『むすび』
『むすび』
帰郷後、青年は、以前と変わらない生活を新たに始めました。
たったひとつ、青年には、大きな変化がありました。
青年は、以前よりずっと熱心に絵を描くようになりました。
百万もの大金で、絵が売れた経験があったということで、村の人々は、皆、青年の絵を欲しがり、青年は、惜しげもなく、描いた絵を、村の人々に与えました。
旅先で稼いだ百万ものお金は、地代と、父のリューマチの治療代にあっという間になくなってしまいましたが、孝行息子の評判を聞いた村人達が、以前より、父の病気について気にかけてくれるようになり、いい医師や、薬や、効用の高い温泉地の名前をききつけては、教えてくれることもありました。そのお陰か、だんだんと、青年の父親は、体の痛みを、和らげることができたのでした。
あの後、老紳士は、どうなったのでしょうか。
紳士は、いつか故郷に帰る言いつつも、ついに帰ってくることはありませんでした。
その代り、彼は、道中記を、何度も、手紙で青年に書いて送ってきました。
老紳士の楽しい旅話を楽しみにしていた村人達は、彼の手紙が届くと、皆、集まって、青年のまわりに集まり、彼の読む、老紳士の旅先での物語に耳を傾けるのでした。
「わたしは、道中会った人々に、君がきかせてくれた、君の旅話をすることもあります…すると、彼らは私の話にとても興味を持ってくれるのです。君の話は、わたしが旅先で、人々と仲良くなれるきっかけとつくってくれるのです」
老紳士の最期の報を受け取ったとき、青年の手元には、老紳士が何度も書き送ってきた、分厚い道中記の手紙の束が残りました。
村人達が、老紳士の思い出を偲んで、村民新聞にそれを掲載してはどうかと提案しました。
新聞に紳士の手紙の内容が乗ると、それを読んだ村民や、村の周辺の町から、青年の絵を見に来る人が、ぽつぽつと現れ始めました。
青年の絵は、村のどの家にも、どの施設にもありましたので、この村を訪れた人々は、誰でも、青年の絵を見ることができたのでした。
村は、活気づき、青年の絵は、それと並行して、静かに売れてゆくようになりました。
「君は、決心した通りの、立派な画家になったのだね」
お隣のおじいさんが、青年に言いました。
「君は、自分が思っていた以上の画家になれたんじゃないかい」
「僕は、立派な画家なんかじゃないよ」
と、青年は、きっぱりと言いました。
「僕は、これまでも立派な画家じゃなかったし、これからもならないと思う。僕は、ただ僕という画家になれたんだ。僕は、昔から自分という存在だったけど、今、それに気が付いただけなんだ」
青年は、森の奥に沈む、美しい夕陽を眺めました。
このような美しい太陽を、青年は、
古城のある町でも、
橋のある町でも、
木のある村でも、
何度も見たのでした。
青年は、故郷で見る太陽がこの世で一番美しいと思っていましたが、
今まで訪れたどの地で見た夕陽も、
故郷の景色と変わらず美しかったことを思い出しました。
自分が歩いたどの道も、
滞在したどの町も、
青年にとっては、
懐かしい故郷であり、
どの友達も、
故郷の人々とかわらぬ愛情で結ばれていることを、
青年は知っていました。
<完了>