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5.『一本の木』

5.『一本の木』



 青年は、せっせと木のスケッチをはじめました。



すっくと伸びた木の幹、太い枝、細い枝、葉の茂り具合などを、体をかがめて下かからみあげたり、高い所に登って上から眺めたり、近づいたり、遠くから見たり、朝の光、昼の光、夕方の光と、ありとあらゆる角度から木の姿を描きはじめました。



年は、何かに憑りつかれたかのように、その木ばかりを描き続けました。


暇をみつけては、毎日描くようになりました。


陽が落ちてからも熱心に描き続ける青年の熱心な様子は、すぐに人々の耳に知れ渡るところとなりました。




そのうち、青年にちょっかいをかけてやろうと、噂を聞きつけた村の子供達が集まってきてくるようになりました。




「いったい、何が面白くて、木の絵ばかり描いているんだい?」




青年は、少年達に答えました。


「僕は今まで、この木の素晴らしさに気づきもしなかったよ。雄々しく育った幹や枝、水面にきらめく木漏れ日。なんと個性的で、美しい姿なんだろう」




なんの変哲のない木の姿に、少年達は、首をかしげ、青年のことを薄気味悪がりました。



すぐに、木の傍に座り込んで、石のように動かない、イカれた外国人の若い男がいると、狭い集落にすぐその噂が広まりました。それでも青年は、誰に何を言われようが全く気にすることなく、せっせと毎日、木の絵を描きつづけました。




少年達は、あいかわらず青年のことをからかったり、絵の道具にいたずらすることもありました。しかし、青年は、怒るどころか、ある日、集まってきた子供のひとりに向かって、そこでちょっと座って、木の幹にもたれてくれないかと頼みました。




 少年は、面白半分、言われた通りに、木の幹にもたれて半時間ほど座りました。青年の作業がすむと、モデルになった少年は、青年のスケッチブックを覗き込んで、たずねました。



「これは、いったい何さ?」



 青年は、少年に自分の描いた絵をみせてやりました。



昼下がりの午後、木漏れ日を浴びて退屈そうに座っている少年の姿が、白い紙の上に描き出されていました。


少年は、目を輝かせて絵を見つめていました。


「これ、本当におらの姿か?」



 少年があまりに見惚れているので、青年は、そのスケッチを一枚破って、少年に与えました。少年は、喜んでそれを持って帰りました。



 その翌日、青年がいつものように、せっせと木の絵を描いていると、例の看護婦の娘が、青年に話しかけてきました。



青年は、娘の姿を見つけると、あわてて立ち上がりました。


「この間は、どうも」


また、何か言われるのだろうかと思ったのです。


青年は身構えながら


「救貧院でお世話になったお代は、お支払にいきましたよ」


と、言いました。




「今日は、そのことで来たのではありません」



と、看護婦の娘は言いました。



 彼女は近づいてくると、青年の目の前の大きな木を仰ぎ見て言いました。



「あなたは、この木が気にいったのですか」




「は?」




「毎日同じ木を描いているよそ者の絵描きがいると、皆が噂しているのを聞いたときは、すぐに、それは、あなたのことではないかと思いました」




 娘はもっと、近づいてくると、青年のスケッチブックを見せてくれないかと頼みました。


青年は、使っていたスケッチブックを彼女に渡してやりました。



 娘は、一枚一枚、熱心に見入っていました。



めくるごとに、素晴らしいわ、とか、すごい、とか、素敵だとか、呟き続けました。




「昨日、あなたの、絵を拝見する機会がありまして」



最後のページを見終わると、娘は青年に向かって言いました。



「とても素晴らしいと思いました」



「そうですか」



「それで、あなたの絵をもっと見たくなったのです。それで、その」



彼女は、とても言いにくそうに続けました。



「先日言ったことを、取り消さしてもらえますか」



彼女は、きまりが悪そうでした。


「あなたのことを、絵空事を追いかけてふらふらしているなどと言って、大変失礼しました。こんな素晴らしい腕前の画家だとは、わたしの方こそ、夢にも思わなかったのです」




青年もまた


「ああ、ああ」


と、きまり悪そうに頷きました。


「いやあ、あなたのおっしゃることも、道理だなあと思っていたところでした。僕は、実際、あなたの言うような、立派な画家ではありませんしね」




「そんなことありません。今、拝見した絵もどれもこれも素晴らしいものばかりです。わたしは本当に感動して、言葉もないぐらいなのです」




娘が笑顔を見せてくれたので、青年は、やっとほっとすると、微笑みを返しながら、素直に


「褒めていただき、ありがとう」


と礼を言いました。




「きっと、専門の先生に習ったことがおありなんでしょう?」



と、娘は言いました。



「あなたの描いた絵は、ありきたりではなく、どこか変わっていますもの」



青年は、ここに来る前にいた大きな町で、大変有能な師匠に習っていたことがあるのだと答えました。



「やっぱり、そうだと思いましたわ」



娘は、納得がいったようだでした。



「でも、こんな田舎では、やはり、画家としてお金をかせぐには大変なのではありませんか。このあたりでは、お金を払って絵を買おうと思う人は少ないと思います。どうしてまた、こんな辺鄙な田舎に、足を伸ばそうと思ったのですか」




「確かに、都会で描いていれば、まがりなりにも、絵の買い手はつくもんですが」



と、青年は答えました。



「でもね、ここに来たのは、絵を売るためではないんです。僕は、自分と向き合いたくなって、景色の素晴らしい、この地に来たのです。本当の自分を探すために、正直に向き合いたかったからなんです」




「自分と向き合う?」



娘は、不思議そうにたずねました。




「ええ、これが自分の絵だと思える絵を描きたくなったんです。そのためには、静かなこの地が一番だったのです」

 



娘は、青年の言っていることが分からないようでした。




「でも、あなたはそのために、泥棒にお金をとられてしまって、大変な目に遭ったんじゃありませんか。田舎はいいと都会の方はいいますけど、このあたりは貧しくて、治安もよくないんですよ」




「こんな目に遭ってまで、まだここに居座っているなんて、僕のことを気が変だと思っているのでしょうね」



青年は言いました。




「気が変だとは思いませんが」



娘は言いました。



「でも、わたしなら、そんな大変な目に遭わされた土地に長居はしないと思います。それで、本当の自分の絵というものを、あなたは、ここで描くことができたのですか」




「いいえ、残念ながらまだ」




「自分の絵を描くことができるようになれば、それがどうなるというのですか?絵を高く買ってもらうことができるようになるのですか」




「もちろん、いくらで絵が売れるかというのは大事な問題です。でも、僕に絵を教えてくれた師匠は、本当の自分の絵を描かずして、一体どうするつもりなのかと言っていました」




「芸術家のおっしゃりそうなことですわね」



娘は言いました。



「でも、それでは食べていけるとは限りませんわね」




 青年は、返す言葉がありませんでした。心に思っていたことを言いあてられて、恥ずかしくなったのです。



彼はだまってしまいました。




 しばらくすると娘は、「明日、またお邪魔してもいいですか」と言いました。



「あなたのお話しをお聞きしたいのです、かまわないですか」




「ええ、かまいませんが」




「では、明日同じ時間にまた来ますわ」



そう言って、娘は立ち去って行きました。





 翌日から、看護婦の娘は毎日青年が絵を描く時間になると、姿を現しました。



ときおり果物などの差し入れを持ってくることもありました。



青年は、彼女にモデルを頼むこともありました。娘は、青年の旅の話が面白いらしく、あれこれ質問するので、青年は描きながら、この一年近くの旅の道中での話を、娘に話してやりました。




娘は、「まあ、そんなことがあったのですか」と言ったり、



「それは大変だったでしょう」と同情したり



「素晴らしいですね」と褒めたりしました。



特に、青年が、前の町で、百万もの大金で大作を宰相に売り、町一の絵描きになれそうだった矢先に、売上金をリューマチの母親を持つ家族に渡して出てきた話に、非常に興味を持ったようでした。




「百万で絵が売れたときは、雲に届くぐらい高く舞い上がったような、最高の気分になったものですよ」



青年はうちあけました。



「これで、父との約束が果たせたと思いました。その百万で、父の病気を癒してあげられると思いました。僕が生まれてこのかた、あれほど気持ちが高揚して、気分がよかったときはなかったですね」




「それでもあなたは、その百万を人にやってしまったのですね」




「そうです」




「町一の絵描きになるチャンスも、捨ててしまったのですね」




「ええ。僕は、まだ本当の絵描きではないのです。人の真似ばかりしている、まだまだ半人前の人間なのです。僕は、真似のうまい画家になんかなりたくありません。僕が描いた絵の値打ちをあげてくれたのは、師匠であって、僕ではありません。あの絵を売った代金を受け取るわけにはいかなかったのです。僕は、独自の個性を持った、自分という人間になりたいのです」




「人の真似のどこが悪いのですか」



と、娘は言いました。



「世の中には、真似をしている人は沢山います。わたしは料理の仕方も、手仕事も、農作業も、皆、人の真似をして覚えました。どんな天才も、模倣から技術を学ぶというじゃありませんか。それに、たとえ真似であっても、その絵を買っていった方は、満足されたのではないですか。あなたが師匠の絵を真似たところで、誰も傷ついていないのに、そこまで悩む必要があるでしょうか。せっかく手に入れた百万もの大金は、あなたのお父様の病気の治療に、役に立ったでしょうに。なんてもったいないことをしたのでしょう」




「そうですね」




「わたしには、わかりません。あなたは素晴らしい絵の才能をお持ちでいらっしゃるのに、あなたは、何が満足できないのですか」




「ありがたいお言葉ですが、僕の絵の素晴らしさは全て師匠から伝授されたもので、僕のオリジナルではありません」




「あなたは、自分の素晴らしさに、気づいていないのだわ」



娘はじれったそうに言いました。



「あなたの絵の技術は、その師匠から受け継いだものかもしれません。でもこの木をご覧なさい」



娘は、自分達の傍にそびえている大きな木を見上げ言いました。



「この木を、あなたのように熱心に観察し、情熱をこめて描いた人は、この世にひとりとしてなかったわ。それにほら、あなたの描いた木の絵を見て。あなたの師匠がもし生きていたとして、今、この木を描いたとしても、決してあなたの描いた絵と同じにはならないと思うわ。あなたの描き出したこの町の風景、この木の風景は、あなたのものよ、あなた自身のものなのよ」




「あなたは、これが、僕の絵だと言うのですか?」



年は、自分の描いた絵を指さして言いました。




「ええそうよ。この絵を描ける人は、世界中であなた以外にいないと思うわ」





 秋の取り入れの季節がほとんど終わりに近づいてきました。しかし、青年はまだこの町での仕事が終わっていないような気がしていました。


自分でもよくわからなかったのですが、この町の自然や、身も知らぬ人達と向き合っていると、不思議と心が休まるのが理由だったのかもしれません。


知らない誰かと共に汗を流し、共に食事をし、互いに労働をいたわる、その単調な活動のちいさな行間に、青年は、自分の中から穏やかな心の波長を感じていたのでした。




「お前のところに遊びにくる、あの看護婦の女の子さ」



同僚の男が、そっと青年に耳打ちしました。



「お前に気があるんじゃないのか?」




「ええ?そうかな」



青年は、意外な言葉に驚きました。




「そうともさ。おれらの誰が、あのコに話しかけても、あんな風に笑いかけてくれたりしないぜ」




「そうかい?」




「きみは、刈り入れが終わったら故郷に帰るんだろう?もし、あの娘がお前に気があるんなら、一緒に連れて帰ってやったらいいじゃないか」




「そんなこと考えもしなかったよ」



青年は、思いもよらない話にとまどいました。




「お前だって、その気があるんじゃないかい」



男は言いました。



「どうしてそう、グズグズしているのさ」





 刈り入れが終わり、仕事が打ち切られると、青年は帰り支度を始めなければならないと思いました。


いよいよこの町に留まる理由がなくなったのです。



そんな折、看護婦の娘がやってきて青年にこう言うのでした。




「名主さんから、物置小屋と家畜小屋の修理を、この冬までにしてくれる人を、探して来てくれと頼まれたの。よかったら、あなたがその仕事を受けみたらどうかと思って」




「えっ、僕が?」



青年は驚いてたずねました。




「そうよ。故郷には、この冬までに帰ればいいって言ったでしょう。あと数週間ですけど、ここに滞在することができれば、あの木の絵を仕上げることができるんじゃありませんか」




「ええ、それはもちろん」



青年は、仕事をもってきてくれた娘の厚意がうれしくて、顔を真っ赤にさせて礼を述べました。



「そうさせてくれば、どんなにか助かるか。どうも、ありがとうございます」




「どういたしまして」



娘は笑って言いました。



「わたしも、あなたとのおしゃべりが好きなので、あなたがここに居て下されば、わたしも楽しいのです」





青年は、旅の最後の絵に、この田舎町のシンボルともいうべき、この一本の木の制作に全力を傾けました。



前の町で描いていた時と比べても、特別画風が変わったというわけでもないのですが、あなたの描いた絵は、あなた自身のものだと娘から励まされたことで、青年の心は軽くなり、描きつづける元気が沸いたのでした。



青年は、描きながら、これが、この旅での最後の絵になるだろう、この絵が、描き終わる頃にはあたりはすっかり冬景色になってしまうだろうと思いました。



自分はそろそろ覚悟を決めねばならない。



青年は、故郷の父に、今は木の絵を描いている、これが描き終わったころに、故郷に帰るからと手紙を書き送りました。





絵の仕上がり具合を毎日見に来ていた娘は、後数週間で、青年とお別れかと思うと残念でならないと言いました。




「でも、故郷でお父様がお待ちになっているのに、わたしが引き止めてはいけないわね。あなたの帰りを、首を長くしてお待ちでしょうから」




「どうでしょうか」



青年は力なく答えました。



「大成功して帰ってくると、大口をたたいておいて、一流の画家どころか、一文無しになってしまいましたからね」




「もっと自信をお持ちなさいよ」



娘は、強く励ましました。



「子供の帰りを喜ばない親がいるものですか。嬉しくないと思わないわけありませんよ。よかったら、わたしがあなたのお父様に、一筆書いてあげましょうか。あなたが、この町でどれほど素敵な絵を描いているかということを」




「ええ?」




「ええ、そうよ。あなたの絵を評価し、賛美する人間がいると知れば、あなたのお父様もきっとあなたを誇りに思うと思うわ」





 絵がそろそろ仕上がる頃、青年は、娘のことばかり考えるようになっていました。



自分を立派な画家だと言ってくれる娘に、心から感謝し、あたたかい気持ちが湧き上がるようになったのです。



青年は、毎日絵を見に来てくれる娘に何かしたいと思って、娘の肖像画を描き、それを彼女に贈りました。絵を見た娘は、非常に感動した様子で熱く礼を述べました。




「これは私だわ」



娘は絵を見て、感激をあらわにしました。



「こんな風にわたしを描けるなんて、あなたはわたしのことをとてもよく知っているのだわ。この絵を、この町の人達に見てもらうわ。そしたら、誰もあなたのことをうさんくさい絵描きだなんて言う人はいなくなると思うわ」



娘は言いました。




 仕上がった木の絵を見に、町の人々が青年に会いに来ました。



最初は青年のことをなにかと煙たがった町の人々でしたが、青年の腕前の評判を聞きつけ、興味本位でやってきたのです。



彼らは、この木はもう何年もこの町にあったが、この木を描いた人は初めてだと口々に言いあいました。




「こんな変哲のない、普通の木が、こういった絵にかわるなんて、まあ、不思議なもんじゃないか」



と、彼らは口々に言いあいました。




絵を与えたあの少年も見に来ました。




彼は、もらった絵を母親にみせたところ、大変感心して、よくお礼を言うようにと言っていたと、青年に話しました。




「それは、どうも」



青年は少年に言いました。




「それでね、あんちゃん」



少年は青年の耳に口を近づけて囁きました。



「村では、悪い噂が広まりやすいから、気を付けるようにって、母ちゃんがあんちゃんによく言っておくようにってさ」




「悪い噂?悪い噂って、何のこと?」



青年は驚いて少年にたずね返しました。




「そうだよ。あんちゃんが、看護婦のねえちゃんと、仲がよすぎるって、皆噂しているってさ」




「看護婦のねえちゃんと仲よくするのは、悪いことなのかい?」




「ドートク的に問題なんだって、かあちゃんは言っていたよ」




「ドートク的に?」




「うん。最近の若いもんは、ケジメがないってさ。にいちゃんは、看護婦のねえちゃんと「ねんごろ」になっているに違いないって。ねえ、にいちゃん。「ねんごろ」って一体どういう意味?」




 青年は答える代わりに、顔を真っ赤にさせました。




町の人が、自分に対してどんな考えを持っていたのかと想像すると、恥ずかしくて顔も上げられないような気がしたのです。




答えを知りたがっている少年を尻目に、青年はそそくさと絵を片づけると、出発の朝出発するために、急いで荷造りを始めました。




荷造りの最中に、客がきていると告げられて、青年は表に飛び出していきました。名主さんに挨拶に行ったのでしたが、留守だったので、わざわざ宿舎まで来てくれたと思ったのです。




しかし、戸の外で待っていたのは看護婦の娘でした。




「こんにちは」



娘はにっこりとほほ笑んでいました。




「ああ、はい、あの、」



青年は、耳まで真っ赤にさせて、ろくすっぽ答えられませんでした。




「あの、こんにちは」




「絵が仕上がったそうで、見に来たのです」




 青年は、戸口のすぐ傍においてあった絵を、何も言わずに指さしました。娘は、近くまでよっていくと、ほれぼれした様子で、眺めていました。




「素晴らしい出来じゃありませんか」




「はい、どうも」




「本当に、自信にあふれた個性的な絵だと思います。なんてロマンチックなんでしょう」




 青年は、もじもじして答えることができませんでした。




「この絵の引き取り先は、決まっているのですか?」と、娘は言いました。




「いえ、まだ…です」




「そうですか。この木の絵は、この町そのものを象徴しているように見えますわ。せっかくこの町を描いた絵ですのに、これは、やはりこの町にあるべきだと思いますけど、やっぱり故郷に持ち帰ってしまうのでしょうね?」




「ええ、そうするつもりです」



青年は、小さな声になって言いました。



「明日の朝には、出発するつもりですから」




「明日の朝ですって?」



娘は驚いて叫びましだ。



「どうしてそんなに早く行ってしまうのですか?」




「えっ、だって、もう絵は仕上がったし…これ以上ここにいるわけには」




「でも、もうちょっと待ってください。わたし、あなたに話が、どうしても話さなければならないことが…」




「ええっ?」



青年は、もっと真っ赤になって答えました。



「話ってなんですか?」




「それは…」



娘は、すぐに答えられないようでした。




「何についての話ですか?」




 娘は、言いたいけれど言えない事情があるようで、それでいて、青年の態度に何か苛々しているようだでした。




「あなたは、今のままでいいのですか?」




「は?」




「あなたは言っていたでしょう。このまま故郷に帰ることはできないと」




「ええ、まあ」




「あなたは、自分が自分である証をたてたいのではありませんか?」



娘は、気持ちを高ぶらせました。



「欲しいものや、したいことを口にしても、それでなお、実行しなければ、希望はかないませんわ。もっと、自己主張しなければ」 




 青年は汗をかきながら、何を言うべきなのかと思いました。




「ねえ、おっしゃりなさいよ。はっきりと」




「言う?」




「そうですわ。もっと、心に持っている気持ちを、はっきりと口にするのです」




「口にする?」




「あなたは、誰にも何もいわず、たったひとりぼっちで故郷に帰ってしまうおつもり?」




「ひとりぼっちで?」




「そうですわ。そのまま帰ってしまうつもりですか?」



娘は怒ったように言いました。




 そう言われて、青年は、手に汗を握りしめ、もう少しであなたのことが好きなのだという言葉が、唇から出てしまうところでした。





ふたりの間に、奇妙な沈黙が流れました。




結局、耐えられなくなった娘の方が、静かに切り出しました。





「あなたは、自分が立派な画家であることを、もっと口にするべきですわ。実を言いますと、わたしの夫は商人で、ずっと遠方に行商に行ったきりでしたけど、二、三日前に帰ってきましたの」




「夫?」




「そうですわ」



娘は言いました。



「わたしは、夫に、あなたが下さった絵を見せたのです。夫は、あなたの絵に大層感心しておりました。夫は、旅先で絵画も扱った経験もあって、それで、もしよかったらこの村の近くにある町の画商を紹介しようかと、そう言っているのです。あなたを失望させてはいけないと、話がはっきりするまで内緒にしようと思っていたのです」


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