Ⅱ
Ⅱ
旧文明サディムの聖地、『聖ロト・クライスト・スカルラットの湖』は、全方を山で囲まれ、アーサーシーエンの他、四つの国と接している。しかし山のせいで、どの国からもその内側を見ることは出来ず、全ての国が、『鍵の守り人』との契約で立ち入りを禁じていた。
灰色の稜線を超えた先を見るのは、だから、ユースチアンも初めてであった。
「――――凄い」
ジュドの背から湖を見下ろし、ユースチアンは呟く。
町どころか、アーサーシーエンの王都ですら入りそうな程巨大な湖は、驚く程に澄んでいた。全方を円状に囲む山は、稜線を超えた部分から白く変色しており、水色の湖を縁取っている。湖は鏡のように凪いでいたが、ジュドが着地する際の風で、小さく漣が立った。
湖を覗き込めば、石造りの街が沈んでいるのが見える。魚などは居らず、街は微かな生物の気配もしない。
湖、と言うよりは、山に囲まれた都市が水に沈んだようであった。
「これが……聖地」
ユースチアンはジュドの背から降り、軽く身震いをする。ジュドは人型になり、不機嫌そうな顔で赤銅色の髪を撫で上げた。
「で? 此処に来て、何か儀式でもするのか?」
「ああ。取り敢えず中に入ろう」
「……中?」
ユースチアンはセラフィムを振り返り、首を捻って湖を指差す。セラフィムは肯定するように頷いた。
セラフィムは湖に近付き、秘鍵の束を腰から外す。そして数度、シャン、とそれを鳴らした。
湖全体が共鳴するように、小さい筈の鍵の音が木霊する。と―――湖がさざめき、水が空中に浮きあがった。
「……凄い」
ユースチアンはまた呟く。セラフィムは空中に手を向けた。透き通った水は空中で形を取り、美しい門の形に変わった。
「さあ、帰るぞ」
「え?」
セラフィムが、ユースチアンに手を差し出し、言う。
「…………」
ジュドがむっとして、ばしっ、と、差し出されていたセラフィムの手を取る。その様子に、セラフィムは頭の布の端を摘んで俯いた。苦笑したらしい。
「では。開門だ」
空中に現れた水の門に向かい、セラフィムは宣言する。
重々しい音と共に、門が開いた。
「……え?」
ユースチアンは思わず、我が目を疑う。空中には、門だけが浮いていたのだが―――その向こうには、門と同じく青いガラスのような壁で作られた、通路が在った。
セラフィムはジュドの手を握ったまま、無造作に一歩目を踏み出す。
「おい、」
ユースチアンはセラフィムの背に手を向ける。セラフィムの足元には、湖しかない。
「……何を驚いている」
が、平然として、セラフィムは湖の上に立ち、振り返って見せた。その、黒いブーツを履いた足は、水面から微かに浮いている。
「早く来い。門が閉じる前に」
「あ、ああ」
ユースチアンも、恐る恐る、といった様子で一歩目を踏み出した。そしてその足も、やはり、空中に留まり、水面には触れていない。
「――――凄い」
ユースチアンは、何度目か分からない驚嘆の声を漏らした。
三人の足が廊下を踏むと、金属音のようなものが一瞬する。同時に、三人の後方で、音を立てて門が閉まった。
「この廊下を抜ける間、絶対に振り返るな。サディムへの道のルールだ」
「え?」
「それが規則だ。ジュドは、もう何回か来てるから、知ってるな」
「ああ」
ジュドは微かに得意げな顔になる。
「いいかユースチアン。絶対に振り返るな。死にたくなかったらな」
「振り返ると、どうなるのだ」
ユースチアンは横目でセラフィムを見上げた。セラフィムは真っ直ぐに前を見たまま、短く答える。
「塩の柱になる」
それだけ言うと、セラフィムはジュドの手を放し、先に立って歩き出した。
「………………」
ユースチアンは唇を舐めた。青い壁はガラスのように美しいが、距離感が掴めず、遥か遠くに見える小さな光―――恐らくは出口―――までの距離も、定かでない。
左右の壁には等間隔で窪みが在り、其処には甲冑姿の騎士が並んでいた。今にも動き出しそうで、ユースチアンは唾を飲み込む。
ことり、と後方で音がした気がして、ユースチアンは肩を震わせた。
何も居ない。居る筈が無い。自分達―――『鍵の守り人』たるセラフィムが招いた者達以外、入れる筈も無い場所なのだから。
だが、だとしたら? 今のは空耳か? 否、それにしては鮮明に覚えている。あの音は、そう、例えばこの床を、剣の鞘で突いたような――――
ガシャリ、と、今度はもっとはっきりと音がする。
「~っ!」
ユースチアンは、思わず隣に居たジュドの手を掴む。ジュドは振り返らずに歩き続けるが、その横顔が少々迷惑そうに歪められた。
がしゃ、がしゃ、がしゃ、と、足音が近付いてくる。やがてそれは―――すぐ、背後に。
「ふぎゃああああああっ!?」
「だぁあああああっ!?」
ユースチアンの悲鳴に、ジュドが呼応する。
「ぅうるっせぇな!?」
「ご、ごめんでも、」
「振り返んな馬鹿!」
ジュドが、ぐい、とユースチアンの頭を掴む。
「わ、悪い……」
「……急ぐか」
セラフィムが呟き、歩調を速める。ユースチアンは手を伸ばし、セラフィムの手を握った。
「……全く」
呆れたように呟き、セラフィムはユースチアンの手を握り返す。そして鋭く、廊下の先に視線を向けた。
「……、…………」
ユースチアンは不安気な顔になり、胸元で手を握る。
何やら、息苦しくなってきた。昨夜も自分はセラフィム相手に奇行をしたようだが―――何か、自分の中に、得体の知れない者が巣食っているように感じる。
ふわり、と、ユースチアンの鼻を、甘い香りが擽る。ユースチアンは思わず目を細めた。
恐らく、これはセラフィムの匂いだ。セラフィムが纏う、独特な―――
「ユースチアン」
「っ!?」
不意に聞こえた声に、ユースチアンの意識が現実に引き戻される。
「……仕事が終わったら、全部話すから。それまで、我慢してくれ」
セラフィムがそして、出口の前で立ち止まった。
出口に扉は無く、アーチの中が白く輝いていた。そしてそのアーチの両脇には、甲冑姿の騎士が立ち、剣を胸の前に構えている。
「「名を」」
騎士が同時に言う。セラフィムは一歩前に踏み出した。
「仮名は、セラフィム・スーザ・スカルラット。第二世代二代目、十一番目。真名は、『咎を背負いし神の子』」
セラフィムが言うと、騎士は剣を引き、セラフィムの前に跪く。セラフィムはアーチを跨ぎ、光の中で二人を振り返った。
「仮名と真名を告げるんだ。此処まで来れば安全だから」
「……ええと、」
それはつまり、今自分が居る廊下は安全ではないという事だろうか。
そんなユースチアンを尻目に、ジュドがさっさと歩み出て、立ち上がった騎士を睨む。
「仮名はジュド・キーマ。火焔飛竜の亜人、『鍵の守り人』の……家族。真名は、『犠牲者』」
騎士が、ジュドを迎える。ジュドは険しかった顔を緩ませ、セラフィムに駆け寄った。
「さあ、ユースチアンの番だ」
「……だが、私は真名など……」
「分かるから。自分の中を見てみろ」
「……中……?」
セラフィムに言われ、ユースチアンは怪訝そうな顔になる。そして、自分を見下ろす騎士二人に、不安気な視線を向けた。
「中……」
ユースチアンは俯き、目を閉じる。
ぐぅ、と、意識が落ちていくのを感じた。視界が黒に染まり、体の感覚が失われて行く。瞼を貫いていた筈の光も、いつの間にか消えていた。
「――――はっ?」
ユースチアンは顔を上げる。周囲の風景は一変していた。
白い、およそ生き物の気配がしない大地が、地平線まで続いている。砂のような感触だが、手に張り付いても来る――灰のようだ。
ユースチアンは立ち上がった。周囲を見渡しても、同じような景色がずっと広がっているのみだ。
これが、セラフィムの言っていた『中』とやらだろうか。ユースチアンは顔を不安そうに曇らせた。
「……誰も居ないのか?」
ユースチアンは呼び掛ける。が、風が寂しげに吹く以外、物音はしなかった。
「……、」
不安と恐怖と、焦燥が入り混じる。ユースチアンは落ち着かなそうに、何度も周囲を見回した。
そして不意に―――白い世界に、異物が混じる。
「……セラフィム?」
現れた人影は、セラフィムのものに似たローブを纏い、目深にフードを被っていた。手には、分厚い本を持っている。
「セラフィムか? 此処は何処だ―――何だ?」
人影は答えない。代わりに、持っている本を開いた。
「……セラフィム?」
『私はセラフィムじゃない』
何重にも聞こえる、奇妙な声だった。様々な男だけでなく、女の声も交じっている。
「……ならば、誰だ?」
『お前は既に、その答えを知っている』
「………………」
『此処には真名を取りに来たのだろう。長居しないほうがいい』
そしてその人物は、本の表面に指を滑らせる。幾つかの文字が、空中に浮きあがった。
「……それが私の、真名、とやらか?」
『そうだ』
人影は、灰を蹴飛ばすようにしてユースチアンに近付く。ユースチアンは思わず数歩退こうとして、だがそれが出来ずに困惑した顔になった。
『お前の名は、―――』
人影の指先が、ユースチアンの唇に触れた。セラフィムに似た甘い匂いが、ユースチアンを眩ませる。
『さあ、帰ると良い。此処のことは、きっとすぐに忘れる』
人影の、微かに見える口元が微笑む。
「……『鍵の守り人』」
ユースチアンが呟いた瞬間、不意に吹き抜けた風が、人影のフードを揺らす。
にこっ、と、人影が―――セラフィムと同じ、蒼と白の中間の、短く切り揃えられた髪と、不思議な色をした両目が見える。左頬にはやはり、セラフィムと同じ十字架の刻印が在った。
「――――ユダ」
自然と呟き、ユースチアンははっとして顔を上げた。
周囲の風景はまた、青い壁に囲まれた廊下に変わっていた。ユースチアンは振り返ろうとして―――慌てて騎士の方を見る。
「えっと……仮名はユースチアン・リ・アース。真名は……『憐れな裏切り者』」
騎士が退き、ユースチアンは光の中に駆け込む。そして改めて、廊下を振り返ると――
「――――っ!?」
今し方自分が居た場所に、見慣れない騎士が立っていた。
あの足音は本物だったのか、と、ユースチアンの顔が青くなる。が、セラフィムはユースチアンの肩に手を乗せると、些か呆れた顔で騎士を見遣った。
「……何をしているんだ……ツェーンだな」
「あは、ばれたか」
騎士が、頭から兜を外す。右目に眼帯をした、セラフィムに似た青年が顔を出した。
「……?」
奇妙な既視感を覚え、ユースチアンは首を捻るが、その既視感の正体には行き付けなかった。ツェーン、と呼ばれた青年は、薄暗い中で蒼く見える髪を揺らし、二人の騎士の間を素通りして光の中に入ってきた。
「今日は……七月九日か。ぎりぎりだな、お前にしては」
「忙しかったんだよ。ふざけてないで開けてくれ」
「はいはい」
ツェーンはセラフィムに右手を差し出す。セラフィムは何も聞かずに、秘鍵の束をその手に乗せた。
「じゃあ、開こうか」
ツェーンが、何も無いように見える空中に秘鍵を向けた。
「―――『咎は我が手に、ドグマは地にて、束の間なれど、奇跡を宿せ』」
ツェーンが厳かに唱える。一瞬、空間全体に青白い光が走った。
「な、何だ?」
ユースチアンが周囲を見回す。ジュドは露骨に五月蝿そうな顔になった。
轟音と共に、振り返ったツェーンの背後の空間が切れ、扉が現れた。そして開いたその向こうには―――
「ようこそ、『方舟』へ」
ツェーンが示すのは、白い日干し煉瓦で作られた、清潔な街並みだった。
「……湖の中の筈なのに」
ユースチアンは空を見上げる。空には太陽と雲が在り、外と同じく、真夏の日差しが降り注いでいた。
四人が通り過ぎると、青い廊下と繋がっていた門は、壁に吸い込まれるようにして消えた。壁は、元から繋ぎ目など無かったかのように自然な形になる。
「………………」
ユースチアンはその壁を指先でなぞってみるが、やはり、手触りも普通の煉瓦と同じだ。
「これが全て、魔法なのか?」
「まあな」
セラフィムは、首に巻いていた布を外し、ふぅ、と息を吐く。
「此処は、『聖ロト・クライスト・スカルラットの湖』の……中、なのか?」
「そうだ。『鍵の守り人』の本拠地にして、人類全ての故郷―――俺達は、『方舟』と呼んでいる」
「ホーム……」
ユースチアンは、胸いっぱいに息を吸い込む。遥か昔の午後の陽だまりのような、不思議な望郷感を覚えた。
「さて、じゃあ……嗚呼、俺達は沐浴の時間だ。セラフィムはもう七回目だから、一人で行けるよな」
「ああ。案内どうも」
ツェーンは笑い、手を振って街の大通りを走って行く。セラフィムは深い息を吐いた。
「此処には、あの人以外に誰が居るんだ?」
「此処は『鍵の守り人』の本拠地だから、『鍵の守り人』以外は居ないが」
あっさりと、セラフィムは言う。が、ユースチアンは釈然としない、と言った顔で、去って行ったツェーンを指差した。
「……嗚呼、渡すものを忘れていた」
セラフィムは、腰の鞄から林檎を取り出し、ツェーンが去った方向へ向かう。
「なあセラフィム、さっき、ツェーン氏は『俺達』と……」
ユースチアンの言葉に答えず、セラフィムは、街外れの岩場に在る小さな湖に駆け寄り、ひょい、と岩の間を覗いた。
「へっ?」
後を追って顔を出したユースチアンは、思わず素っ頓狂な声を出す。
水に半身を沈めた状態で佇むのは―――ツェーンと同じ髪色で、同じ目の色で、同じ十字架の刻印の在る―――長髪の女だった。
「ちょっっ……セラフィム、女!」
「何だアハトか。さっき渡し忘れてた、置いていく」
セラフィムは気にした様子も無く、林檎を岩の上に置く。アハトと呼ばれた女は振り返った。
「ぉおいっ!」
ユースチアンはセラフィムに飛びつき、その両目を覆う。そしてセラフィムを引きずるようにして湖から離れた。
「……何を」
「こっちの台詞だ! 女じゃないか、やっぱり他の人居るじゃないか!」
「居ないって」
「いや居ただろうが!」
セラフィムは面倒そうに息を吐き、頭を掻く。
「居ないんだよ、此処には」
「……?」
あまりにきっぱりと言われ、ユースチアンは言葉を詰まらせる。
「……どういう意味だ、さっきのツェーン氏と、今の……アハト氏? は、同一人物だと?」
「じき分かる。今は待っていてくれ。俺も仕事が在る」
セラフィムはやれやれと言う顔になる。そしてユースチアンの両肩に手を遣り、すとん、とユースチアンを座らせた。
「暫く此処で待っていてくれ。すぐに終わって、戻ってくる。ジュドの相手でもしててくれ」
「は?」
「『鍵の守り人』の仕事だ」
セラフィムの顔から、青年の顔に似合う―――若者らしい表情が洗われる。それが、それ以上の追及の拒絶だと感じ取り、ユースチアンは口を噤んだ。
セラフィムは踵を返し、道の向こうに歩いて行く。入れ替わりに、岩場の陰から人影が現れた。
「エルフは行ったのか。お前達は……家ででも待つか」
その声の低さに驚いてユースチアンが振り返れば、服を羽織って頭の雫を拭いているのは、先刻見た女ではなく、中年に間も無く差し掛かりそうな男であった。
「……何なんだ」
ユースチアンは、訳が分からない、と、困惑を顔に浮かべた。
ジュドは一人、ぼんやりと街を歩いていた。
「……そろそろ、不定期、かな……」
ジュドは胸元の服を握って、顔を一瞬、苦しげに歪める。
「―――ああ、此処に居たのか、ジュド君」
ジュドが振り返ると、困惑顔のユースチアンを連れたツェーンが居る。
「……ツェーンさん、」
「不定期が近いみたいだね。まあ、此処は皆の家。のんびりしなよ」
「……、」
ジュドは、何か言いたげな顔になるが、ツェーンの笑顔がそれを抑え込む。
「さ、帰ろうか」
ツェーンはジュドの手を一方的に握り、手を引いて歩き出した。
「……満足してるんですか?」
ジュドは、ツェーンの背に向かって言う。
「『鍵の守り人』―――辛くは、無いんですか」
「……義務だからね」
ツェーンはやはり笑顔のまま答える。ジュドはしかし、顔を上げてツェーンに食って掛かる。
「だって、貴方は―――んむっ!?」
振り返ったツェーン……否、背の小さい少女は、ジュドの唇に指を立てて微笑む。
「ジュード。つんけんしないの。人には人の領分っていうものが在るんだからね?」
「……んん……」
「其処から先は、『鍵の守り人』の領分。ジュドはエルフの家族だけど、部外者だから入っちゃダメ!」
少女はそして、くるりと踵を返す。すると、すぐにその姿がツェーンのものに戻った。
「……??」
ユースチアンは更に首を捻った。
街の中心に在る神殿に入り、セラフィムは円形の広間の中心に立つ。
天蓋を見上げれば、丁度、太陽が真上に在り、日光が広間の中心を照らしていた。
「―――ラケル。来たぞ」
セラフィムは大きく両手を広げ、光を受ける。
広間をぐるりと囲む壁には、等間隔に五つの窪みが在り、それぞれに十字の加工が施された石が嵌っていた。
血のような赤、海のような青、森のような緑、太陽のような黄、氷のような白、そして湖のような黄緑。黄緑以外の全ての石が、淡く発光していた。
「明日は贖罪の日。お前も、百五十年目で、もう慣れただろう」
『―――そうだな』
轟音と共に、光が強まり、セラフィムは目を細める。風が唸り、強烈な力の塊が、天窓からセラフィムの前に飛び降りてきた。
「―――くぅ……」
光の塊が発する熱気に、セラフィムは顔を歪める。やがてそれの光は弱まり、セラフィムの前には、日に焼けたような小麦色の肌に金の目、白髪の男が立っていた。
年齢はよく分からない。セラフィムよりは年上に見えるが、若くも見え、角度によっては老人のようにも見える。服は簡素に、麻布を数枚重ねただけのものを纏っていた。
「一年振りか。少々老けたな、『鍵の守り人』」
「五月蝿い。今年の成果だ」
セラフィムは男に向かって秘鍵を見せる。
「……まだ、【イスカリオテ】が無いだろうが」
「今回収中だ。あと十三本、一年も在れば……」
「ならば貴様の代で返還出来るな?」
男は腕を組んでセラフィムを見遣った。セラフィムはしかし、嫌そうな、面倒そうな顔をする。
「契約は、『十二人の私が悪因を回収し終え次第、ラケルに返還する』だった筈。俺は十二番目じゃない」
「貴様らの事情などどうでも良い。十二人の使徒だ? 貴様ら人間の都合ではないか。十一人でも私は何も困らん」
「……十二人じゃないと駄目なんだよ」
セラフィムが呟く。男が怪訝そうな顔になった。
「……ロト・クライスト・スカルラット……貴様ら、何を企んでいる」
「別に、何も」
セラフィムはワザとらしく両手を広げて見せた。男は鼻を鳴らす。
「サディムは滅びてしまった。その咎は、お前が受けなければいけない―――たかが返還程度で、解放されると思うなよ」
男は踵を返し、服を翻らせる。またその姿が、光の中に溶けて消えた。
「……勿論、別に何も―――お前が恐れるようなことなんか、」
セラフィムは、男が消えた空間を見、にやりとする。
「企んでいるに決まってるだろうが。人間なんだから」
広間が微かに陰る。太陽が動き、僅かに入ってくる光量が減ったのだ。セラフィムは天蓋を見上げ、鋭く踵を返して歩き出した。
「……赦される筈が無い……分かっているさ。だが、」
セラフィムは顔を顰めた。
「嫌だね。このまま、世界が滅びるのをまた、黙って見ているなんて」
セラフィムのローブが翻る。がっ、とブーツを鳴らし、セラフィムは歩調を速めた。
セラフィムは秘鍵を腰紐に通し、左頬の刻印に触れる。そして、目に掛かっている前髪を耳に掛けた。
セラフィムは部屋の端で足を止め、振り返る。そして、ばさり、とローブを翻らせた。
「―――『さあ、嘘の塗り固めを行おう』」
唱え、セラフィムは目を閉じた。瞬間―――
魔力で、セラフィムの髪がざわめく。同時に、壁に埋め込まれた六つの十字架が、中央に向かって光を放った。
光は一点で交錯し、壁に反射して部屋中を駆け巡る。やがてそれらは、一本の白い光となって天蓋から空へと突き抜けた。
すぅ、とセラフィムが目を開く。その左頬の刻印は、複雑な文様と共に発光していた。
セラフィムは中央に向かって右手を突出し、上下を返す。天井を向いた掌の上に、金色の炎が生まれた。
「――――『永久に、偽りの命を』」
セラフィムはその炎を握り潰す。炎は光の欠片となって指の隙間から飛び出した。
小さな光は、周囲を走る様々な色の光に飛び込み、やがて消失する。セラフィムは目を閉じ―――同時に、周囲に走っていた光も消えた。
「……完了……やれやれ」
セラフィムは疲れたように息を吐く。
「この偽りも、今年で最後だと良いんだが」
セラフィムがユースチアン達と再会したのは、結局、朝日が昇ってからだった。
「そーる?」
出された茶を啜り、ユースチアンはセラフィムに聞き返す。
場所は、セラフィム似の『誰か』に案内された家だ。机を挟んだ向かいには、仕事から帰ってきたセラフィムと、例の謎の人―――今はツェーンの姿をしている―――が座っている。
「『回帰』。彼らの名前だ」
セラフィムは、隣に座るツェーンを指差す。
「……ツェーンとか、アハト、と言うのは?」
「通称だ。俺の通称はエルフ。十一番目、と言う意味だ」
「……えーと、」
「話す、と約束したな。全て話そう。今必要なことを、全て」
セラフィムはそして、ジュドをちらっと見た。ジュドは、自分は此処に居る、と目で言い返す。
「……はいはい。じゃあ話そうか」
セラフィムは口を茶で湿らせ、息を一つ吐いた。
「旧文明―――サディムは、神の怒りを買って滅びた。これは比喩でも何でもないが、少々語弊が在る。サディムは、神の手で滅ぼされたわけじゃない、神の力で滅びた」
「だが、それはお伽噺……」
「全くの作り話だと思うのか」
ユースチアンは言葉に詰まる。セラフィムは視線を落として続けた。
「その際、唯一の生き残りが、『鍵の守り人』だ。俺達は、神―――ラケルから奪い、サディムを滅ぼして世界中に散ってしまった六百六十六本の秘鍵を回収するため、ラケルと契約を交わした」
「………………」
「俺は、『鍵の守り人』、その十一番目。死んだ『鍵の守り人』の魂は此処に還り、『回帰』になる」
セラフィムはそして、ツェーンを指差す。
「此処に、十人の『鍵の守り人』が居る」
「……不老不死という話は?」
「まだ信じていたのか」
セラフィムは寧ろ驚いたという顔になる。が、ユースチアンは釈然としない、といった顔になった。
「『鍵の守り人』は……まあ、『何でもアリ』みたいな伝説になっているけど。俺達には俺達のルールが在る。義務も在る。そして主張出来る権利も在る」
セラフィムの代わりに、ツェーンが答える。
「で、これは人としての義務として、名乗っておくとしようか。俺達、十人の名を」
ツェーンが立ち上がり―――先刻、ジュドの唇を抑えた少女の姿に変わる。
「仮名はナギ。ナギ・ツヴァイ・スカルラットだよ。通称はツヴァイ……」
「ちょ、ちょっと待ってください、まだ頭が追い付いていません……『鍵の守り人』は旧文明の生き残りで、秘鍵を神との約束で回収してて……でもじゃあどうして、セラフィムは『鍵の守り人』に?」
ユースチアンは片手を頭にやり、もう片手を突き出す。
「不老不死じゃない、だとしたら―――成り立たないんですよ、考えが。セラフィムの話し方だって、まるで自分のことみたいに―――セラフィムとロト氏は、別人になるはずでしょう?」
「……ま、ね」
ツヴァイはそっぽを向いて頬杖をつく。セラフィムは溜息を吐いた。
「とにかく、『鍵の守り人』はもともと、一人の強大な魔法使いだった。世界を穢してしまった贖罪をする為に、自らの魂を分割した。それを受け継ぐ者が『鍵の守り人』となった」
セラフィムは言ってから、じっとユースチアンを見た。ユースチアンは、それに怯んだような顔になる。
「それだけ分かってくれれば、今は良い」
「じゃあ……お前の魂は、ロト氏のものなのか」
「ああ」
そしてセラフィムは、微かに目を細める。
「……もう一つ、話して置かなければいけないのは……お前の体のことだな」
セラフィムは話を切り替える。
「そうだ、私の――私の中には、何が居る?」
ユースチアンはセラフィムに詰め寄った。
「……お前は、」
セラフィムは腕を組み、一度息を吐く。そして改めて、ユースチアンを見遣った。
「お前は――――【イスカリオテ】だ」
そして、言った。
「お前の中に、秘鍵【イスカリオテ】が在る」
どれくらいの時間、黙っていただろうか。
「………………は?」
やっとのことで、ユースチアンはそれだけ言った。そして、酷く後悔する。
言わなければよかった。言わなければ、まだ思い違いだと思えた。今度こそ、突きつけられてしまう―――紛れも無い、事実を。
「何度でも言おう」
セラフィムは立ち上がり、呆然と自分を見上げるユースチアンの胸元に指を向ける。
「お前の中に、【イスカリオテ】の親鍵が在る」
三度目の言葉だ。聞き間違いではない。
秘鍵は、悪因だ。それはもう分かっている。只の鍵ではないことも、重々承知だ。
だが。否、だからこそ、認めたくは無かった。
秘鍵が、自分の中に在る、など。
「……セラフィム、嘘だろう?」
「俺が嘘を言っているように見えるか」
淡々と、セラフィムは返す。だがユースチアンは、未だ信じられない、と言う顔で、他の二人を見た。
ナギは、先刻とは打って変わって真剣な目をしている。ジュドも、セラフィムの言葉を真実だと知っている顔をしていた。
「……嘘だ」
ユースチアンは立ち上がる。
「だって、」
「どんな理由付けも通じない。それが、秘鍵が秘鍵たる由縁だ」
「でも、」
ユースチアンは、不安に歪んだ笑みを零す。声は、懇願するような色を帯びていた。
「……例えそうだとしても、私に、その、影響は……さして……無いだろう? セラフィムの匂いがどうとか、それが鍵のせいなら、」
セラフィムは首を横に振る。
「数か月以内に、」
セラフィムの指が、ユースチアンの頭を向いた。
「お前は【イスカリオテ】の魔力に、食い殺される」
それは、死刑宣告であった。
「………………」
気付けば、ユースチアンは踵を返して家を飛び出していた。止めるセラフィムの声も聞かず、混乱に突き動かされるように、白い道を蹴る。
「……死ぬ?」
ユースチアンは、人気の無い街を見、恐怖に顔を歪めた。
「死ぬ……のか?」
情けなくも、全身が震えだす。ユースチアンは両手で体を抱いた。
「ユースチアン! 何処に居る!」
遠くで、セラフィムの声がする。が、ユースチアンはそれも耳に入らず、速まる動悸に顔を不安に曇らせた。
そして―――
「―――ユースチアン!」
セラフィムが、倒れたユースチアンに駆け寄る。
「ユースチアン、大丈夫か」
セラフィムがユースチアンを揺り動かすが、ユースチアンは目を覚まさない。
「……くそ、」
セラフィムは顔を焦燥に歪め、ユースチアンの体を抱き寄せた。
「――――助けるから」
セラフィムは呟く。
「『鍵の守り人』の名に懸けて、お前を――――二の舞にはしないから」