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6.『ふるさとへ』

6.『ふるさとへ』


 看護婦の娘は、家から彼女の夫を連れてきて、青年に会わせました。


娘の夫は、青年の木の絵を見て、大変素晴らしい、この木をこんな風に描けるとはたいしたものだと褒めました。



「わたしは旅に出て仕事をすることが多くて、妻にはいつも寂しい思いばかりをさせているのですが、わたしの留守中に、妻になにくれとなく力になってくれたそうですね」


と、娘の夫は言いました。



「お世話になったのは僕の方です。泥棒にお金を盗まれて、もう少しで行き倒れになるところを、この方は助けて下さったのです」


と、青年は答えました。



「そうだったんですか。それで、妻の絵を描いて贈って下さったんですね。わたしもあなたにお礼をせねばならない。妻がお話しした通り、あなたの描いた木の絵をこの村の近くにある町の画商に持ち込めないかと検討していたのですよ」




 娘の夫が、どうしてもと言うので、青年は木の絵を彼に預けました。そして、絵の行き先が決まるまでこの町に滞在してくれるかと頼むので、二、三日なら、滞在を伸ばすと青年は答えました。




 娘の夫は、約束通り、二日後に画商の男と再び現れました。



画商の男は、あの木の絵を欲しがっている人を見つけたと青年に言いました。




「この村の村長が、この絵を気に入って買うと言ってきましたよ」



「この村の村長?」



「ええ、あなたに仕事の口をきいてくれていた名主さんですよ。彼はこの村の村長なのです。彼は、あなたが、この木の前で座り込んで描いたこともよくご存知のようでしたよ」



「そうでしたか」



「あなたの承諾が頂ければ、村長さんにこの絵をお譲りしたいと思いますが、いかがでしょうかな」



「僕は異存ありません」


と、青年は答えました。


「あの絵を気に入って下さったのなら、僕は何も言うことはありません」



「なら、よかった」


画商は言いました。


「では早速、取引の手はずを、ととのえましょう」




 村長は、木の絵は、町の入り口にある村民会館がふさわしいと言って、絵はすぐにそこの壁に飾られたのでした。



村長が、青年の描いた木の絵を買い取ったことを知った村の人達が、こぞって見に来ました。



立派な額にいれられ、広い壁を我が物にし、すっかりこの場になじんでいる絵の姿を見た青年は、果たしてこれは、自分が描いたものだろかと疑ったぐらいでした。




「確かに、僕が描いたものだけど」


青年は、呟きました。


「この絵は、もうこの村の人達のものだ」




 絵を売った画商と看護婦の娘の夫がやってきて、報酬を青年に届けにきました。



「百万あります、どうぞお納めください」



「百万もあるんですか?」



「少なかったですか?」



「いえ、あなた方の取り分はあるのですか」



「もちろん、いただきましたよ」






 青年は、その足で看護婦の娘に別れの挨拶に出向きました。




「これでお別れだと思うと、寂しいわ」


娘は言いました。



「僕もですよ」



「あなたの絵を描いているのを見ているのは、楽しかったわ」



「僕も楽しかったです。とてもいい思い出になりました」



「またこの町に来て、絵を描いて下さいな」



「是非、そうします」



「ねえ、最後にお聞きしたいのですが」



「何でしょうか」



「あなたは、まだ、師匠の真似をしているとお思いですか」



「いいえ」


と、青年は答えました。


「よくよく考えてみれば、師匠ほどの立派な絵描きの技術を、数か月学んだだけで真似できていると思っていた僕が、馬鹿だったんです。どんなに頑張ったところで、師匠に追いつけるはずはなかったんですよね」



「馬鹿はわたしの方でしたわ」


と、娘は後悔したように言いました。


「というのも、実は、わたしは最初、あなたに夫を重ねてみていたものですから。夫は、何年か前に、家業である農業を継ぐのが嫌だと言って、商の仕事をするとわたしをこの村に置いて、飛び出して行ってしまったのです。自分ひとりで仕事を立ち上げて大成功すると言いはりましてね。自分の絵を描くためだと、病気の家族を残して旅をしているあなたと夫が重なって、とても腹を立てていたのです。でも、あなたが、絵を売って得たお金をリューマチの親子にやってしまったという話が、わたしの心を変えさせました。わたしの夫も、きっとあなたのように、旅先で困った人を助けているに違いないと思うようになりましてね。わたしは、あなたの描いた絵がとても素晴らしいと、旅先の夫にあなたの絵を送ったのです。わたしが夫に、あなたが旅に出た理由や、道中どんな経験をしたか、そんな話を書いた手紙を一緒に送ったところ、夫は、是非協力したいと言って、画商を世話するからと、すぐに帰ってきてくれました。夫が帰ってきてくれたのも、あなたのお陰ですわ」



「そうだったんですか」



宰相に絵を売ったお金を、深く考えもなく、リューマチの母親を持つ親子にやってしまったことを、ついさっきまで後悔していた青年の心は、娘の話を聞いて、幾分解放された気分になったのでした。



「じゃあ、あの時、あのお金をリューマチの親子に渡してきたことは、必ずしも間違ったことではなかったというわけだ」


と言って、青年は苦笑いしました。






 村の人々にお礼を言い、出発を明朝に控えた夜、一人の客が青年を訪ねてやってきました。



「こんにちは、お久しぶりですね」



 見覚えのある紳士でしたが、なかなか思い出せませんでした。



「おやおや、わたしのことを忘れてしまったのかね?」


と、彼は彼独特のおどけた口調で言いました。


「君が、もうすぐ村に帰るとお父上に手紙を出したろう。今日ここにこれば会えるかと思って、寄ってみたのだよ」



 彼は、故郷の村で、よく絵を買ってくれていたあの老紳士でした。



紳士は青年に言いました。


「村では、君の手紙がぼろぼろになるまで、回し読みをされて、君の噂ばかりしていたんだよ。それで、いてもたってもいられなくなってねえ」




 青年は、一年ぶりの老紳士との再会に、驚き喜んで、夢中になって彼に抱きつきました。




「思ったより元気そうじゃないか。その様子をみると、君は、予言通り、百万の画家になれたようだね」


と、にこにこしながら紳士は言いました。



「ええ、なれました」


と、青年は考えながら言いました。


「つい半日ほど前に」



「半日前だって?」



「ええと、そうじゃないな」


青年は言い直さねばなるまいと、考えました。


「正確には、今回が初めてではありません。三か月ほど前にも、似たようなことがあったのです。ここに来る前の町でのことで、ある人に、百万もの大金で絵を買ってもらったことがありました」



「長い話があるようだね」



「ええ、そうなんです」



「なら、聞かせてくれたまえよ。旅が終わったら、土産話をしてくれるとの約束だっただろう」



「いいですよ」


と、青年は答えました。


「全て、お話ししましょう。よかったら、僕の描いた絵をお見せしながら、お聞かせいたしましょうか」







***






 青年は、この一年起こった全ての出来事を打ち明けてしまうと、心からほっとしてくつろいだ気分になりました。



「なるほどねえ。君は、言葉通り、百万の画家になれたわけだ。気分はどうだい」


と、紳士は、村民会館の壁に飾られた青年の描いた木の絵を満足そうに眺めながら言いました。



「それが、不思議なんです。百万で絵を売る画家になれたら、人生が劇的に変わると思っていました。でも、現実には何も変わりありませんでした。確かに、この百万で、親父の病気を楽にさせてあげることはできるでしょう。その点については、とても嬉しいのですが、僕の絵に対する気持ちが変わったようには思いません。格段と、自分の絵が良くなったようにも思えませんしね」



「満足していないのかい?」



「いえ、とても満足しています。僕がこの旅で出来ることは、全部できたと思います。今は、とてもいい気分です」



老紳士は、さわやかな表情を浮かべている青年の顔を、羨ましそうに眺めていました。


「いい顔をしているねえ。わたしも、若かりし頃、君と似たような経験をした。もう一度、あの時のような境地になってみたいものだよ」


と、彼は言いました。



「あなたにも、僕のように一文無しで、ふらふらしていた頃があったのですか」



「そうともさ」


と、老紳士は言いました。


「ふらふらどころか、人生に絶望して、死んでしまいたいと、毎日のように思っていたものだよ。近頃は、そんな昔の頃のことは全て忘れてしまっていたけど、君の話を聞いて思い出したよ」



「あなたには、行動力があって、頭もよくて、いつも笑顔で、どんなことでもなしえてしまえるような、おおらかな雰囲気を感じていました。わたしのように貧しかった時期があったなんて、信じられません」


青年は言いました。


「どうやって、そんな貧乏な生活から抜け出せたのですか?」



「別段なにも」


と、老紳士は言いました。


「ただ、普通に努力しただけさ」



「努力しただけ?」



「そうさ」


と、老紳士は答えました。


「どんなに頑張ろうが、自分は、自分以外の人間にはなれないのだと、あるとき悟ったのだよ。だったら、普通に努力して、自分という人間になるしかないと諦めたのさ」




 その後も、紳士は、青年の話す面白い話に耳を傾け、驚いたり笑ったりして楽しい夜を過ごしました。



特に、青年が恋心を寄せていた娘に夫が分かったときの衝撃を聞かされたときは、彼は、腹をかかえて笑ったのでした。




「いいねえ。わたしも、君のような熱い想いを、もう一度、胸に抱いてみたいものだよ」


と、老紳士は言いました。


「わたしも、そろそろ二度目の旅に出る時がきたようだ」



老紳士は持ってきた重そうな鞄を指さしながら、


「悪いが、これを駅に運んでくれるように運搬屋に頼んでくれないか」


と言いました。



「どこかに、行かれるんですか」



「ああ、旅に出ようと思ってね」


と、老紳士は答えました。


「君の話を聞いて、萎えていた心が奮いたったよ。そろそろ人生も潮時かと思っていたが、わたしも、まだ若い者には負けちゃおれんという気持になったのだ」

 


老紳士はそう言うと、少年のような陽気な表情を浮かべて、すっくと立ち上がって言いました。




「さあ、わたしも出発するかな」




 翌朝、青年は、駅まで紳士と同じ車に乗りました。



青年は、別れ際に老紳士にこう言いました。


「手紙をください。そして、帰ってきたら、土産話を聞かせてください」



「約束しよう」


と、老紳士は約束しました。




 二人は、出発しました。



老紳士は、彼が夢見るまだ知らぬ土地に、青年は、懐かしい故郷へ旅路を取りました。




列車はきしみながら動きはじめました。




青年は、車窓からながれる景色を追いながら、これまでの人生を振り返っていました。



彼は、自分が何者なのか、ようやくわかりかけたような気がしていました。



青年は、これまで、絵の中に、必死に自分を探していました。



師匠の言う「自分自身の絵」の中にこそ、本当に自分に満足できる境地があるのだと信じて、必死にキャンバスの上を探し回っていたのです。



しかし、そこに何を見つけることができたでしょうか。



青年は、自分が手に入れた物の中のどこにも、例えば、故郷の人達を含む友人達や、伝授してもらった絵の技術や、はたまた、素晴らしい景色といったものの中に、きっと自分だけのものがどこかに埋もれていて、それを見つけ出せるのではないかと思っていました。



 しかし、そこには何もありませんでした。



青年は、故郷を離れ、ひとりきりになり、そうなってからはじめて、自分はひとりでないことに気が付いたのでした。



青年は、旅の中で失敗してきた経験の全てが無駄と感じてきましたが、実はそうではないということを知りました。



どんな些細なことでも、この身に起こった全てのことが大事だったということ、これまで体験してきた全ての良き事、悪き事が、今では美しく調和し、心に平安を与え、今の自分を支えているのではないかと、青年は感じ始めていました。



青年は、今を生きていることに気がついたのでした。





 「僕は、僕だ」


と、青年は、窓の外の景色に向かって、そっと風に向かって呟きました。



「僕は、自分であるということを、僕は発見することができたのだ」


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