Ⅰ
Ⅰ
アーサーシーエン国の王宮は、俄に慌ただしくなっていた。
国王は隣国の使者を待たせ、急いで応接間に入る。
「『鍵の守り人』がいらっしゃったと?」
国王が大臣に言う。
「ええ、間も無く来られるかと……」
「そうか……」
国王はどさりとソファに腰を下ろした。
「何を要求されるか……相手は不老不死の魔術師だ、とんでもない物だったら……」
「国王様……気をお鎮めください。今までも『鍵の守り人』は来ておりますが、情報や食料など、些細な物しか要求しておりません」
「……相手が『鍵の守り人』でなければ、建国時の契約など反故にしてしまえるのに」
国王は落ち着かない様子で相手を待った。
やがて、大臣の一人に導かれて、旅人らしき人影が一人、入ってくる。
全身は黒い長衣で包まれ、顔も左半分を覗かせて居るのみで、あとは白い布で覆っている。しかしその覗いている左半分からでも、人影の人相は多少伺えた。
青年のようだ。目の色は淡い蒼に近く、髪は陰では緑や蒼に近いが、光が当たる部分は白く見える。左の頬には、刻みつけたような漆黒の十字架が描かれていた。
「『鍵の守り人』殿です」
大臣が言って、『鍵の守り人』は頭の布を外して小さく礼をした。隠されていた右目は、前髪に隠されてやはり見えない。
男とは思えない程の、整った顔をしている。こんな女が居たら、男は誰もが一度は振り返ってしまうような―――
「っ……」
我知らず、国王は唾を飲み込んでいた。そして相手が怪訝そうな顔をしたのに気付き、国王は慌てて立ち上がる。大国アーサーシーエンのトップに此処まで気を遣わせるのも、『鍵の守り人』くらいのものである。
「国王です。『鍵の守り人』殿、よくぞいらっしゃいました。其処に」
国王は向かいのソファを示す。『鍵の守り人』は無言でソファに座った。
「して……早速で申し訳ないのですが、貴方が『鍵の守り人』たる証を、見せてはいただけませんか」
「……慎重だな」
「ええ。昨今では『スカルラット』を語る、無礼な馬鹿者共も増えておりまして……」
「良いだろう」
座ったまま、『鍵の守り人』は俯いて目を閉じた。
「―――これが、『秘鍵』だ」
言って、『鍵の守り人』はローブの中から鍵束を取り出して見せる。
つぅ、と国王の頬を汗が伝った。
『秘鍵』―――あらゆる災厄の原因と言われる、旧文明の遺産だ。
「触れてみるか」
「いえ、結構で……納得いたしました」
国王は頭に手をやった。こうして見ているだけで、全身に纏わりつくような魔力が感じられる。直接持っている『鍵の守り人』にどれ程の負担がかかるかは、想像するに難くない。凡人であれば、数時間も経たずに、魔力に喰い殺されるだろう。
「失礼いたしました」
「構わない。疑って当然だ」
淡々と、『鍵の守り人』は言う。
「不老不死というのは、では真なので御座いましょうな……だとすると貴方様は、ロト・クライスト・スカルラット様、なのですか?」
「……正確には、少々違う。だが間違っては居ないな」
『鍵の守り人』は腕を組んだ。
「本題に入ろう。欲しい人間が一人居る」
「はい……どのような?」
「女だ。……見れば分かるのだが、名前は知らん」
頭を掻いて、『鍵の守り人』は微妙な表情になる。
「王女だ」
「でしたら一人しか居りませぬ。連れて来させましょう」
国王は大臣にそう命じ、『鍵の守り人』に探るような目を向けた。『鍵の守り人』は息を吐き、ソファに身を沈める。
「……王女の事、突然で済まない。何分、王女の年齢によっては手遅れかも知れないのでな」
「いえ……あの、『鍵の守り人』殿」
「何だ」
「その……『鍵の守り人』とは、一体何なので御座いますか?」
「……旧文明、サディムについてはどれくらい知っている」
「大陸全土を支配し、やがて神の怒りを買って滅びたとか」
「正しい」
出された茶を啜り、『鍵の守り人』は言う。
「だが、何処まで信じている」
「……神、というのは比喩でしょう。流石に、神が居たとしても……国一つ、滅ぼすなど傲慢としか……」
「そうかも知れないな」
小さく、『鍵の守り人』は苦笑したようだった。その、年寄りのような笑顔に、国王は一瞬目を奪われる。
「そ……それで、『鍵の守り人』とは? サディムに関係が?」
国王は慌てて目を逸らした。口の中が乾き、全身が緊張に喘いでいる。
三秒程、『鍵の守り人』は黙って国王を見ていた。その顔には、呆れのような何かが浮かんでいる。そして、溜息と共にぴしゃりと言った。
「お前が立ち入って良い領分じゃない」
「ですが、」
乱暴に、応接室の扉が開かれた。
「っ!?」
国王と『鍵の守り人』は同時に入口を振り返る。
「失礼します」
ぞんざいに言って、闖入者はずかずかと入ってくる。
「……ユースチアン……」
国王が頭に手をやった。入ってきた女は、束ねた金髪を揺らし、じろっ、と『鍵の守り人』を見る。
「貴方が『鍵の守り人』ですか? 私をご所望とか。何か?」
「…………あー……」
流石の『鍵の守り人』も、驚いたように女、ユースチアンを見る。
「ユースチアン! いくら何でも普段着で来る者が居るか馬鹿娘……!」
国王が、頭が痛いと言う顔になる。
「……はぁ……」
ユースチアンから顔を逸らし、『鍵の守り人』は溜息を吐く。
「仕方無いな……時間が無い、協力して貰おう」
立ち上がり、『鍵の守り人』はユースチアンに近付く。
「『鍵の守り人』殿ですね。私に何かご用ですか?」
「お前の体を借りたい」
「……?」
ユースチアンが、微かに嫌そうな顔になる。『鍵の守り人』は国王を振り返った。
「生きて返すと誓う。借りてゆく」
「……娘を、ですか」
「ああ」
「……分かりました」
案外にあっさりと国王は承諾する。『鍵の守り人』はユースチアンの腕を掴み、窓に近寄った。
「何を……」
ユースチアンの勝ち気な顔が、不安に曇った。『鍵の守り人』は構わず、窓を開き、ぐい、と、細い腕に似合わぬ力でユースチアンを抱き寄せる。
「感謝する」
言うと、『鍵の守り人』は窓から外に飛び出した。
「――――っ!」
国王は窓に駆け寄って下を覗き込んだ。が―――
轟っ! と、重い風音と共に、赤銅色の影が国王の前を突き上がる。
「スッ……飛竜!?」
鱗を日光に輝かせ、飛竜は城の上空で大きく翼を広げる。その背には、『鍵の守り人』とユースチアンの姿が在った。
「ユースチアン……」
国王は、泣きそうな顔になっているユースチアンから視線を剥がす。轟音と共に、急速に飛竜は遠ざかっていた。
飛竜は数度の羽ばたきで王都から出ると、思い切り翼を上下させる。
「着ろ。体温を奪われる」
気絶しそうなユースチアンを支え、『鍵の守り人』は何処からか毛布を出してユースチアンに差し出す。
「……どうして……」
「………………」
無言で、『鍵の守り人』はユースチアンを背後から抱き支え、毛布を体に掛けてやった。
「どうして、私を攫った?」
「………………」
「何故だ! 私、私は……」
あっという間に、王都と飛竜の間隙は広がってゆく。ユースチアンは『鍵の守り人』を睨んで涙を浮かべた。
「必要だからだ」
はっきりと、『鍵の守り人』は言った。
「辛い思いをさせて済まない。だが必要なのだ。耐えてくれ」
優しく、『鍵の守り人』の手がユースチアンの肩を撫でる。
「……少し、眠ると良い。ジュドは上手いから、落ちる事は無い」
そう言うと、『鍵の守り人』は掌をユースチアンの目にかざした。
ユースチアンはベッドの上で目を覚ました。
「つっ……此処は?」
「宿だ」
ベッドの横に居た『鍵の守り人』が、本から顔を上げて言う。
「飯は其処だ。疲れているだろう、ゆっくり休むと良い。話はその後にしよう」
「食欲など無い」
「食え。明後日は七月の九日……少々遠くまで移動したい」
立ち上がり、『鍵の守り人』は食事の乗った盆をユースチアンの前に差し出す。しかしユースチアンはそれを押し返した。『鍵の守り人』は溜息を吐き、スープの皿を持ち上げてユースチアンの口元に近づける。
「少しでも腹に入れろ。保たないぞ」
ユースチアンは頑なに首を横に振る。
「そうか……じゃあ良い。俺はジュドと一緒に寝るから、また明日な」
やれやれと首を振り、『鍵の守り人』は部屋から出ていく。
ユースチアンは埃臭い空気を吸い、顔を顰めた。それから粗末な食事を見、深い溜息を吐いた。
「……あれが、『鍵の守り人』……」
ユースチアンはスープの皿を持ち上げ、其処に映っている、憔悴した自分の顔にうんざりする。
この大陸中を旅して、『秘鍵』という魔力の結晶を回収して回っているのが、『鍵の守り人』なのだと、幼い頃から、お伽噺で聞かされていた。
嘗て大陸中をサディムという巨大文明が支配していた。しかしサディムは強大な力を求めすぎた為に神によって滅ぼされ、その際世界中にばらまかれた災厄の塊が『秘鍵』だ。サディムの魔術師であったロト・クライスト・スカルラットは自身に不老不死の魔法を掛け、『秘鍵』を全て回収する為に生き続ける事を決意した――と、大体のお伽噺はこのような感じだ。
だが、不老不死の魔法というのはどの国でも確認されて居らず、サディムの遺跡は確認されているが、其処にも強大な魔法技術を持った痕跡は無い。
だからこれは、『鍵の守り人』と『秘鍵』という、所謂『よく分からない伝説』にかこつけただけのお伽噺―――だと、ユースチアンも思っていた。
しかし実際に『鍵の守り人』に会うと、このお伽噺が急に現実味を帯びてくる。
見た事も無いような綺麗な顔をしていて、実際に大量の鍵束がローブに括り付けられていて、不思議な刺青が顔に在って、奇妙な目や髪の色をしていて、竜に乗って空を飛ぶ。伝説となるのには十分すぎるではないか。
見た目はユースチアンとさして年も変わらない青年に見えるが、持っている空気そのものが違う。或いはあれは、不老不死の魔法の為……のようにも思えてくる。
「……ふー……」
ユースチアンは深い息を一つ吐く。
アーサーシーエン国の王女の義務だ。あの『鍵の守り人』には従わなくてはいけない。
「前途多難だ……」
このまま旅でもするとなったら、自分は耐えられるだろうか。
ユースチアンは苦い顔でスープを啜った。
焼け付くような痛みが、右目を貫いた。
「――――っ!」
叫びを噛み殺し、『鍵の守り人』は目に手をやって起き上がる。体に掛けていた薄い布団がずり落ちた。
「……またか……」
呆れたように言って、『鍵の守り人』は地面に寝そべっている飛竜に寄り添う。
頭痛が止まない。稲妻のようにフラッシュバックする記憶は、『鍵の守り人』にとっては少しも楽しいものではなかった。
昔の記憶だ。
霞んでしまって完全にはならない少女の笑顔や、ぞっとする程美しい夕焼け、遠くの山まで続く白い都……それは確かに、今も自分の中に在る。
だが同時に、全身を貫くような激痛や、炎の熱さ、悲鳴、怒号、憎悪の目なども残っている。それに『鍵の守り人』がどんな感情を抱いたかも、全て。
「くそ……」
頭を掴み、『鍵の守り人』は俯く。
「あと少し……あと、十四本……」
飛竜が目を覚まし、顔を『鍵の守り人』に向けた。『鍵の守り人』はその頭に手を乗せる。
「大丈夫だ、ジュド……心配するな」
飛竜は小さく呻り、また頭を下げる。その様子に、『鍵の守り人』は小さく笑った。
眠い目を擦りながら、ユースチアンが二階から降りてきた。安宿の一階は食堂になっており、その隅のテーブルに、既に『鍵の守り人』が居る。
「起きたか」
ハムを隣に座っている青年に渡し、『鍵の守り人』はユースチアンを手招きする。ユースチアンは嫌々ながら二人の隣に座った。
「……誰だ?」
「ジュドだ」
当然のように、『鍵の守り人』は言う。ユースチアンはしかし、不可解、と言った表情で、『鍵の守り人』の隣に座る褐色の肌に赤銅色の髪の青年を見た。
「ジュド、とは、あの飛竜のことだろう? 飛竜は確かに、年を経ると人の姿になると言うが……」
「俺は亜人だから」
ユースチアンを軽く睨み、ジュドが言った。
「竜と人の?」
「ああ」
亜人とは、人と幻獣の混血のことだ。
「悪いかよ、人になれて」
「……いや」
ジュドは、ふん、とユースチアンから顔を逸らす。どうやら嫌われているらしい。
「仲良くしろよ。これから暫く一緒に旅をするんだ」
「……セラフィーが言うなら乗せて飛ぶ。だけど仲良くなんかしなくて良いだろ」
「…………」
ふー、と『鍵の守り人』は溜息を吐く。そして自分の皿を持って立ち上がった。
「勘弁してくれよ。子守は苦手なんだ……先に行ってる。食事が終わったら、ユースチアンを連れてきてくれ」
「……はーい」
渋々、と言った様子でジュドは返事をする。ユースチアンは戸惑ったような顔になった。
「……ジュド?」
「あ?」
気安く名前を呼ぶな、と言わんばかりの目で、ジュドはユースチアンを睨む。ユースチアンは少し気圧されたような顔になった。
「私……何かしたか?」
「は?」
「私の何が嫌いだ?」
不愉快さを滲ませ、ユースチアンはジュドに言う。ジュドはパンにバターを塗りながらユースチアンから目を逸らす。
「無理矢理とは言え、旅を共にするのだ。直せることだったら直すが」
「どうでも良いだろ、そんなこと」
ジュドはハムを挟んだパンを口に押し込んだ。
「だが……」
「先に言って置くがな。セラフィーが何と言おうと、俺は王族なんか大っ嫌いだ」
ジュドは吐き捨てるように言う。
「………………」
ユースチアンは溜息を吐いた。
ジュドはユースチアンが食事を終えるや否や立ち上がり、ユースチアンの手を掴んで引っ張り出した。
「うわっ……」
転びそうになりながら、何とかユースチアンは付いて行く。
大通りの中心には、大きな人集りが出来ていた。ジュドは迷わずにその人集りに向かってゆく。
「セラフィー、其処か?」
「ああ、来たかジュド」
ぐいー、と人を押し退け、ジュドは『鍵の守り人』の前に出る。人集りの中心で、『鍵の守り人』は小さな箱を弄くっていた。
細やかな装飾が施された箱の、小さな鍵穴に触れ、『鍵の守り人』は目を細める。
「これは、誰の物だ」
言うと、人集りの中で一人が手を挙げる。
「中には何が在る」
「お父さんの形見です。でも、鍵が……」
「大丈夫だ……すぐに開ける」
すぐに、『鍵の守り人』は腰の鍵束を手に取り、一つの輪に通された、六つの大きな輪の中から一つを選択する。
その輪には、黒い大量の小さな鍵と、一つの大きな青い鍵が通されていた。
「『秘鍵』……」
ユースチアンの声が、畏怖の色を帯びる。
「【自由のアザゼル】、解放」
呟き、『鍵の守り人』は青い鍵の先端を、箱の鍵穴に向ける。
シャリン、と鍵が鳴り、青白い光が一瞬鍵から放たれた。ユースチアンは息を飲む。
がちり、と錠の外れる金属音がして、箱の蓋が開いた。
「開いた!」
箱の持ち主の少年が、嬉しそうな声をあげる。『鍵の守り人』は開いた箱を少年に渡した。
「これからは気を付けるように。複雑な鍵だから、針金なんかじゃ開かないだろう」
「うん……ありがとうございます、『鍵の守り人』様」
少年の頭を撫で、『鍵の守り人』は微笑む。
「他には」
人集りを見回すと、また数人が手を挙げた。
「………………」
住民の話を聞いている『鍵の守り人』を見、ユースチアンは目を瞬かせた。
「知らないだろ? あんな『鍵の守り人』の姿」
ジュドが言って、ユースチアンは素直に頷く。
「もっと……いかにも伝説の人、みたいなものだと思っていた」
「だろうな。まぁ、セラフィーが変わってるんだよ」
「セラフィー?」
「……『鍵の守り人』の名前だよ」
「ロト・クライスト・スカルラットではないのか?」
ユースチアンは驚いたようにジュドに聞き返す。
「仮名だ。セラフィム・スーザ・スカルラット。それが俺の名前だ」
背後からの声に、ユースチアンは振り返る。『鍵の守り人』が立っていた。
「少々困ったことになった。危険が伴うのだが……手伝ってくれるか」
ジュドを見て『鍵の守り人』――セラフィムは言う。ジュドは当然という顔で頷いた。
「そうか。ユースチアンは、宿に戻るか」
「いや、良い。此処で見ている」
「………………」
何か言いたそうに口を開いたセラフィムだが、息を吐くだけで諦めたような顔になった。
「通り魔退治をする。少々危険だが」
「関係無い。これでも割と腕は立つほうだ」
王女でそれもどうかと思うが、と苦笑し、セラフィムは「なら」と大通りの中心を指差した。
「皆の話だと、あの辺りに良く出るそうだ。其処で待っていてくれ」
「ああ」
ジュドは、人々が散って広くなった大通りの中心へと歩いてゆく。ユースチアンもそれに続いた。
「さて……俺は待機か」
セラフィムは二人から少々離れた所で木箱に座った。
じりじりと、真夏の太陽が容赦なく二人に照りつける。
「……暑い……」
「少し黙ってろ五月蝿いな」
ジュドが苛立ったようにユースチアンに言う。
「暑いものは暑い。黙って耐えるより言った方が気が楽になる」
「俺の気が楽にならない」
「竜は熱さに強いだろうが」
「俺の種族はそうだが、一概にそう言われるのは心外だ。氷の地に住む水竜や山間の走竜は寧ろ弱い」
ジュドは汗を拭い、陽炎が立ち上る道を睨み付ける。
「セラフィムの奴……一人だけ日陰で寝やがって……」
「セラフィーを悪く言うならお前がどんな重要参考人だろうと、喰ってやるが」
「喰ってみろ。胃袋中から貫いてやる」
「八つ裂きにするのが先だが? お前が頭だけで生きられるなら可能かもな」
びきっ、とユースチアンの顔が引きつる。
「八つ裂きだ? その前にお前の鱗剥ぎ取って足切ってやる」
「じゃあその前にその腕を引っこ抜くとしよう」
「ならば―――」
ジュドをユースチアンが振り返って―――
「―――来た」
セラフィムが呟いた。
風を切る鋭い音がして、ジュドの肩に鋭い痛みが走った。
「っ!?」
ジュドは左手で右肩を掴む。服が裂け、切り裂かれた傷口から血が噴き出していた。
「痛っ!?」
今度はユースチアンの頬に紅い線が現れる。
「これが通り魔か……!? でも、何処に!」
ジュドは狼狽した様子で周囲を見回す。何処を見ても、人の姿など無い。
セラフィムが立ち上がり、二人に近付いた。
「セラフィー、駄目だ危ない! 何か居る!」
「それを退治するんだよ」
セラフィムは秘鍵の束に触れ、血のように赤い鍵が通された束を掴む。
見えない敵は、動きを止めているようだった。風だけが、土を舞い上げる。
「っ!」
セラフィムはジュドの前に立った。そして鍵束を顔に向ける。
「【力のルシファー】、解放」
がちり、と金属音がして、セラフィムを赤黒いオーラが覆った。
「あああああああっ!」
セラフィムが叫ぶ。その全身を包むオーラは、ユースチアンには、途轍もなく禍々しいものに感じられた。
ゴォッ! と、何かがセラフィムに近付いてくる。
「……、……、っ!」
セラフィムは呼吸を整え―――突き出した両手で、何かを掴んだ。
「え?」
ジュドが驚いたような顔になる。
セラフィムの手は、虚空を掴んでいた。
其処に何か在るのか、手は棒でも掴むような形で固まっている。しかしその手の中には何も無い。
セラフィムは腕を捻る。その細腕に力はとても無さそうだが、セラフィムの前で、派手に砂煙が上がった。やはり、その手は『何か』を捕えているのだろう。
「……セラフィム?」
畏怖の籠った口調で、ユースチアンは呟く。セラフィムの左の頬に浮かんでいる十字架は、オーラの色に似た、目の覚めるような赤色に変化していた。
「通り魔、捕まえた」
セラフィムはにやりとして言った。そして、その捕まえている『何か』をぐいと引き寄せる。同時に、セラフィムを包むオーラも消えて行った。
「通り魔って……セラフィー?」
「秘鍵を回収出来る。ラッキーだな」
セラフィムは何かに手を掛け、ぐい、とそれを後方に倒した―――のだろう、多分。
「あっ!?」
ジュドが思わず声を出す。セラフィムの腕の中に、一人の青年が現れたからだ。
青年はセラフィムに背中と額を抑えられ、上を向いて膝を付いていた。セラフィムが倒したのは、青年の頭だったのだ。
青年は眠っているようだった。セラフィムは青年を地面に寝かせ、服を開いてその胸元をはだけさせる。
「やっぱり『与えられし者』だ」
青年の胸元には、赤黒い十字架の刻印が浮かんでいた。セラフィムはその上に手をかざす。
「…………?」
ユースチアンが、怪訝そうな顔をする。
ざわ、と、風に逆らってセラフィムの髪がざわめく。左頬の十字架が青白く発光し、周囲に複雑な刻印が浮き出ていた。
「ガアッ!」
青年が吼え、胸元にかざされたセラフィムの腕を掴む。セラフィムは青年を睨んだ。
「黙ってろ」
「グ……」
「鎮まれ!」
セラフィムの、前髪に隠された右目が見開かれる。同時に、セラフィムの頬に浮かんでいるものと同じように、青年の胸の十字架も輝き始めた。
青年が震えた。セラフィムの手の中に、黒い小さな影が現れる。セラフィムはそれを掴んだ。影は手の中で、小さな鍵となって固まる。
「【イスカリオテ】の百二本目……だ」
「秘鍵だったのか?」
ジュドが、セラフィムの肩越しに青年を覗き込む。
「まあ、最終的な鍵はこれだったみたいだ。切っ掛けは別だろうな」
セラフィムは数度、青年の頬を叩いた。
「うぅ……ん?」
青年がうっすらと目を開く。そしてセラフィムを見て―――顔を青くした。
「ひっ……き、『鍵の守り人』様!?」
ずざっ、と青年はセラフィムから離れる。セラフィムは立ち上がり、膝の砂を軽く払った。
「透明人間か……珍しい症状だな」
「症状?」
ああ、とユースチアンを見てセラフィムは説明する。
「秘鍵は別に、誰彼構わず強い力を与える訳じゃない。手に入れた人間の心によっては、只の鍵の場合も在る。今回は……」
セラフィムは青年を指差した。
「この男か、他の誰かか。それは分からないが、此奴が居なくなることを望んだ人間が居る。だが秘鍵一本じゃ人は殺せず―――そんな感じだろうな」
セラフィムは鍵を、秘鍵の束の一つ―――唯一、大きな鍵が付いていないものに通した。
事の終わりを感じ取ったのか、町の人々が大通りに顔を出す。セラフィムはフードを被り、ユースチアンとジュドの方に近付いた。
「怪我は」
「私は、平気だが」
セラフィムはジュドを見て、その肩の傷に手をかざす。
「……宿に戻ろう。すぐに洗って手当をしよう」
「あの人は?」
「放っておけ。後は他の奴らの問題だ」
セラフィムは、呆然としている青年から視線を剥がし、ジュドの背を押して歩き出した。
固いベッドに横になり、ユースチアンは目を閉じた。
今日一日を見ても、やはり『鍵の守り人』は何処か掴めない。浮世離れしたような雰囲気をしておきながら、町に出て無償で人助けをし、平気で危険を冒す。そしてその行動の根底には全て、『秘鍵を回収する為』という理由が存在する。
「うーん……悪い奴じゃ……なさそうだが」
ユースチアンは目を開き、隣のベッドを見る。怪我の手当をされたジュドとセラフィムが、一つのベッドで眠っていた。
「…………」
ユースチアンは音を立てずにベッドから立ち上がり、セラフィムに近付いた。ローブは椅子に掛けてあるが、秘鍵の束は枕元に置いてある。
「……?」
一瞬、甘い香りがした気がして、ユースチアンは怪訝そうに眉宇を顰めた。が、特に気にすることも無く、窓から入る月光に照らされている秘鍵に手を伸ばし―――
セラフィムの手がそのの手首を掴んだのは、次の瞬間だった。
「――――っ!」
恐怖と驚愕で、心臓が跳ねる。同時に強い目眩に襲われ、ユースチアンはベッドの横に膝を付いた。
「……好奇心が強いのは悪くないが、」
秘鍵の束を掴み、ユースチアンを見てセラフィムが囁いた。
「領分というものを考えろ。……似たもの親子だな、全く」
「……は、放してくれ……魔法を使ったな……?」
足に力が入らず、ユースチアンは畏怖を含んだ声音で言う。
「いいや。その恐怖はお前の後ろめたさだ」
「悪かった、だから、」
思わず声を大きくしたユースチアンの口の前に、セラフィムは指を立てる。
「目眩がしたか」
「? ああ」
「……そうか……」
セラフィムは考え込むような表情になる。
「……セラフィム、その……もう寝るから……」
いい加減手を放してくれ、と言おうとして―――突如として強くなった甘い香りに、ユースチアンは眩んだ。
「?」
自分でも訳が分からないままに、ユースチアンはセラフィムの手を握り返し、ぐい、とその手をベッドに押し付けて立ち上がる。
「……いい……匂い」
「……ユ……」
セラフィムの怪訝そうな顔に、ユースチアンは顔を近付け―――
ジュドとセラフィムの手が、その顔を止めた。
「正気に戻れユースチアン」
セラフィムが至極冷静に言って、ユースチアンはハッとする。
「……ああっ!?」
自分が何をしていたかに気付き、ユースチアンは飛び退くようにセラフィムから離れた。
「わ、私、何で……何していた!?」
「変態発言した」
ジュドの言葉に、セラフィムも頷く。
「へ、へん、たい……」
ユースチアンはふらつく。相当にショックだったらしく、ユースチアンはそれ以上何も言わずにベッドに戻り、毛布を頭まで被った。
「……ジュド、勘弁してやれ」
セラフィムはジュドの頭を軽く叩いて言う。
「まだ、会って昨日の今日なのにこれだぜ? 大丈夫なのか」
「自制心は割と強そうだ。寝惚けて理性が欠けていたんだろう」
それでも、ジュドは不満そうに唇を尖らせ、毛布を掴んだ。
「あと一人なんだろ? その……完成まで」
「ああ」
「で、あと十三本なんだろ?」
「ああ」
「…………死なないでくれよ、セラフィム。死なないで済む立場なんだろ?」
ジュドは懇願するような声音で言い、向かい合ったセラフィムの服を掴む。
「………………」
セラフィムは優しく、その頭を撫でた。
朝日が部屋に差し込み、ユースチアンは目を覚ました。少々寝不足のせいで、頭痛がする。頭をさすり、ユースチアンは向かいのベッドを見た。既にセラフィムとジュドは起きて、出発する支度をしている。
「嗚呼、今日は移動だったか……?」
「ああ。少々長距離だ、すぐに出るぞ。朝飯は買っていくか」
セラフィムはベッドから立ち上がって、フード代わりの布を被る。
「はいはい……行き先は?」
「『聖ロト・クライスト・スカルラットの湖』」
セラフィムはベッドを整え、ジュドが手間取っていた服のボタンを留めてやる。
「……話はいつするんだ?」
「話……」
「いや……初日に言っていただろう、『ゆっくり休むと良い。話はその後にしよう』と」
「嗚呼……あの時はもう夜だから、また明日と言って……」
「昨日はボランティアだ。いつ話をするんだ」
詰問するようなユースチアンの調子に、セラフィムは頭を掻く。
「そうだな……明日。明日の仕事が終わったらにしよう」
セラフィムはそして、欠伸を噛み殺した。
一階に降りると、開店前だというのに、食堂には既に一人の青年が待っていた。
「……昨日の……」
セラフィムが言うと、青年は三人に気付いて振り返る。
セラフィムの言う通り、昨日、透明人間になって通り魔をしていた青年だった。
「あ……『鍵の守り人』様……」
青年は、憑き物が落ちたようにすっきりした顔をしていた。そして、深々とセラフィムに頭を下げる。
「ありがとう御座います。お陰でやっと、人間に戻れました」
「……透明だろうと人間だろう。どうしてあんな事になった」
セラフィムは特に興味も無さそうに、惰性で促す。
「……俺は、この町では元々余所者で……食料も乏しいし、疎まれてたんです。俺も皆のことがあまり好きじゃなくて……一週間くらい前に、偶然あの鍵を拾ったら、その……」
「意識は」
「あ、在りました。でも夢うつつみたいで……何をしてたかは、あまり」
「そうか……。まあ、何にせよ命が在って良かったな。これからは気を付けろよ」
「はい。もう二度と……あんな事は、ごめんです」
青年は俯く。セラフィムは、それで用は済んだとばかりに歩き出した。
「……何をあんなに?」
セラフィムの後を追いながら、ユースチアンはセラフィムに訊く。
「透明じゃなくなって、ほっとしているんだろう」
「だが……秘鍵から解放されたから、ならともかく……何故透明であることを疎む?」
「…………」
セラフィムは微かに目を細め、遠くを見るような表情になった。
「独りは、寂しい」
そして、独り言のように言う。
その言葉の真意が分からず、ユースチアンは首を傾げた。
「さあ、行くか」
町外れで、セラフィムは振り返る。ジュドが頷いて、突風と共に、ジュドは飛竜の姿に戻った。セラフィムは先にその背に乗り、ユースチアンに手を差し出す。
「どうも……」
ユースチアンはその手を取って呟く。
「――――っ!」
セラフィムの目の中で、登ってくるユースチアンの姿が、
『優しいね、ロト』
別の少女と重なった。セラフィムは微かに―――ユースチアンすら気付かない程微かに目を見開き、息を飲む。
「……『喪失者』……」
セラフィムは口元を布で隠して呟いた。
「もうすぐだ……」
ジュドの翼が上下し、風音がその声を掻き消した。
「もうすぐ、お前に会える」