4.『ふるさとに似た村』
4.『ふるさとに似た村』
青年は、町から離れた静かな場所に移り住もうと、どんどんと森の中に入っていきました。都会の喧騒から離れて、自分と向き合いたかったのです。
青年が、次の居場所に選んだのは、深い森と、きらめく湖がある農村でした。ここでは、人々は農業に従事し、静かに暮らしていました。
青年は、この土地でなら、自分に合った絵を描くことができるのではないだろうかと感じました。
「よし、ここで、もっとすごい絵を描いてやるぞ」
勢い込んだ青年は、村の宿の一室にアトリエを構えると、毎日こもって絵を描きはじめました。
窓から見える景色、室内の風景、宿屋の客、ありとあらゆるもののスケッチをとり、自分なりの絵を、模索し始めました。
師匠の言った、自分にしか描けない、独特の画風を作り出してやろうと心に決め、来る日も来る日も、キャンバスと向き合いました。
しかし、どの絵にも、何かが足りない気がしました。
青年は、構図を変えたり、色合いに変化をつけたり、または、思い切って、師匠から教えてもらった全ての技術を駆使し、または捨てて、自分なりの画風を作り出そうとしましたが、どうもうまく行きません。青年の焦りは、だんだんと募ってきました。このままでは、いけない…
青年は、宿の集まる旅人に、絵を見せてまわって、批評してもらおうとしましたが、この村にやってくるどの旅人も、絵などに興味はなさそうでした。
青年は、宿屋の主人に頼んで、一枚でもいいから、自分の描いた絵を宿の部屋に飾ってもらえないかと頼みましたが、部屋にこもりきりでたったひとり、絵ばかり描いている青年を普段からよく思っていなかった主人は、承知しませんでした。
青年の所持金は、残り少なくなっていました。
何とかしなければならないという責務と、焦りからくる不安が全身にのしかかり、彼は、精神的にだんだんと追い詰められていきました。
ここまでくると、絵を描くどころではありません。
青年は描くのをやめて、宿を飛び出すと、やみくもに通行人に声をかけ、絵を買ってくれないかと頼みました。
彼は、スケッチブックに描きためた絵、どれも習作ばかりでしたが、一枚でも多くの絵を売って、お金にしようと、人々に見せてまわりました。
しかし、村の人々は農作業に忙しそうで、絵画には興味はなさそうな上、よそ者の青年に対して、何者だろうかと、けげんそうな視線をなげかけるだけでした。
こんなことが続くと、世界中が自分の敵のような気持ちになるものです。
青年は、疲れきって、駅のベンチに座り込みました。
「今なら、もっと賑わいのある町に移動するお金はある。このままここに滞在するより、ずっと稼げる可能性があるじゃないか」
青年は、絵を描くことをすっかり忘れ、今日の糧を、明日へ命をつなぐお金をどこから調達しようかと、そればかり考えていました。
青年は、こんな田舎の村に腰を据えたのがそもそもの間違いだと思いました。
「このまま、この列車に乗って、この村を離れよう」
青年は、鞄を駅のベンチに置いて、次の列車はいつくるのか確かめにいきました。
しかし、そのわずかな間鞄から目がはなれた隙に、これまで稼いだ残りのお金が入った鞄はこつ然と消えてしまったのでした。
ほんの数秒の間、目を離した隙のことでした。
アッと言う間の出来事で、誰かに文句を言う暇さえありませんでした。
こんなへんぴな田舎に泥棒がいるとは思えなかっただけに、青年はショックを隠し切れませんでした。
「一銭もお金がなくて、今後、どうしたらいいのだろう・・・」
全財産が、絵の道具だけになってしまった青年は、駅のホームでしばらく座り込んでいましたが、考えても、何もいい案は浮かびません。
彼は、宿の主に事情を話して、絵が売れたら宿代を払うから、一泊でもいいから泊めてくれと交渉しようとしました。
宿の主はうさんくさそうに、「おあいにくだが、無一文を泊めるようなことを、うちはしないんでね」と、青年を見下したように冷たく言いました。「金がないなら、今日中に出て行ってくれ」
青年は、その日は仕方なく、野宿をせざるを得ませんでした。
秋の冷え込みは厳しく、食べ物を買うお金もないのですから、ひもじくわびしい夜となりました。
朝になって、目を覚ますと、体力は衰えて、立ち上がることもできなくなっていました。
ひどい悪寒と震えを感じた青年は、道端で何度も倒れこみました。
体は、こわばり、熱っぽく、疲れ切っていました。
しかし、地べたで寝そべっていても、青年の思いを理解してくれる人が現れるでもなく、助けてくれる人など来やしません。
青年は、故郷からこんなに遠く離れた地で死ぬのかと思うと、無念でたまりませんでした。
彼は、何度も立ち上がろうとしましたが、どう頑張っても、体を起き上らせることができませんでした。
目の前の光が明滅し、音さえ聞こえなくなったようでした。
前方から人影が歩いてきました。
その人は、道のだいぶ端っこを、雨をよけるようにうつむいて歩いていたので、青年が地べたに倒れていることに気が付かないようでした。
彼は、声を振りしぼって助けを呼ぼうとしましたが、かすれた声しかでません。
「待ってください」と、彼は、再び言いました。
「助けてください」
人影は、青年のことに気が付かず、そのまま通り過ぎてゆきました。
青年は、もうだめだ、と絶望の呻きをあげました。
これ以上、生きてはいられない、ここで死ぬしかない、と感じました。
涙があふれ、かみしめた唇から血が流れました。
地面の冷たさを、この世の厳しさを、そして、これまで一生懸命努力してきた全てのことが胸にしみ、あふれかえりました。
それらの、どのひとつをとっても、青年にとっては貴重な体験でした。
しかし、どんなに頑張っても、人生には越えられない壁があることを、青年は、そのとき全身全霊で感じました。
青年は、生まれて初めて、自分など、生きている価値はないと思ったのでした。
「お父さん、お許しください」
と、青年は、心の中で叫びました。
「故郷の皆に、立派な画家になって帰ってくると言ったのに、約束を果たせずしてここで命を終えることを、お許しください」
青年は、しばらく身を地面に横たえていました。
幻の中で、お父さんが「苦しい時は、自分を信じて壁を乗り越えなさい、お前は決して一人じゃないのだから」と言っていました。
青年はかっと瞼を開けました。
生きなければ、
生きて帰って、お父さんや、故郷の人々に元気な姿を合わせねばならないと思いました。
青年は最後の最後の力を振り絞り、「助けてくれ!」と叫びました。
遠くの方で誰かが「どなたか助けてください、ここで人が倒れています」
と言った声が聞こえた時は、青年は殆ど意識がありませんでした。
その声に誘われて、複数の人々が集まってくるのが聞こえました。
「誰だ、この人は?」とか、「死んでいるのか?」といった声がうっすらと聞こえました。
青年は、誰かに助け起こされたことだけを感じましたが、その後の記憶はありませんでした。
青年は、風邪をこじらせて肺炎をおこしかかっていました。
病状はなかなかよくなりませんでした。
熱に浮かされている間、彼は夢を何度も見ました。
故郷のお父さんや、お隣のおじいさん、懐かしい面々が次々と現れたかと思うと、次に、絵を買ってくれたお客さんや、絵の描き方を教えてくれた師匠、お世話になった多くの人々が出てきては、消えて行きました。
青年は、夢の中で、「自分は、どうしたらいいんだろう、どうやったら、目指す地に進めるのだろうか」と、何度も何度も問うていました。
彼らは、青年の問いに答えず、ただ、微笑んでいました。
青年が目を覚ましたのは、一週間ほどたった頃でした。
青年が世話になっていたのは、この村のある名主の厚意で運営されている救貧院でした。
「あなたは、道端で倒れていたのですよ」
青年の世話をしてくれた看護婦が言いました。
「あなたが、あの時、助けてと言わなければ、わたしは引き返してきませんでした。最初は、誰かがいたずらで幽霊の真似ごとをしていると思ったのですけど、どうしても気になって、引き返してきたのです。それで、人に頼んで、ここに運んでもらったのですわ」
青年は、救貧院で手厚い看護を受け、次第に体はよくなりましたが、心の方はまだ病んでいました。
絵を描きたいと思わなくなったのは、生まれて初めてでした。
心の底にあった支えがなくなって、彼は、今後どうやって、何を目標に生きていけばいいのか分からず、ただ茫然としていました。
体は、十日ほどすると、すっかり元通りになりました。
救貧院を出ることになった青年は、泥棒に有り金全てを盗まれてしまったので、ここでお世話になったお礼を支払うことができないと、看護婦に言いました。
看護婦は親切に、「それでは、名主さんのところに行って、仕事をあっせんしてもらったらどうですか」と、教えてくれました。
青年は看護婦に教えてもらった通り、村の名主を訪ねました。
ちょうど収穫の時期で、沢山の臨時雇いの労働者を受け入れていたので、青年もすぐに雇ってもらうことができました。
青年は、畑での収穫の作業に参加しました。
病み上がりに肉体労働はきつかったのですが、久しぶりの、太陽の下での労働は、さわやかな秋の空気と、まぶしい太陽を心地よく感じることができ、青年の心は、いくらか癒されたように感じました。
「あんた、故郷はどこかね」
と、同じ臨時雇いの日焼けした顔の男が青年にきいてきました。
故郷のことをたずねられて、青年は、今頃、故郷の畑にも収穫の時期がきており、目の前にある一面黄金色のじゅうたんと同じ景色が広がっていることに気づきました。
青年は、実り多き秋の風景を眺め、故郷を出てきた頃のことを思い出しました。
冬が始まる前には、必ず戻ってくると約束したときは、ちょうど刈り入れが終わってしばらくした頃でした。
たった一人、リューマチの痛みを抱えながら、額に汗し、鎌を手に、刈りこみに精を出している父の姿が、瞼の裏にちらつきました。
お父さんのことは心配しなくていい、と言ってくれた地主さんや、お隣のおじいさん、毎日、足を運んでくれているであろう、パン屋のおかみさんに、どの面さげて合わせる顔があるだろうかと考えると、青年は、恥ずかしくてたまりませんでした。
若いということは、それだけで素晴らしいことだと、そう言った詩人がいましたが、青年は、自分が未熟で、経験がないばかりに、お金と時間を浪費し、ただ周りの人々に迷惑をかけたのではないかと、無念な気持ちでいっぱいでした。
それでも青年は、秋の西陽を浴びた美しい秋の田園を眺め、「今からでも間に合うかもしれない」と考え、再び絵筆を握ることを考えましたが、スケッチブックを開いたところで、何を描くべきか分からず、まったく手が動かないのでした。
「絵なんて、描いて何になるのさ」
同僚の男が、青年の描いた絵を覗き込みながら言いました。
青年は恥ずかしそうにスケッチブックを閉じながら、自分は絵描きだからと答えました。
「絵描きがどうして、こんな田舎に来ているのさ?」
と、その男は不思議そうに青年を眺めました。
青年は、田舎に残してきた病気の父親を楽をさせるため、ここで絵の修業を積むつもりで来たのだと答えました。
「金をかせぐつもりなら、こんな田舎で仕事をしようなんざ、誰も思わないと思うがね」
青年は、自分の納得のいく絵を描きたくなって、静かなここで修業を積みに来たのだと、言い訳をしました。
男は、ますます青年の行動に納得がいかないようでした。
彼はこう言いました。「よくわからねえな。病気の親父さんに楽をさせたいと思うのなら、絵を描いて稼ごうなんて、まともな人間の考えることじゃねえな」
青年は、その男の言うとおりかもしれない、自分はまっとうではないかもしれないと、自分を疑いました。
故郷の村でも、小遣い程度にしか稼げなかったし、橋のある町で大作が百万もの大金で売れたのは、師匠から伝授された技術が素晴らしかったからで、後は、運がよかったから他ならないのではないかと。
青年は、こんな田舎で暇をもてあそんでいて、一体何になろうか、早く故郷に帰って、父の畑仕事を手伝った方がいいのではないだろうかと思いました。
彼は、汽車賃がたまったら、すぐに出発しようと思いましたが、それでも、なかなか決心がつかないのでした。
「僕は、立派な絵描きになるって、約束したんだ…」
ある日、救貧院で世話になった看護婦の娘と、道で偶然会ったので、青年は、帽子を取って挨拶しました。
「その節はお世話になりました。お陰さまで名主さんのところで働かせてもらっています」
「そうですか」と、看護婦の娘は言いました。
「お世話になったお礼をまだ、持っていっていませんでしたね。お金がたまれば、すぐにでも、お支払に行きますと、院長さんにお伝えください」
「わかりました、伝えておきます」と、娘は答えました。
「あなたは、毎日あそこの救貧院で働いているのですか」青年は、たずねました。
「毎日というわけではありません。家事や農作業の手伝いなど、この季節にはすることは山ほどありますもの」
看護婦の娘は、救貧院で世話をしてくれた時より、ずっとよそよそしい感じでした。
「ところで、あなたは、いつ、故郷にお帰りになるのですか」と、娘はききました。
「まだ決めていませんが。刈り入れが終わるまでは、ここにいることになるかと」
と、青年は答えました。
娘の表情の端に、軽蔑したような冷たさがよぎっりました。
「あなたは、故郷にご病気のお父様を、ひとり残していらしたそうですね。噂で聞きましたわ」
「はい、まあ」
「お父様をひとり置いて、絵空事を追いかけるために、こんな遠い地でのらくらしているのだと。それは、本当なのですか」
「絵を描いて生計を立てることを目指していますが」
青年はどもりながら答えました。
「それを、絵空事とは思っていません」
「絵空事でないのなら、どうして、一文無しになって、道端で倒れたりすることがあるのでしょうか」
「それは、説明したではないですか。泥棒に有り金を全て盗まれたからです」
娘は、青年を最初から疑っているようで、彼の説明をはなから信じていないようでした。
彼女は加えて、「絵空事でしょう。本気で絵の勉強をしたいのなら、こんな田舎でふらふらするわけありませんよ」と、きつい口調でこう冷たく言い放ったのでした。
この娘の最後の言葉は、青年の胸に重く響きました。
本気で画家になりたいのなら、絵を描くことになんら関係のない、こんな片田舎でふらふらするような人間はいないのだと、自分はそう見られているのだと感じました。
しかし、青年はもはや悔しいとさえ思わなくなりました。
村人達や、看護婦の娘の目に映る彼の姿こそ、本当の自分なのかもしれない、自分は、絵空事を追いかけている、ただの浮世離れした人間なのだと思い始めるようになりました。
青年は、真っ青の空の下の、すっきりとしたすがすがしい畑の姿を眺めました。
刈り入れが殆ど終わったので、刈り入れの手伝いをする男達は最初の半分以下に減っていました。
青年は、名主の家のすぐ裏手を流れる小川の土手に座り、じっとひとり考え事をしていました。
彼は、村に帰ろう、父のところに帰って、絵の修業が失敗に終わって、手ぶらで帰らざるを得なかったことを詫びて、一生農夫として父を支えて生きる決心をしようとしました。
青年は、心地よく吹き抜ける風を感じていました。太陽の光に反射した水面のきらめきが、さわさわとなぐ梢に、呼応しているかのようでした。
土手には、大きな木が生えていました。
その木には威厳と力強さがありました。
まがり、うねりながら、太く伸びた幹、力強く伸びた枝葉が、その木の歴史を物語っていました。
長い年月をかけて、嵐に遭ったり、枝を失ったりしながらも、力強く、今に至るまで命を長らえてきたように見えました。
青年は、不覚にも涙が込みあがるのを感じました。
涙腺はゆるみ、あふれくる嗚咽をこらえることはできませんでした。
青年は、涙を流しながら、木に向かって、お前は立派な木だ、どんな苦境に遭っても、お前は決して負けなかったと、話しかけました。
青年は、木に近づき、力なく幹によりかかりました。
木はとても暖かく、優しい癒しの手を持って受け入れました。
青年は、その日から毎日その木の傍にやってきて、二言三言、その木に話しかけるようになりました。
その様子を見ていた、村人達は、青年のきっかいな行動を気味悪がりましたが、青年は、一向に気にしませんでした。
木の傍に行くと、母親の胎内に戻ったかのような、えもいわれぬ安らぎに包まれたのです。
あるときから青年は、その絵が良く見える川べりの土手に座って、木の姿を絵に描きはじめました。秋の刈り入れは、もうすぐ終わりに近づいていました。