なんて無いんだよ」
「…………」
ユースチアンは俯く。少女は笑顔のまま―――それこそ、貼り付けたような笑顔のままで、ユースチアンの顔を覗き込んだ。
「ね、そろそろ、音を上げたら?」
「……五月蝿い……」
少女はくすくすと笑う。そして、その小さな手がユースチアンの頬に近付き―――
「其処までだ」
涼やかな声が、その手を止めた。ユースチアンははっとして顔を上げる。
「其処までにして貰おうか、【イスカリオテ】」
灰の地面を踏み付け、現れたのは―――黒いローブを纏った青年だった。
「……セラフィム……?」
ユースチアンは立ち上がり、ふらつくようにセラフィムに近付く。そして、転びかけてセラフィムに受け止められた。
「帰ろうか、ユースチアン」
「うん……」
セラフィムはそして、少女を睨む。
「【イスカリオテ】。お前が手を出そうとしているのは、『鍵の守り人』じゃない、只の人間なんだ」
「だから何?」
「お前達の適合者は、『鍵の守り人』の魂だけだろう。他の人間に手を出すな」
少女はその言葉に、笑みを深める。
「この世界に、何人人間が居ると思ってるの? それに、適合者である必要も無いし」
「お前は何億人殺す気だ」
セラフィムの声音に、ユースチアンが思わず息を飲む。少女はなおも、薄い笑みを浮かべて言葉を続ける。
「それくらいの確率なんだ、適合者は。早く出て来い」
「やーだね」
くるりと少女は回転し―――その姿が、煙のように消える。セラフィムは舌打ちをした。
「セラフィム……?」
「済まない。お前に今、大変な負担をかけている―――終わろう」
「え?」
「帰るんだよ、元の世界に」
そしてセラフィムは微笑む。ユースチアンは至近距離でその顔を見上げ、微かに頬を染めた。
セラフィムの手が、ユースチアンの目に翳される。ふっ、と、ユースチアンの体から力が抜け、ユースチアンは崩れ落ちた。
「………………」
セラフィムはユースチアンを背負い、無機質な世界を見回す。
「―――返せないよ」
そして、セラフィムは歩き出す。
「この世界は返せない。どれ程、残酷な嘘に満ちていても、な」
生温い風が、二人を包む。苦笑し、セラフィムは足を止めて天穹を見上げた。
人気の無い『方舟』の街並みを歩きながら、セラフィムは深い溜息を吐いた。未だ、全身に纏わり付くような疲労感が消えない。
「……誰だ、あんたは」
険の在る口調で、セラフィムは言う。彼の前には―――彼が見ている景色には、他人には見えないであろう『影』が見えていた。
「あんたらなんか知らないんだよ……消えてくれ……!」
同時に、声も聞こえている。本来無人である筈の通りには、セラフィムにだけ見える喧騒が満ちていた。
皆が、自分を見て親しげに声を掛けてくる。が、自分が何と言おうと、所詮幻像である彼らは答えてくれなかった。
セラフィムは、銀の懐中時計を開き、その止まった針を暫し見詰める。すう……と、セラフィムの顔から表情が洗われた。
「『嗚呼、そろそろ時間だ』」
セラフィムは機械的に言い、足を止めた。幻像の時計の針と、セラフィムの時計の針が、同じ位置になる。
「七月十日、午後三時五十二分――――『贖罪の開始』」
セラフィムは確かめるように呟いた。その口調からは、先刻のような苦痛は一切感じられない。まるで、別人のような口調だった。
相変わらず、『方舟』は、ぞっとするほどの静寂に包まれている。が―――
セラフィムが見ている幻像は、その色を変えていた。空は血のように赤くなり、爆音が鼓膜を叩く。人々は悲鳴と怒号を飛ばしながら逃げ惑い、家が燃え始める。空から落下してきた炎の塊が、世界を地獄絵図に変えていた。
が、そのどの『悲劇』も、セラフィムには届かない。所詮これは幻像で、自分が立っているのは『方舟』だからだ。
だが―――セラフィムの表情は苦痛に縁取られていた。
「……痛……」
セラフィムは頭を掴んで顔を顰めた。
酷い頭痛がする。この幻像も、別に望んで見ている訳では無い。『方舟』に居て、この時間だからこそ、勝手に見えているのだ。
ラケルとの会話よりも、この時間の方が、セラフィムには多大な負担を強いられる。それでも、目を逸らす気にはなれなかった。
「―――セラフィム」
壁に凭れ掛かって俯くセラフィムに、ツェーンが近付く。
「大丈夫か」
「……平気だ……『鍵の守り人』の義務なんだから、いちいち音を上げてられない」
「だがなぁ……俺達は第二世代なんだし」
「だから、何だ」
セラフィムの強い口調に、ツェーンが溜息を吐く。
「第二世代だからって甘えていられない。第一世代だろうが第二世代だろうが、『鍵の守り人』には変わりが無い」
「……でも、」
ツェーンの表情が曇った。
「セラフィム、このままじゃどうやったって―――お前は死ぬぞ」
ツェーンの言葉に、セラフィムは青白い顔を笑わせる。
「同じだ。どう転んだって死ぬ。人間は死ぬ、そんな簡単な真理くらい、知ってる」
そして、セラフィムはツェーンを見上げた。
「スフ。あんたも、その覚悟の上だった筈だ」
「……お前ほど、思い詰めてはいなかったさ」
ツェーンは肩を竦める。そして、溜息と共に座り込んだセラフィムの前にしゃがんだ。
「明日から、お前はまた秘鍵の回収に行く。今日はもう休んでおけ。ユーちゃんも帰ってきたんだし」
ツェーンはそして、誰も居ない通りに目をやる。
「……もう、お前と同じものは俺には見えないよ。だけど、」
「『覚えている』―――だろう」
セラフィムは薄く笑った。その笑顔は、世の中の酸いも甘いも全て味わってきたかのような、悟った老人のような色を帯びていた。
「分かってる。本当は全部―――でも、俺は『鍵の守り人』で在る以前に、俺だ」
セラフィムは立ち上がり、ツェーンを見下ろす。
「第二世代は確かに脆弱だ。だけど、第一世代ほど操り人形でもない」
「……はいはい。それを、第二世代の俺に言われても、ね」
「あんた等は『回帰』だろう。全員に言ってるんだよ」
セラフィムはそして踵を返し、足早に歩き去った。
「……セラフィム・スーザ・スカルラット……」
立ち上がりながら―――ツェーンの姿が変化する。眼帯は消え、優しげな目をした―――しかし、何処か寂しげな青年が現れた。
「お前なら、分かってくれる筈だ……この私の、真の願いも」
青年はそして、静かに目を閉じた。
「彼らのことを知らなくても、苦しんでくれているだろう……セラフィム、お前はもう、十分に『私』だよ」
青年の顔に、悲しげな笑みが浮かぶ。
「君が消えてしまう前に、全てを終わらせたい」
「……うー……」
ベッドに横になったまま、ユースチアンは唸る。
目が覚めたのは昼過ぎだった。随分と長く眠っていた気がするが、実際はそうでもなかったらしい。
眠っている間、何か嫌な夢を見ていた気がするが、殆ど思い出せない。セラフィムなら何か知っているかと思ったが、セラフィムは目覚めた時は既に仕事に出ていた。
この『方舟』の空気は、少々外の世界と違うらしい。外の世界が澄んでいるとしたら、この『方舟』は、確かに澄んではいるのだが―――何処か、嘘臭いものがあった。
例えば、街並みは在るのに、人の気配どころか、生き物の気配そのものが無いとか。
あの『回帰』と呼ばれる人は此処に住んで居る筈なのに、その気配が無いとか。
まあそもそも、セラフィムの話を信じるなら、あの『回帰』とやらは死者の集合体らしいので、生活臭が無いのは仕方の無いことなのかも知れないが―――
「ユースチアン、そろそろ起きられるか?」
ドアを開き、カップを持ったジュドが顔を出す。ユースチアンは頷いて体を起こした。
「ほらよ。スフさんから」
ジュドは木のカップに入ったスープをユースチアンに突き出す。
「すふ?」
「ツェーンさんの仮名だ。後でちゃんと名乗って貰えよ、仮名、『回帰』十人分」
「……はいはい、どうもな」
ユースチアンはカップを受け取った。ジュドは珍しく不快そうな顔をせず、ユースチアンの隣に椅子を持ってきて座る。
「……調子が悪いのか?」
意外な行動に、ユースチアンは顔を上げてジュドを見る。ジュドはユースチアンを睨むが、特に反論もしなかった。
「……不定期が近いんだよ」
「……ああ、そういえばお前、亜人だったな」
ジュドはちらりとユースチアンを見る。が、ユースチアンはそれに気付かなかった。
「明後日くらいからかも知れない」
「そうか。セラフィムには?」
「……セラフィーは今、忙しい……から」
歯切れの悪いジュドの言葉に、ユースチアンは何かを察したような顔になる。そしてにやりとし、ベッドの縁に座った。
「寂しいのか」
「あ?」
「寂しいんだな、セラフィムが居なくて」
ユースチアンの言葉に、ジュドは一瞬顔を赤くして、怒ったような表情になる。
「五月蝿いな、そんなわけねぇだろ」
「顔に書いてあるがなぁ」
「はあ!?」
ジュドは自分の顔に手を遣る。その動作が妙に子供じみていて、ユースチアンはまた笑った。
「うう……とにかく、寂しくなんかないからな! 明日からはまた一緒に旅だし!」
「それって寂しいと言っていないか?」
「ううう五月蝿い!」
ジュドは立ち上がる。ムキになっているようだ。
「何なんだよもう! そんなに面白いかよ!」
「いや、可愛いなぁと」
「がっっ……ガキ扱いするなよ!」
「というかジュド、お前何歳だ? 若いよな。どうして、セラフィムと一緒に?」
「――――、」
何気無いユースチアンの質問に、ジュドの顔が暗くなる。
「……ジュド?」
「五月蝿い」
ジュドは素っ気無く言い、踵を返して部屋を出ていく。その反応に、ユースチアンは何か、ジュドの琴線に触れることを言ってしまったのだと感じた。
「ジュド、悪い、何か不快だったか?」
「……別に」
ジュドは隣室で、壁際に座って膝を抱える。ユースチアンが近付いてくると、ふい、と顔を背けた。
「……ジュド……」
「………………」
ユースチアンはジュドの前にしゃがみ、
「むわっ!?」
両手でその頬を引っ張った。
「ふて腐れているだけでは分からない。話してくれ」
「………………」
頬をさすり、ジュドはユースチアンを睨み上げる。
「……嫌なんだよ」
「?」
「セラフィーは絶対、俺を裏切ったりしない。だけど、他の人間は分からない」
ジュドは微かに目を伏せた。
「だから、他の人間と関わるなんて嫌だ」
「私は?」
「言ってるだろ、嫌いだ」
ジュドの、自分に言い聞かせるような声音に、ユースチアンは溜息を吐く。
「子供だな」
「………………」
意外にも、ジュドの反論は無かった。ユースチアンは寝室に戻り、カップを持ってリビングへと向かう。
「あ、セラフィム……」
「ああ、ただいま」
セラフィムはいつも通りに淡々とした口調で言い、カップを持って台所に向かった。間もなく、カップに一杯の水を持って戻ってくる。
「外で、何を?」
「『鍵の守り人』の仕事だ」
セラフィムは水を一気に呷り、深い息を吐く。いつも白い顔が、今日は一段と色を失っていた。
「七月十日の、確認……『鍵の守り人』の魔法の、掛け直しだ」
「『鍵の守り人』の……それは、セラフィムを『鍵の守り人』足らしめている魔法か?」
「ああ」
セラフィムは頭に手を遣って、また息を吐いた。
「……それは良いが、セラフィム」
ユースチアンは、見るからに疲れているセラフィムを見て言った。
「ジュドが、もうすぐ不定期だそうだ。少しは気に掛けてやったら―――」
「知っている」
セラフィムはユースチアンの言葉を遮って言う。
「ジュドの不定期の周期くらいは把握しているし、この『方舟』での二日間も、毎年のことだ。ジュドだって分かっている……筈だ」
珍しく、セラフィムの声音に迷いが混じる。
「……疲れているか?」
「昨日今日と、大きな魔法を立て続けに使うからな。しかも、余計な仕事も増えた……疲れもするだろう」
セラフィムはそして、自嘲気味の笑みを浮かべる。
「第一世代なら、楽にこなして見せるのだろうな」
「第一世代?」
「『鍵の守り人』の世代だ。ロトは自らの魂を分断したが、魔力の関係で、全てを収める器を創り出せなかった……ロトの手によらない『鍵の守り人』が、第二世代だ」
「……ふーん?」
「……いや、理解しなくていいが。とにかく、第一世代より第二世代が脆弱なんだ」
セラフィムはそして、カップを流し台に置き、リビングを出る。後ろ手で雑に扉を閉める姿からは、いつもの凛とした雰囲気が失われていた。
「……ジュドー」
間延びした口調で、セラフィムが言う。寝室前に座っていたジュドは、弾かれるように立ち上がった。
「……明日からの予定だが。お前も不定期に入ることだし、ルイナ国側の……竜の洞窟に近い町に行こうと思うんだが。キーマ族が多いし、嫌なら……」
「俺は、セラフィーが行きたい所に行きたい」
ジュドの言葉に、セラフィムは苦笑する。
「気持ちは嬉しいが、俺は、ジュドが嫌じゃない所に行きたい」
「……平気だ。もう」
ジュドは答え、セラフィムは「そうか」と呟いた。そして、ジュドの頭に手を遣る。
「……無理はするなよ」
「うん」
ジュドは俯いた。セラフィムは何度か雑にジュドの頭を撫で、微笑む。
「何か在ったら言えよ」
「うん……」
ジュドは頭を、セラフィムの胸に押し付ける。そして、両手でセラフィムのローブを握った。
「……セラフィー、あとどれくらい、一緒に居られる?」
「死ぬまで」
セラフィムはあっさりと答えた。
「大丈夫だ。お前を一人になんか出来ない。一緒に居るよ」
「―――うん」
ジュドの声音が、酷く幼いものを帯びる。
「不定期は町に入れないな……まあ、ユースチアンも数日の野宿ぐらい平気だろう」
「彼奴だけ町には?」
「駄目だ。今度こそ、【イスカリオテ】に取り込まれるかも知れない」
「……贔屓」
「仕方ないだろうが、仕事なんだから」
セラフィムは微かに困ったような顔になる。ジュドは顔を上げ、小さく笑った。
「分かってるよ。ちょっと拗ねただけだ」
「拗ねるなよ」
ジュドはセラフィムを見上げる。
「約束してくれ、セラフィム」
ジュドはセラフィムに向かって、小指を立てた左手を突き出した。
「全部終わらせて、全部、上手く行って。そしたらまた、一緒に旅をしよう」
「……ああ、約束だ」
セラフィムは微笑み、ジュドの小指に自分の小指を絡める。
「全部終わったら、秘鍵の回収に追われることも無い。一緒に、大陸中を旅しよう」
セラフィムは繰り返し、嬉しそうに笑うジュドを見て目を細めた。
青いガラスの門を抜け、ユースチアンは大きく息を吸った。
「嗚呼―――何だか久し振りに感じるな。昨日以来の筈なのに」
ユースチアンは蒼穹を見上げる。『方舟』の空とは違う、抜けるような青空が広がっていた。
「じゃあ、行ってらしゃい、三人とも……いつでも帰っておいでよ。此処は、皆の故郷なんだから」
見送りに出てきた『回帰』の青年、ツェーンは、水の上に立つ三人に笑顔で手を振る。
「……あの、ツェーンさん」
「ん?」
「仮名を教えてくれませんか?」
ユースチアンの言葉に、ツェーンは一瞬、驚いたような顔になり、それから優しく微笑む。そして、門の向こうに立ったまま、芝居がかった仕草で礼をした。
「スフ・エルレ・スカルラット。第二世代一代目、十番目。真名はセラフィムに同じ」
そしてユースチアンを見、仮面のような笑顔を見せる。
「以後、お見知り置きを。ユースチアン王女」
「あ、はい……?」
その言葉に違和感を覚えるが、その理由に行き付く前に、門は閉じていた。
「……なあセラフィム」
「何だ」
「私、あの人に名乗ったか?」
「名乗っただろう、入り口で」
「……だが……」
何かおかしい。ユースチアンはセラフィムに引っ張られて歩きながら考え―――
「あ……!」
違和感の理由に行き付き、顔色を変えた。
「王女……!?」
そうだ、とユースチアンは呟く。自分は一度たりとも、『回帰』に自分が王女だと告げていない。
「セラフィム、私が王女だと、あの人に言ったのか?」
「いや。必要無いだろう」
「じゃあ、どうして……」
ユースチアンは門を振り返る。が―――水から浮き上がっていた門は、既にその姿を消していた。
「……結局、謎ばかりが残った」
ユースチアンは少々不満そうな顔になる。が、セラフィムは振り返らず、只、ユースチアンの手を握る力を強めただけだった。
「ユースチアン」
岩に座り、セラフィムはローブから小さな輪を取り出し、ユースチアンに差し出す。
「手首に填めて置け。【イスカリオテ】の力を抑え込む―――多少だが」
「………………」
ユースチアンはそれを受け取る。空色の透明な輪で、手首が余裕をもって入る程度の大きさだ。
「美しいな」
「ああ、流石ゼクスはセンスがいい」
「……?」
「……『回帰』の一人だ」
セラフィムはその輪を取り、ユースチアンの左手に右手を添える。
「……まだ、生きたいだろう」
「当然だ」
間髪入れずにユースチアンは返す。セラフィムは小さく笑った。
「それで良い。それを生かすのが、俺達の仕事だ」
パチン、と、留め具が鳴る。ユースチアンの手首に、輪が固定された。
「どんな状況でも、生きたいという本能は残っている。それが人間だ」
セラフィムの笑みに、仄暗いものが混じる。
「…………ロトは、」
ユースチアンは顔を上げるが、その質問が完全に口にされる前に、セラフィムはユースチアンに背を向けてそれを拒絶した。
「ジュド、飛べそうか」
ジュドは既に、飛竜の姿に戻っていた。セラフィムが近付くと長い首をもたげ、頭をセラフィムに近付ける。
「……そうか。じゃあ今日の移動は町の近くまでにして置くか」
「セラフィム、ジュドの言葉が分かるのか?」
ユースチアンは驚いたように言う。飛竜の状態のジュドは、唸り声のようなものしか発せないようだが、セラフィムは平気で会話をして見せる。
「―――【通心のノア】の力だ。あらゆる生き物と、心を通わせる力」
セラフィムはちらりと、秘鍵の束の中の、透き通るような白い鍵を見せる。そして、ひらりとジュドの背に乗った。
「急げユースチアン。ジュドの負担になる」
「……はいはい」
呆れ半分でユースチアンは苦笑した。
何だかんだでセラフィムは、ジュドをかなり大切に扱っている。ジュドもそれを分かって、懐いているのだろう。
「……家族、か」
ジュドは自分を、セラフィムの家族だと言った。ユースチアンは、少しばかり、そんな二人の関係を羨ましく思う。
自分は、『当たり前』の家族を経験していない。
王女として生まれ育ったにしては、自分はどうしようもなく出来の悪い女だった。
舞や竪琴の練習よりは、男達と剣を交わらせるのが好きだったし、帝王学や歴史学の眠くなる授業を聞かされるよりは、城下で平民たちに交じって泥だらけで遊ぶほうが好きだった。兄達は自分を嗤ったし、父親は疎み、母親は嘆いた。
ユースチアンにとっての家族は、国の為に利用しあうだけの集団だった。勿論家族での食事などは在ったが、王族が一堂に会せばそれだけ暗殺の危険も高まる。その為、基本的には、公務以外で顔を合わせることも無かった。
親族だと自覚していても、深くは関わり合わない。それに慣れてしまったユースチアンには、セラフィムとジュドのような、『当たり前』の家族の姿は、酷く眩しく見えた。
当然、血縁関係は無いだろうし、親子とも兄弟とも付かない距離感ではあろう。それでも、二人の姿は間違い無く、ユースチアンにとっては『家族』であった。
ジュドの背に乗り、ユースチアンはセラフィムに掴まる。
「次は、何処に?」
「ルイナ国だ」
セラフィムは口元を布で覆った。
「……なあ、セラフィム」
「何だ」
「私も……入れるか?」
何に、と言いたげにセラフィムは軽く振り返る。ユースチアンはセラフィムのローブを握ったまま、上目遣いにセラフィムを見た。
「お前達の仲間に―――入れるか?」
ユースチアンの言葉に、セラフィムは暫時、目を瞬かせてユースチアンを見詰めていた。そして何を思ったか、小さく笑う。
「な、何だ、私がそんな女々しいことを言ったら悪いか!?」
ユースチアンは照れたように言い返すが、セラフィムは笑みを浮かべたまま返した。
「当然だ……もう仲間だろう」
セラフィムは前を向き、言葉を続ける。その言葉に、ユースチアンの頬が緩んだ。
「俺は、信頼できる仲間しか、『方舟』に迎えないことにしている」
「………………」
ユースチアンは、きゅう、とセラフィムのローブを握る。そして、その背中に、額を押し付けた。
嗚呼、温かい。
ユースチアンは口元に笑みを浮かべる。
初めは、前途多難だと思っていた『鍵の守り人』との旅も―――案外に、悪くないかも知れない。